第3話 戦国の世の常
刺さった。矢は首に命中し、さっきまで奮闘していた兵があっけなく地に崩れ落ちた。
「よくやったぞ十兵衛!」
光安が喜んでいるが、光秀には何も聞こえない。
(やってしまった……)
と呆然とたたずんでいるところに到着したのは、城から討って出てきた高政だった。
「見事だな、十兵衛。おれより先に敵を討っちまったか。ちっ、おれの負けだ。」
答える気にも気になれなかった。高政は光秀から返答が無いのも気にせず、敵に向けて駆け出していく。
一方で、光秀はしばらくの間、その場で固まっていた。
(私は人を殺した……)
覚悟したつもりでいたが、足りなかったかもしれない。
武士の子というのは幼い頃から、戦に出て活躍したいと願うものだろう。なにしろ、戦場は武士の晴れ舞台だからだ。光秀とて、同様だった。しかし、子供は戦を思い描くとき、人の命を奪うという当たり前の行為を重く考えたりはしない。
「十兵衛、そなたは武士だ。通らねばならぬ道は決まっている。武士として誇りを持て、な?」
光安も諭すように言う。光秀は絞り出すように叫んだ。
「こんな世はおかしい。人を殺して喜ぶとは……兵たちに罪はないはずなのに……!」
「だがな、十兵衛。世を変えるには戦うほかないのだ」
叔父の言葉を光秀は心の奥深くで聞いた。
※ ※ ※
「信秀様ぁ!」
「いかが致した」
「はっ! 青山与三右衛門様、お討ち死に……!」
馬鹿な、一体何が起こっている。信秀は動揺を家臣たちに悟られぬよう、冷静を保ちながら指示を出した。
「敵が討って出てきたのならば、数で勝る我らが敵を押し包んで利政の首を取るのみじゃ。皆、野戦の準備をせよ。」
「それが……わが軍内で流言が飛び交い、味方に裏切りが出たと思い込んだ兵たちが逃げ出しております!」
「なんだと……?」
それではもはや勝敗は決したも同然ではないか。これでは斎藤利政を討つどころか、自分の首さえ危うい。
家臣たちも全員同じことを考えているらしい。必死の表情で信秀を見ている。
「兄上、ここは私が時を稼ぎます。兄上はひとまず退避を」
信康が声を上げた。
(だが、今退けばわしの負けは決定する。こちらとて収穫をおろそかにしているのだ。ここで負ければ全てが無に帰する。)
斎藤方の喊声が近くなってきた。
「兄上! お逃げください!」
(またしても、負けるのか……。)
尾張の虎とも称される信秀は負けを認めたくないものの、しかし、死ぬよりはましだと考えた。ようやく、信秀が腰を上げた。
「仕方あるまい。信康、あとは頼む」
「お任せを」
織田信秀が撤退した。斎藤方の勝利が確かなものとなった瞬間である。
※ ※ ※
加納口の戦いと呼ばれるこの合戦は、斎藤方の勝利で幕を下ろそうとしている。
「あれが織田与四郎信康だ! 皆、かかれぃ!」
斎藤高政の指揮によって織田軍の殿軍だった織田信康も討ち取られた。
「十兵衛」
明智の一党も光安に率いられ、追撃に参加する。光秀も途中までは同行し、逃げる者も向かって来る者も構わず斬り捨てたが、名も無い足軽を四人程を倒したところで限界だった。
光安が「初陣で四人もの敵兵を倒すのはなかなか出来ることではない。もう休め」と言ってくれたので、離脱した。
戦場となった市街はすでに後方にあり、前には赤く染まった平原と長良川がある。そして、その至る所で敵味方が折り重なっていた。戦場の光景に地獄を見ていると、不意に「十兵衛」と声がした。光秀が振り向くと隣には、馬に乗った利政がいた。
「お主、初陣にして首級を挙げたそうだな。ようやった。」
「はっ、ありがたき幸せにございます。」
利政はしばらく無言で光秀を眺め、やがて口を開いた。
「お主の器量、このわしが一番高く買ってやろう。これからはわしのために精進してくれ」
「これからはわしのために精進してくれ」
利政がそう言うと、目の前にいる若武者は感激した様子で
「必ずやこの明智十兵衛光秀、御屋形様の御為に身命を賭してお仕えいたします!」
と涙を浮かべている。
(これはいい駒を手に入れたな)
利政には代々の忠臣という者がいない。美濃をわがものにする過程で荒っぽいことをしたために、むしろ嫌われているのも知っていた。また、長男・高政とも仲が悪い。このままでは家臣たちが高政と結びつき、自分を追いやろうとするかもしれなかった。
自分に忠義を尽くし、なおかつ能力もある武将が欲しいと思っていたところに現れたのが、光秀だったのである。
光秀はそんな利政の考えも知らず、直々にほめられたことに感激した。やがて、利政が去っていくと、光秀は
(御屋形様について行ってこそ、この戦国の世で生き抜くことができるはずだ!)
と、半ば確信に近い思いを抱いて立ち上がった。
(御屋形様の為、このようなところで甘えていられぬ。もっと強くならねば!)
もう一度、長良川を眺める。相変わらずの凄惨さであったが、それを見る光秀の目にはもはや恐怖の色は残っていなかった。このときに、戦国武将としての明智光秀が目覚めたといえるかもしれない。
光秀が一度稲葉山城下にある寺に入り、少し休んでいると、やがて、続々と斎藤兵が帰ってきた。
(叔父上達はどこだ……?)
探しに行こうと立ち上がったときだ。まだ若い武士が一人、満身創痍で寺に転がり込んできた。身体中から血を流しているその者は、光秀よりも年下に見えた。
「おい、大丈夫か?」
光秀が声をかけても、ただ呻き声を上げるだけである。
「ち、父上……。」
「む、わしはそなたの父君では無いぞ。」
それを聞くと、初めて顔を上げて光秀のことを見た。そして、はっとした表情を浮かべ、にわかに光秀から離れる。
「見苦しいところをお見せ致しました。どうか御心配な、さらず――。」
姿勢を整えてはきはきと話そうとするも、足元すらおぼつかないようで、その場に崩れ落ちてしまう。しかし、決して光秀の助けを求めようとはしない。
この少年はれっきとした武家の子であるに違いない、と確信した光秀は、少年を見守りながら尋ねた。
「そなた、どこの者だ?」
「某は美濃国衆・斎藤右衛門尉利賢が嫡男、内蔵助利三。」
というから、光秀は飛び上がるほど驚いた。親戚ではないか。叔父・光安の妻の兄が斎藤利賢なのである。思わず光秀も名乗ると、向こうも知っていたらしく、目を丸くして
「明智十兵衛様でしたか。では、親戚ですなあ。」
と言った。その様子は、まだ幼さが残っている。
「そなた、年はいくつなのか。」
「十三です。父が、立派な武者になるには早くから戦場に出たほうが良いと申され、この戦で初陣となりました。元服もこの前済ませたばかりです。」
「そうだったか、右衛門尉殿も手厳しいな。このわしも初陣だ。」
話しているうちに利三も元気が出てきたようで、同じ初陣仲間ということもあって、しばらく寺の縁側に座って語り合った。
「そろそろ、父上達を探しに行かねばなりません。」
「おう、またな。」
これが、明智光秀と斎藤利三の初めての出会いであった。
その後、光秀は明智一党の姿を見つけ、叔父・光安の姿が確認できて安堵した。その一方で、戦線を離脱したという罪悪感が光秀の中に蘇ってくる。
「叔父上、今日は大変申し訳ありませんでした。」
「気にすることは無い。御屋形様にも褒められたそうではないか。大したものだぞ。」
何故それを知っているのかと問うと、光安も利政から言われたのだという。
「十兵衛は美濃が誇る名将になると申されておったぞ。」
「いくらなんでも言い過ぎです。兵を率いたことも無いのに名将などと。」
慌てて否定するが、光安をはじめ明智党の者達は皆笑っている。
しかし、それだけ褒められると、利政に声をかけられたときの感激を思い出さずにはいられなかった。
(御屋形様は確かに認めてくださるお方だ。)
「そろそろ御城へ引き上げましょう」
「おぉ、そう致すか」
叔父と二人で稲葉山に帰る光秀の足取りは軽やかだ。歩きながら、一人、斎藤利政への忠誠を誓う光秀であった。