3-2話 亞院鷲太と笑林寺
笑林興業とは、大咲花府堺市の笑林寺町に拠点を構えるお笑い界のトップ企業であり、日本の半数以上の漫才師が在籍している。
そしてその笑林興業が若手漫才師の育成のため立ち上げたのが〈笑林寺漫才専門学校〉、通称〈笑林寺〉である。
笑林寺は革命的であった。
従来、漫才師になろうとすれば、漫才師の誰かに弟子入りするしかなかった。
しかし、それはバクチに等しい行為であった。
面白い漫才師は私生活においても常識から逸脱している人が多い。面白さとは常識とのギャップだからである。
必然的に優れた漫才師は人格者と言い難い人が多い。
また、面白い漫才師は、売れっ子であるがゆえに教える時間もない。だから弟子は教わるのではなく師匠の芸を盗めと諭される。
そこに合理的な理由はない。
無論、こじつければもっともらしい理由は、いくつか出てくるかもしれない。しかし、突き詰めて考えた時、ただ単に『自分もそうしてきたから』にすぎない。
教え方を教えられていないのである。
才能ある多くの若者が、くすぶり続けたり消えていった。
それでも、弟子になれた者はまだ幸運である。そもそも間口が狭いので、弟子にすらなれない者の方がはるかに多い。
師弟制度では、弟子が一人前と認められるまで10年ぐらいかかることもざらだ。
その上、弟子を取るのは普通2~3人程度、デビュー前に挫折する者も少なくないのだ。
そして、その現状を危惧し、師弟関係に依らない、お笑いの専門学校を作ろうと活動した中心人物が亞院鷲太という人物であった。
彼はお笑いを、笑気と方程式で説明し、笑理学という学問を著すことによって、体系的な教育を可能にした。
通常このような試みは、革命的であればあるほど保守的思想の重鎮らによって頓挫させられるものであるが、亞院らの構想は意外なほどスムーズに進んだ。
その最大の理由は笑林興業がテレビ需要に答えるべく、若手の漫才師を数多く必要としていたからである。
あと、実のところ、漫才師が弟子をとるのに、それほどメリットがないという事実もあった。
落語の師匠の場合は、弟子を取り一門衆を形成することによって、寄席に人を集めて収入を得ることができる。しかし、漫才師の師匠の場合は、将来的においしい部分を事務所に持って行かれるのだ。
弟子に飯を食わせて、小遣いをやって、芸を盗ませる。
客観的に見れば、金を払って自分のライバルを育てているのも同然である。
そんなわけで、笑林寺はトントン拍子に設立された。
しかし、学校運営は試行錯誤の連続だった。
漫才師に求められるのはオリジナルの芸風だ。
確かに笑理学を学ばせれば、短期間で一定水準の漫才師を育成することはできる。しかし、それだけでは、似たような漫才師が量産されるだけである。
師弟制度のように師匠の芸風を受け継いだ弟子が、数年に一組デビューするのとはワケが違うのだ。
毎年何十組も似たような芸風の漫才師が供給され続けるのであれば、飽きられるのは目に見えている。
設立当初は、笑理学の講義で笑いの方程式を教えることに重きをおいていたが、各コンビがオリジナリティーを出せるように、3Sの組み合わせ方に主眼が置かれるようになる。
3Sとはすなわち、<笑気>、どつき漫才やしゃべくり漫才などの<スタイル>、そして、手刀ツッコミなどの<技>である。
戦で例えるならば、<笑気>は国力、<スタイル>は戦略、<技>は戦術に相当する。
戦術で戦略を挽回することは難しく、戦略で国力差を覆すことは至難であるように、大本になるのは笑気である。
そして、現在では入学時に、ボケコースとツッコミコースに分かれ、まず笑気の修行が行われることとなった。
ちなみに笑林寺に入学試験はない。
18才以上、20才以下という年齢制限はあるものの、入学金10万円を納めれば誰でも入学できる。
入るのは非常に簡単である。
しかし、修行はとても厳しいため、早い時期から脱落者が続出する。例え初日に自主退学したとしても入学金は返還されない。
入学金が安いのは、落伍させること前提で、失っても諦めがつく金額を設定しているからである。
つづきは明日の7時に投稿します。
次回「地獄のようなカリキュラム」