17-7話 アイツがホンマに好きなんは
「まさか、入館した時に書いたヤツやないやろうな?」
「あ! それや!」
開斗に言われて鉄太は思い出した。このビルに入った時に、入館証をもらうためサインしたのだ。
押目が持っている紙には折り目が付いており、おそらく契約内容が書かれた上半分を折った状態でサインさせられたのだ。
「そーゆーわけやから、観念してここで働け」
「何がそーゆーわけや! 誰が働くかボケ!」
開斗は立ち上がり下須に罵声を浴びせた。しかし、彼は高笑いをした後、足を組んでさらなる恫喝をする。
「断るっちゅうなら出るとこに出るで。こっちにはサインの入った契約書があるんや。絶対負けへんで」
鉄太が契約書を持つ押目の方を見ると、彼はドアノブに手がかかる位置まで下がっていた。
もとより運動神経が悪く、片腕の鉄太が飛び掛かったところで、契約書を奪える可能性はかなり低いのだが、出入り口まで下がられたことによって、奪うことはほぼ不可能になった。
だが、その時、開斗に呼び掛けられた。
「テッたん!」
鉄太は、両手で手刀を構える相方を見て、瞬時に彼が何をしようとしているのか悟り、笑壁を張った。
すると、開斗は左手で鉄太の胸部を打ち、一拍置いてから〈喃照耶念〉と叫びながら、右手の手刀を押目の方に向けてαを描くように振るった。
直後、押目が手にしていた2枚の契約書は、まるで鋭利な刃物で切られたかのように切断され、押目が摘まんでいた1辺以外はヒラヒラと落ちて行った。
紙片が床に落ちてから、しばらくして、凍り付いた空気の中、下須が口を開いた。
「流石〝日本刀〟やな。でも、目が潰れたって話やなかったんか?」
手の触れられない位置から契約書が切り裂かれたことよりも、目が見えないはずの開斗が正確に位置を把握していたことに、下須は驚いたようだ。
そして、その言葉に先ほどまでの余裕はなく、負け惜しみようような感じがするのは、サインの入った契約書という切り札を失ったからだろう。
「じゃあ行こか。テッたん」
「せやな」
開斗は支配人の問いに答えるつもりはないようだ。
鉄太は白杖を開斗に手渡してから、彼の左腕を掴み帰ろうとする。
しかし、横を通り過ぎるとき呼び止められた。
「待て! 立岩君」
つい足を止めてしまったのは、下須に自分の名前を呼ばれたことに驚いたからだ。
なんと、下須がこちらの風体や名前を知らなそうな素振りをしていたのは演技だったのだ。
そう言えば開斗に対して日本刀と言っていたが、あれは相方の笑林寺時代の渾名である。
知る人の限られているその名を口にしたということは、事前に〈満開ボーイズ〉のことを相当調べていたに違いない。
やはり、一筋縄ではいかない食わせ者であった。
そして、その食わせ者がさらに飛んでもない言葉を口にした。
「さすが娘が見初めた男や。改めてウチで働くつもりはないか? 芸人としてやない。幹部候補としてや」
鉄太の脳内でアラートが鳴り響いた。
下須は、鉄太と藁部の関係すら知っていたのだ。
この先の話を聞くのは危険すぎる。1秒でも早く立ち去らなければならない。
大急ぎで足を踏み出そうとした鉄太であったが、思わぬ抵抗にあって進むことができなかった。
なんと、開斗が足を踏ん張って動こうとしないのだ。
驚いて見上げると相方の口元から白い歯が覗いていた。
(面白がっているやん!)
そう言えば、開斗は自分と藁部をくっ付かせようと思っている裏切り者なのだ。
鉄太は一人で逃げる決断をする。
しかし、相方の腕から手を放したとたん、逆に腕を掴まれ、しかも、押目とクンカによって強引にソファーに座らされてしまった。
「放してーーーー!! 帰らせてーーーー!!」
四面楚歌状態だが、鉄太は力の限り抵抗する。
「まーまーまー、婿殿」
「婿殿ちゃうわ。ってか、支配人、奥さんと別れたって言うてはりましたよね?」
「離婚したからといって、このみがワシの娘であることには変わらんやろ」
正論を返され怯む鉄太であったが、激しい違和感を覚えた。
この変態老人が普通の人間と同じ親心を持つなど到底信じることができない。
「言うときますけど、ワテ、結構借金ありまっせ。あと免許も持ってへんし、腕も片方ないし……」
自分で言ってて悲しくなるが、ここは娘にふさわしくない男であることをアピールするしかない。
しかし、支配人は意に介さなかった。
「かまへん、かまへん。実はワシも昔ぎょうさん借金しとったんやで。なんなら借金を簡単に返す方法教えたろか?」
なかなか興味を引く提案であった。
だが、代償として〝娘との結婚〟とか要求されては堪らない。
鉄太は我慢して聞かないことにした。
ところが、下須は返事も聞かない内に得意げに話し出した。
「まず、女から金を借りて、その金で借金を返済する。次に金を借りた女と結婚する。そうすれば、不思議なことに借金がチャラになるんや。どや? スゴいやろ? だははははは」
確かにスゴいが、図抜けたクズという意味でのスゴさである。
鉄太はあまりの胸糞悪さに否定の言葉を発することさえしたくなかった。
しかし、下須が、娘の藁部から金を借りるための、具体的なプランの提案を始め、開斗が熱心に聞き耳を立て始めるのを見ると、流石に黙ってはいられない。
開斗の手引きがあれば、朝目覚めたら自分の隣に藁部が裸で寝ていたなどの最悪の状況が作られるのは不可能ではないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「何や? 婚姻届けにサインしたなったか?」
「〈喃照耶念〉。 そやなくて、実は娘さんがホントに好きなんはワテじゃなくて、こっちのカイちゃんなんです」
「え?! マジか?」
「オイ、コラ! ちょっと待て、テッたん!」
鉄太の爆弾発言に狼狽える開斗。
「支配人、これホンマですよ! ちゃんと娘さんに聞いてみて下さい! ホンマに好きなんはどっちかって」
「ちゃうちゃうちゃう!! アイツがホンマに好きなんはテッたんの方や!」
「支配人、今の言葉聞きはりました? カイちゃんは、娘さんのことアイツって呼ぶ仲なんです!」
親を目の前にして、壮絶なババの押し付け合いが始まった。
次回、第十八章 鷺山
18-1話 「同じアパートに住むよしみ」
つづきは2月19日、昼の12時にアップします。