第4話 旅立ち
稲葉山城の大広間に戻ると、斎藤家の家臣が一堂に平伏していた。光秀も叔父とともに最後列へ腰を下ろした。
するとちょうど利政が上座に現れ、声を掛けた。
「皆、面を上げよ。此度の活躍、誠に大儀であった。この美濃が守られたのは、ひとえに皆の働きによるものである。」
「ははぁ!」
斎藤家家臣が上げた顔をもう一度下げる。光秀は戦のあとの論功行賞がこれほどまでに緊張感を持ったものだとは知らなかった。
「皆の働きをしかと吟味した上で、追って褒美をつかわす。」
「有難き幸せにございまする。」
家臣達は声を揃え、一斉に平伏する。その様子を満足そうに見ると、利政は早々に広間から出ていった。
そう言うと利政は光秀と光安の方を見た。
「それと、兵庫頭、十兵衛、少し話がある。」
光秀は不安を感じた。利政がこういう時は大抵ろくな話ではないのだということを聞いていたからだ。
「では、今日のところはこれで解散しよう。皆、疲れを癒すが良い。」
続々と同僚が帰り始める。光秀は叔父と広間の中央へ移動した。
やがて、広間にいるのは明智の二人だけになると、利政がおもむろに口を開いた。
「十兵衛にはやってもらいたいことがある。が、その前に兵庫頭よ。」
「はっ。」
「十兵衛の働き、見事であったな。亡き光綱も喜んでいるであろう。十兵衛をここまで育てたのはお主のおかげじゃ、礼を申すぞ。」
「誠に忝きお言葉、ありがたき幸せに存じます。」
利政と叔父の会話を聞きつつ、光秀は警戒している。
(何が言いたいのだ? 叔父を登用するつもりなのか? それならばなぜ私に職務があるなどと…)
そう思った時だ。
「十兵衛」
不意に利政の声が飛んだ。慌てて首を垂れる。
「戦の前にした鉄砲の話を覚えておるか?」
「はっ。」
ますます何をしたいのかわからなくなりつつ、光秀は答えた。
「よし。鉄砲は南蛮から種子島に伝わった後、摂津の堺で主に取引されておるらしいのじゃ。」
摂津とは、今の大阪府北部から兵庫県にかけてのことだ。
「十兵衛には、その鉄砲を手に入れてきてもらいたい。」
「はぁ。」
光秀にもようやく利政が何を言っているのかが分かってきた。摂津まで行って鉄砲を買ってこいということなのだろう。
だが、この美濃から摂津まで行くには莫大な金がかかる。各荘園に設けられた関所の通行料、宿屋の宿泊代もろもろだ。おまけに鉄砲はとても光秀のような小者に出せる金額ではない。
「御屋形様、その際の銭は…」
不躾だとは思ったが尋ねると
「無論わしが出す」
と不機嫌だが返答が返ってきた。
(当然のことだよな、公用だから)
そう思って安心したのも束の間、利政の笑い声が聞こえた。
「顔に出ておるぞ十兵衛」
「申し訳ございませぬ」
「それに何を勘違いしておる」
急に利政の声が厳しくなった。
「わしが出すと申したのは鉄砲の金だけじゃ。他は自腹だ」
光秀はこの瞬間、なぜ利政が世間から吝嗇と言われるかが身に染みて理解できた。
「では、行って参る」
「いってらっしゃいませ。お体は大切に!」
明智家の郎党に見送られて光秀は旅に出る。
(それほどの大任なのだろうか)
歩きながら光秀は考えている。武器を買いに行かせるのなら足軽にでも命じれば良いものではないか。それをなぜ利政はわざわざ直臣の光秀に生かせるのか。
(御屋形様のお考えは誠にわからぬ)
だが、光秀にとって初めて美濃国外へ出る旅になるのだ。高揚の気持ちがやはり最も強かった。
三日かけて京に入った。人生初の入洛である。
(しかしひどいものだな)
光秀は初めにそんな印象を受けた。いたるところに乞食や餓死者の死体が転がっている。天皇が住む御所の壁すら穴が開いたままだ。
(明智荘は恵まれているのかもしれぬ)
その後、光秀は見聞を広めるために京の街を歩き回ったが、民は粗末な布一枚を羽織っているだけで寒さに震え、幼い子供は泣き叫ぶ。そんな光景がいたるところで見られた。
光秀の職務はとりあえず鉄砲を手に入れることだ。そのためには堺に行かなくてはならない。
(とりあえず堺へ行こう)
そう考え、光秀は凄惨な京から逃げるようにしてさらに西に向かった。
日が暮れてきた。
(宿をとらねば)
宇治にさしかかった頃、ちょうど良く客を泊めているという寺が見つかったので、そこに泊まることにした。しかし、相部屋になるという。
光秀は構わなかったが、初めての旅であるということもあり、不安はあった。それに京者は礼儀に厳しいと聞いている。恥をかかないようにしなければならない。
部屋に入る。誰もいない。
(出かけているのか…)
と思ったとき、突如隣のふすまが勢いよく開け放たれ、一人の武士が斬りかかってきた。
「曲者かっ!」
と叫び、光秀もとっさに刀を抜いてすんでのところで刃を受けた。
鍔迫り合いとなってお互いの顔が見える。
「誰ぞ!」
相手が低い声で言った。
「名乗られよ」
(京者のようだな…)
光秀は相手の話し方を聞いてそう思った。
「私は美濃国斎藤家家人・明智十兵衛である」
「証は?」
「ここにござる」
出発の前夜に利政から与えられた文書を出した。関所の通行手形にしているものだ。それを相手の武士に渡した。武士はじっくり目を通し、
「確かに、そのようですな」
と、口調を改めて言った。
「某は幕府奉公衆・細川与一郎藤孝と申します。先程の無礼をお許しください」
光秀は少し意外に感じた。幕臣とは畿内を荒らしているだけで自らの出世のことしか頭にないように思っていたからだ。幕府奉公衆と一介の国衆という立場の違いがあるのにも関わらず、誠意を感じられた。
(これほど誠実なお方もおられるのか)
「こちらこそ、とんだご無礼を致しました。まことに申し訳ござりませぬ」
光秀も謝罪の言葉を発した。すると細川藤孝は
「どうです? 一杯飲みませんか」
と誘ってきたので、光秀は有難く誘いに乗ることにした。
「近頃は公方様をないがしろにし、京で好き放題に戦ばかり起こしております」
二人の会話は、今の京の情勢の話になった。藤孝は悲痛な面持ちで語っている。
「公方様には戦をお鎮めになる力はございません。細川や六角などに縋っていくしかないのです」
光秀は京が荒れている理由も納得でき、そのうえ藤孝の話が徐々に愚痴に近くなってきたので、
(そろそろ切り上げるか…)
と思った。そこでふと、
「細川殿、この辺りで鉄砲は手に入りませぬか?」
と訊いてみた。堺に行けばあるようだが、堺までは遠いため金がかかる。おまけにそこの商人たちに吹っ掛けられかねないとも案じていたからだ。
藤孝は少し考えたようだったが、すぐに
「鉄砲なら某の兄が何丁か持っております。かけあってみましょうか」
と言ってくれた。
「それは有り難い。お願い致します」
「では明日、兄の邸宅へ共に参りましょう」
光秀は、良い武士と会った、運がいいと思った。