2-1話 ナンデヤネンは外来語?
まだ、日が顔を出していない薄明の海辺。
長身の男が海に向かって半身に構えていた。
右腕は肘を曲げて水平、指先はピンと伸ばして顎の下に。
左腕は拳を腰の位置に。
足は肩幅より広く開いて腰を落としている。
打ち寄せる波が彼の素足の指先を洗っては砂で埋めてを繰り返す。
いつからそうしていたのか?
いつまでそうしているのか?
男の顔が日の出の光で橙色に染まった。
開斗である。
彼は、日の出を合図として裂帛の気合、〈喃照耶念〉と共に腰をひねって右腕を水平に伸ばす。伸ばした後は再び同じ姿勢に戻り呼吸を整える。
そして、その一連の動作を繰り返す。
〈喃照耶念〉はツッコミの基本型であるが、本来は手刀ではなく裏拳で行うものである。
手刀ツッコミは、彼が師と仰ぐ亞院鷲太が始めたものである。裏拳ツッコミに比べて威力が大きく、笑気の拡散に打ってつけであり一世を風靡した。
しかし現在ではツッコミ回数を増やすことで手刀ツッコミと同等以上に笑気の拡散を行える手法が確立され、コンパクトな動作の裏拳ツッコミがまた主流となっている。
ちなみに、〈喃照耶念〉とは、古典ヘブライ語がルーツとも言われ、戦国時代末期にポルトガルの宣教師から伝わったらしい。
漢字で当てられた字義は次の通りである。
〈喃〉……相手に呼びかける言葉。今でいう「もしもし」に相当する。
〈照〉……神を招く、明らか、照らす、など諸説ある。
〈耶〉……耶は耶蘇を意味する。
〈念〉……思う。気にしている。
全部合わせて『神はあなたをいつも見ていますよ』となる。
そして、宣教師がキリスト教の教義を分かりやすく伝えるための寸劇で、悪役が悪事を働いたとき、善役が〈喃照耶念〉と語りながら悪役の肩を叩き戒めの言葉として用いた。
また、その寸劇というのがコントや漫才の起源と言われている。
「カイちゃん。相変わらずやな」
鉄太は小さめのシャツから出たポッチャリした腹を右手でボリボリ掻きながら、開斗の立つ浜辺へ歩いて行く。
トイレに起きた時に開斗がいなかったので、多分、日課の手刀ツッコミの修練を積んでいるのだろうと見当を付けて出て来たのだ。
周辺には散歩する人やランニングする人らがぼちぼち見受けられた。
「おはようさん」
挨拶をする鉄太であったが、頭の後ろは寝ぐせの付いた髪の毛がアンテナのように数本立っており、目ヤニの付いた目元をみれば顔洗っていないことが分かる。
「おはようさん。 ……テッたんも相変わらずやな」
鉄太のだらしなさに嘆息した開斗であったが、何か良からぬことを思いついたようで唇の右端が吊り上がった。
「まあ、丁度ええ。その特注の防具とやら、なんぼのもんか試させてもらうで」
鉄太は、開斗の目に宿った剣呑な輝きを察して後ずさる。
「あ、明日にせいへん?」
「明日? どーせ明日も同じこと言うんやろ?」
「あ――――。そうや――――。ガス付けっぱなしにしとったわ――――」
しらじらしく言いながら踵を返して逃げようとする鉄太。
しかし彼の数歩前の砂地が、あたかも蹴り上げられたように砂が巻き上げられた。
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つづきは11月9日(月)の7時に投稿します。
次回 2-2話 「なんぼで買うてくれるんや」