第14話 義輝
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光秀は越前で穏やかに暮らしている。しかし、彼の意思とは関係なく、長く続いた戦乱の時代は微かに動き始めていく。
桶狭間の戦いが起こったこの年、永禄三年。実は別の所でも衝撃的な合戦が行われたのだ。
京など畿内の大半を抑えている三好家にとって、唯一脅威となり得る勢力があった。近江・六角氏である。今は亡き六角定頼はかつて、畿内全域にとどまらず日本全国へ影響力を及ぼしていた。三好長慶でさえも、定頼が存命の間は衝突を避けた。
現在、当主の座には六角義賢が就いている。義賢の器量は到底定頼に及ぶものではないものの、近江国に揺るぎない勢力を誇っていた。将軍・義輝は常に六角家を頼りにし、長慶以下、三好家もこの沈黙している大勢力に一目置いていたのだ。
ところが、その六角家が――
北近江の一国衆に過ぎなかった浅井氏に足を掬われたのである。
北近江での独立を掲げて立ち上がった浅井勢は、野良田の地で六角軍を撃破。この戦で浅井勢を率いた浅井賢政の名が広く知れ渡った一方で、六角家の威信は著しく低下してしまった。
六角家が北近江に釘付けになり、いよいよ三好家の力が強まっていく。
そんな中、危機感を抱いたのが将軍に従う幕臣達である。
「十兵衛殿」
早速、細川藤孝が光秀のいる越前まで飛んで来た。
「貴殿は稀有な才覚をお持ちだ。是非とも共に公方様をお助けしようぞ」
「しかし、細川殿、わしはもう武士を辞めた。医者としてならば、公方様にお仕えするのも良いが」
と、冗談めかしく言ってみたのだが、藤孝は大きく頷く。
「それでも良い、それでも良いのだ十兵衛殿。公方様はとにかくお味方を欲しておられる。どうだ、共にお助けせぬか」
(弱ったな……)
「しかし、わし一人がお仕えしたところで、公方様のお力になるのは難しい。六角様も畿内の情勢に絡むどころではなくなってしまわれた。こうなっては――」
「違う、だからこそじゃ。六角様が居なくても幕府は動くということを三好に知らしめるのじゃ。わかってくれ。わかってくれたなら共に京へ参ろうぞ」
光秀は簡単には頷かなかった。ようやく安定的な生活を手に入れたのだ。手放したくない。
(しかし、幕府が不安定だからこそ世は荒れておるのだ。幕府を見放し、世を見放し、自分だけ安定した生活を送ろうというのはおかしな話やもしれぬ)
と、ここで信長のことを思い出した。信長は度々美濃へ兵を出すも、一色義龍の巧みな防衛を前に手も足も出ず、未だ尾張一国を領するに留まっていた。それでも、苦しみ続けることは自分の使命だとばかりに美濃を狙っている。
しかも、光秀は前に上洛したとき、藤孝の兄・三淵藤英と約束をした。いつまでも公方様に尽くす。流人に成り下がったからといって、その言葉から逃げられるはずもない。
光秀は口を開いた。
「承知した。どうやらわしは思い違いをしていたようだ。なんとしても幕府復興を遂げねばならぬ」
ところが、問題があった。光秀は医者として住まいを借りていたので、光秀がいなくなっては、明智家の者達は追い出されるかもしれなかったのだ。
「なるほど。」
話を聞いた藤孝は頷き、意気込んで言った。
「それならば、幕府奉公衆である某にお任せあれ。立派な邸宅を用意するよう、朝倉殿に掛け合えば、家の一つや二つどうってことはござらん。」
ところが、身一つで動いた末に家を用意するよう主張する藤孝を、朝倉家の者達は誰も幕府奉公衆だとは信じなかった。そうこうするうちに藤孝は自身の務めがあるために京へ帰らざるを得なくなってしまった。
結局、藤孝の口利きで朝倉家から屋敷をもらったのは、二年が経過した頃であった。
屋敷は一乗谷から少し離れた、東大味という地だ。ここに移るにあたり、光秀には気にかかることがある。秀満が帰ってこられないのではないか。
秀満は美濃へ旅立ったきり、未だ帰ってきていない。もう一年半が経過している。
(あやつの目の色から思うに、二年くらいは戻ってこなくても不思議なかろうが……)
家まで変わっていては、帰るに帰れないかもしれない。そのような折、煕子がある提案をした。煕子は先年、長女を出産したばかりである。
「私の父に頼んでみましょうか?」
「出来るか?」
「はい。何度か書状を送っておりますので」
光秀は知らなかった。
「義父上は息災か」
「はい。元気にしていると」
「……そうか」
光秀は秀満のときといい、今度のことといい、周囲の人々を全く考えていなかった自分に腹が立った。と同時に、やはり周囲の支えが無くては生きていけないのだということを改めて思った。
「父は尾張に身を寄せているそうなので、美濃にいる弥平次殿の行方も掴めるやも知れませぬ」
「では、頼む」
永禄五年、光秀は一乗谷から離れた。
※ ※ ※
この頃の幕府は、三好氏と協調路線をとっている。つまり、それまで支えられてきた六角氏や細川氏から離れたということだ。六角義賢は義輝と京の奪還に動きたかった。また、義輝も決して乗り換えたわけではなく、それまで三好に接近して幕府政治を牛耳っていた政所執事を解任し、自らの権力掌握に努めた。一方の三好方もそれを黙認するなど、互いに妥協している部分があった。畿内はそういった不安定な状況に置かれたままだったのである。
「十兵衛殿は惜しい時に京を離れられたな」
出立の準備ができた光秀の元へ藤孝が迎えに来た。
「というと?」
「十兵衛殿が越前へ戻った翌年の永禄四年、三好殿の三弟・十河民部大夫一存が病で逝った。そしてその後、今度は長弟・三好実休殿が討たれたのだ。六角殿のおかげじゃ!」
(公方様が三好に付かれた途端に三好が負けたのか……。公方様は疫病神じゃな。)
興奮気味の藤孝の言葉を聞き、そう思ってしまったが、さすがに口にはしなかった。
「三好方の勢いは落ちているのか」
「うむ。六角殿や畠山殿も、一度は敗れてしまわれたが、これから再び巻き返してくれよう」
「一度敗れたくらいで、三好家が揺らぐようなことがあるのか?」
「いや、それがどうも、当主・修理大夫長慶が城に引きこもって出て来ないらしい。病やもしれぬ」
「なぜ三好を敵視するのだ? 三好殿の下で京が安定しているのならそれでよいのではないか。」
不意をうたれた藤孝は一瞬面くらった顔をしたが、すぐに首を横に振った。
「良いわけがない。この国の主は公方様じゃ。公方様よりも力を持ち、政を好き勝手するのは言語道断とも言うべき所業。断じて許されることではござらぬ。」
「そのためならば、民が苦しんでも良いと。」
「そうは言っておらぬ。あくまで、政をつかさどるのは公方様であるべきと申しておるだけのこと」
光秀は放浪生活を送る中で、苦しんでいる民の姿を見てきた。一方の藤孝は、生まれてから今に至るまで幕府に仕える身である。
(要するに、結局のところ細川兵部大輔藤孝という漢は幕府の人間なのだ。民の暮らしとは関わりないところで生きている。)
光秀と藤孝、そして後から追いかけてきた弥平次秀満の三人は、会話をしながら越前から南下した。
煕子が妻木範熙に書状を送ったとき、なんという偶然か、まさに秀満がその屋敷にいたのである。秀満の姿を街中で見た範熙が、思わず声をかけたのだという。
前方に湖が見える。琵琶湖だった。これを渡れば、二年ぶりの京である。
京に入ると、藤孝は早速、義輝のいる御所へと案内した。
「細川様、格好はこのままで良いので?」
「うむ」
秀満の問いに答えた藤孝の頬にも、伸びきった無精髭がある。光秀と秀満が本当に大丈夫なのか心配になった傍らで、藤孝はずんずん門へ近づいた。
「幕府奉公衆・細川藤孝である。通せ」
「証は?」
「証? いつもそんなものは持っていないが。」
「ならば通すわけには参らぬ。」
それでも無理に通ろうとすると、門番が腕を伸ばして制止した。
その刹那――。
ぐしゃっ
「うわぁぁぁあ」
崩れ落ちた門番に構わず、藤孝はこちらに向き直った。
「では、十兵衛殿、左馬助殿、入られよ。」
「は、はっ」
「なに、不届き者の手を少々握っただけのことにござる。」
笑顔で先導する藤孝に、恐れを抱いたのは初めてだった。
一刻ほど経ち、ようやく目通りが叶った。ただし、庭先である。
義輝が入ってきた。齢二十七。日頃から剣技を習っているせいか、体型もすらりとしている。
「久しぶりじゃのう、兵部大輔。元気そうで何よりだ。」
「はっ。細川兵部大輔、ただいま戻りました。公方様におかれましても、お変わりなく。」
「ふっ、近頃は体の調子が良くてな。それより、門番の手を握り潰したと聞いたぞ。真か。」
「はっ、かの門番は任を解いたほうが良いかと。」
「なんじゃ、制止されたから怒っておるのか?」
「いえ、あのような弱き者は、公方様をお守りできませぬ。」
大真面目に言う藤孝を面白がっているようだ。
「はっはっはっ。そなたが強すぎるのであろう。まあ、手を使えなくなってしまったからな、別の者を探すほかあるまい。」
そして、視線を光秀に向けた。
「して、その者は?」
「美濃浪人の明智十兵衛光秀殿にございます。なかなかの器量人にて、公方様にお引き合わせしたく。」
「明智十兵衛光秀と申しまする。」
改まって平伏する。
「ほう。十兵衛とやら、何処に住んでおる」
「今は越前一乗谷に居を構えております。」
「これまで何をしていた。」
「美濃にて武者働きをしておりましたが、戦で所領を失ってからは越前で医者を。」
「まことか。医者というのは限りある者しかなれぬ。そなたは頭が良いのだな」
「いえ、決してそのようなことは。」
すぐに謙遜したが、藤孝が後を継いだ。
「明智殿は鉄砲の扱いにも長けております。加賀の一向一揆と朝倉殿の戦の折、十兵衛殿が鉄砲隊二百人ばかりを預かったとか。目を見張る働きにございました。」
「そうなのか、見事な男じゃ。」
藤孝の嘘を信じ込んだ義輝は光秀の方を向いた。
「い、いえ、私は――」
「公方様、この者の器量は某が保証いたしまする故、取り立てるべきと存じまする。」
「もちろんじゃ。」
藤孝は黙って光秀を見る。黙っていろということなのだろう。だが、このまま将軍ともあろう人物を騙すわけにはいかない。そう思って正直に嘘だと言おうとしたとき、義輝が縁側から庭先に下りてきた。
「十兵衛よ、そなたの力が必要じゃ。予の下で、もう一度武士として奉公せぬか」
そう言って、なんと光秀の手を握った。
「予は幕府を建て直したいと思っておる。いや、必ず建て直す。そのためにはそなたのような人材が欠かせぬ。どうじゃ?」
光秀は藤孝を見た。光秀に頷いかけている。いや、それ以前に、これほど期待をかけられている以上、断ることはできなかった。
「謹んでお受けいたしとう存じまする。」
「ありがたい。兵部大輔にも、礼を申すぞ」
「はっ。明智殿とともに力を合わせ、必ず公方様の世を取り戻してみせまする!」
こうして、光秀はさらなる激動の渦に巻き込まれていくのである。
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