1-3話 溜息交じりの低い声
心咲為橋を出た一行は、小一時間ほど歩いて昼近くには新世界に辿り着く。
無論、都合のよいアクシデントなど起きようはずもなく四人一緒にである。
新世界とは心咲為橋から南に下った場所にある戦後の笑和の面影を強く残したレトロな歓楽街だ。
現在でこそ外国人も多く訪れる大咲花有数の観光地であるが、この頃は再評価の兆しがあるものの、まだ日中の通行人はそれほどなく知る人ぞ知る穴場であった。
彼らがここに来た目的はお好み焼きである。大咲花ではデートの昼食にお好み焼きを食べるのが定番なのだ。
悪くないセンスだと思っていた鉄太であったが、店に入った時、プランを相手に任せたことを後悔することになる。別にお好み焼きが嫌いと言うわけではない。問題なのはそこが客自身が焼くスタイルの店だったということだ。
「何やその混ぜ方は!」
鉄太は藁部に怒鳴られた。
店での座席は喫茶店の時のように、鉄太の隣に出っ歯の女が座り、開斗の隣におかっぱ頭が座っている。
「せやかてしゃーないやろ。ワイは片腕なんやで」
正面の藁部に、鉄太は抗議の声を上げる。
お好み焼きの具材が入れられた小さなお椀を、ひっくり返さないように右手だけで混ぜるのは至難の技であった。
「そんな焼かれ方したらおこのみ焼きが可哀そうやろ。貸してみい」
藁部このみは、鍋奉行ならぬ鉄板奉行であった。
大抵の大咲花人は、お好み焼きにうるさいが、彼女は自分の名前の由来になっているこの料理に対して並々ならぬ思い入れがあるようだ。
藁部は鉄太から器を取り上げると、熟練を思わせる手つきでかき混ぜ、鉄板の上に丸く広げた。
「じゃあ霧崎兄さんのは、ウチがやってあげるわ」
五寸釘が開斗の器を混ぜようと名乗りを上げた。
言うまでもなく目の見えない開斗にとって、小さな器の中身をこぼさずに混ぜるのは簡単な作業ではない。
だが、五寸釘が立ち上がったところで藁部が叫ぶ。
「アカン! ここウチの番やろ! 霧崎兄さんのお好み焼き焼くんもウチの仕事や!」
「何言うてんねん。決めたんは座る位置だけやろ。誰が焼くかなんて決めてへんわ」
「……ゴッスンはズルイ。喫茶店でも散歩でもここでも、ずっと霧崎兄さんと話してるやん。ウチなんて、散歩の間は後ろから眺めてただけや……」
そう言うと藁部は、泣こうと努力するかのように眉間にシワをよせて鼻をすすり始めた。
何やら険悪な雰囲気が漂い始めたが、それを沈めたのは開斗であった。
「お前ら。喧嘩すんのやったらワイは帰るで」
「嫌やわ兄さん。ウチがこのみんと喧嘩なんかするワケないやん」
「せやで。ウチとゴッスンは、笑天下過激団一の仲良しさんで有名やねん。シシシシシ」
彼女らは朗らかな調子で声を合わせるが、その目は決して笑ってなどいない。
さらに双方、力こぶを作るかのように拳を掲げた。
そして呼吸を合わせるように、一回、拳を前に突き出した後に、再度あらんかぎりの力で突きを放ち合う。
ジャンケンであった。
藁部は拳を握りしめながら、ゆっくりと椅子に崩れ落ち、五寸釘は勝利を噛みしめるように目を閉じながら掌を天に掲げた。
ちなみに笑天下過激団とは、彼女らの所属する芸能事務所である。
かつて鉄太らが所属していた笑林興業が、お笑い専門の事務所であるのに対して、笑天下過激団は幅広い芸能活動を行っていることと、構成員がほぼ女性で占められているといったように大きく違っている。
さて、取り敢えず諍いが収束したことに鉄太は胸をなでおろした。
とはいえ、五寸釘に敗れた鉄板奉行は、すっかり不貞腐れてしまった。
隣から漂ってくる「キャッキャウフフ」との嬌声に背を向けて頬杖をついている。
これから飯だというのに目の前で怒気を振りまかれては堪ったものではない。というか、漫才師が怒気を発するのはご法度だ。
〝汝、怒ることなかれ〟
これは、鉄太らが学んだ《笑林寺》の戒律の一節である。
笑林寺とは、日本最大のお笑い事務所である笑林興業が運営している笑林寺漫才専門学校の通称である。
また、名前の由来は、事務所の所在地の地名が笑林寺町だからである。
鉄太は藁部に怒気のことを注意しようか迷った。
だが、彼女らが所属する事務所は笑天下過激団なのだ。
あそこは笑林興業と笑いの哲学が根本的に違うのだ。
彼女らが笑林寺で学んだ可能性は低い。
注意をしない理由を得た鉄太は笑気で笑壁を張りながら、独り言ちる。
「あ、豚バラ乗せんとな」
しかし、割り箸で豚バラを取ろうとしたところで、「まだや」
藁部に溜息交じりの低い声で、制止を掛けられた。
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次回、1-4話 「太陽は中天付近で輝いて」
つづきは5月8日の昼12時にアップします。
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