神無月のミコさん
十月三十一日。
午前一時二十五分。
今日も深夜の最終電車。
仕事は今が繁忙期。
予定より進行が遅れている為、今週も土曜出勤。
切りのいいところまで進めて適当に上がろうと思っていたが、いつもと変わらない時間になってしまった。
もうヘロヘロだ。
家と会社を往復するだけの毎日に俺は疲れていた。
衰弱しきっていると言っていいだろう。
「疲れていた」と言えば最近、何かに憑かれているのだろうか?
怪現象の類はあまり信じていない。
しかし。
始めは気のせい。そして幻聴、終いには夢か? そんな風に思える出来事が夜ごと起こるのだ……いや、正確に言うとそんな気がする。そのせいもあって体の疲労に反して夜はあまり眠れない。おかげで、体力は著しく低下している。
だが、目覚めると何があったのかよく思い出せない。
夢とはそういうものだが、やはり夢ではない様な気もする。
まったく訳が分からない。
まるで季節はずれの怪談だな。
俺はネクタイをゆるめて頭をかいた。
疲労に鈍った頭でそんなことを考えていたら電車は目的の駅に着いていた。
もう十月も終わりか、さすがにスリーシーズンのスーツじゃ夜中は寒い。
ヨレヨレでグレーの地味なデザインが俺をみすぼらしくしている。
「疲れた」
俺は朝、目覚めた時の感想と同じ一言を口にしながらホームに降りた。
狭間 広人。
三十四歳、独身。
身長一七二センチ。
体重五五キロ。
趣味、釣りと読書。
職業、会社員。
年収、四百万?
好きな女性のタイプ、優しく一途な子。
半年前に登録した結婚相談所からのオファーはまだ無い。
プロフィールの年収に少し色を付けた……相談窓口のアドバイスだ。
きっかけは簡単だ。一年ほど前、俺はインフルエンザにかかってしまい一週間寝込んでしまった。それは悲惨な日々だった。風呂にも入れず髭は伸び放題、解熱剤で熱を下げると大量の汗をかき着替える。すると洗濯物がたまる、食事も固形栄養食品とスポーツドリンク。体臭もキツクなり、まるで浮浪者のようだった。三十過ぎ、独身男の惨めな末路がそこには確かに在った。
そんな哀れな記憶が消える前に何とかしなくてはと一大決心をして結婚相談所へ駆け込んだのだ。
まるで駆け込み寺、しかし恥も外聞もない。
寂しいんだよ!
担当のおばさんは仏のような微笑みで「大丈夫ですよ。きっとあなたに合ったいい人が見つかりますよ」と確信を持って頷いてくれた。
そして俺はまだ見ぬ伴侶に思いを寄せながら、それを糧にこの半年、仕事に燃えていた。
その結果がこれだ。
俺は、街灯に照らされ路上駐車している車のウィンドーに映る疲れ果てた哀れな男を見た。
「はあぁ、虚しい」
俺は呟きながらいつものコンビニの扉を押した。
食い飽きたノリ弁当。そして酒を手提げ袋に俺は家路を急いだ。
生活に変化と潤いが欲しい。
アパートに着くと変化があった。
何やら家の前に黒い物体を確認。
薄暗く道ばたの街灯でそれが人である事がかろうじて分かった。
何だ?
俺は近づくにつれそれが女性だと認識できた。
髪の長い女。
ゾクリと背筋に悪寒が走る。
暗くとも分かる赤と白の戦慄……て言うかありえねー!
「巫女だ」
衝撃のブラックアウト。
俺の部屋の扉に寄りかかるようにして一人の巫女さんが座っていた。
疲労も極まれば幻覚も見るのかもしれない。
あっぱれ俺。
見事な妄想力……末期だ。
自分の病の進行が思ったよりも深刻なことに恐怖した。
それとも夜な夜な悪戯する迷える魂?
冗談じゃない!
しかし、どちらにせよ草木も眠る丑三つ時の巫女は不気味すぎる。
俺は意を決し、その巫女さんに恐る恐る近づいた。
見れば見るほど幻覚とは思えないこの質感。
何度も俺は目をこすり、幽鬼のごとく眠る巫女を……眠る?
微かな寝息と酒の匂い。
ちょっと待て。
酔っぱらいのねーちゃん?
何だよびっくりしたなぁ。
いや、待て待て! これは、これでとても怖いぞ。
どう対処する?
部屋に入るにはこのねーちゃんを退けなきゃならない、と言うことはこの不審な巫女さんに声をかけなくてはならない訳なんだが……正直とっても勇気がいるし現実的に怖い。とにかく得体が知れないからだ。
「あ、あ、あの~」
掠れた声を絞り出す。
反応無し。
「そこ私の家なんで~」
すう~
寝息。
「起きてくれませんか」
ぐ~
疲労に追い打ちがかかる。
「頼むよ君。起きてちょうだい!」
哀願。
俺は勢いよく彼女の両肩を掴んで激しく揺すった。
あっ!? 倒れた。
「う!」
初めての反応。
「き、君。大丈夫かい?」
「お……おえええええええ!!!」
ぶちまけやがった。
大もんじゃ。
寝ゲロしやがった、この女。
面倒くせぇ。
いや、そんな事言ってる場合じゃないか。
「しっかりしろ。君!」
真夜中にも関わらず俺は叫んでしまった。
それがまずかった。
「うるせー!」
アパート向かいに住んでいる大家が寝間着姿で飛び出してきた。
頭髪が白くはげ上がった老人の登場。
「すんません!」
「痴話げんかは明るい時間にやってくれ狭間さん!」
「申し訳ありません!」
下げなれた頭を俺は何度も下げた。
「困るよこんな事じゃ……玄関前の掃除もちゃんとしてくれよ、まったく」
目の前の惨状を疎ましそうに言い放った。
七十過ぎの厳格な大家は「管理費ではそれは片づけられない」などとそのまま家の中へと入っていった。
俺は辺りが静かになるのを確認してから再び巫女さんに声をかけた。が、苦しそうに呻くだけだ。
「君、大丈夫?」
「……広人様ぁ」
甘えるような口調で俺の名を言った。
しかし、様?
「様」って何だよ?
もしかして、不思議ちゃんなのだろうか。
彼女の顔を覗き込むが、暗くてよく見えない。しかし、目鼻立ちはしっかりしている事が分かった。
結構、美人さんかもしれないな。
でも、こんなコスプレ女は知らないぞ。
ここ何年も合コンなんか参加した事もないし、まさか同級生! な訳無いよな。
明らかに十代後半から二十代位のようだし……はて?
誰だ?
この子は俺を知っているんだよな。
俺は謎の巫女さんを再び覗き込んだ。
目が痛い。
あまりの臭いにもらいゲロしそうなになるのを堪えた。
「はあ。これは何んの罰だ?」
仕方がないと巫女さんを俺は優しく抱え上げ部屋へと運び顔を拭いてからベットに寝かせた、ついでに袴の帯をゆるめて胸元も少し楽にしてやった。
スルリと胸元から首飾りが現れた、碧い勾玉だ。
すごく綺麗だ。
ん?
何だろう見覚えがあるような?
俺は巫女の乱れた胸元にある勾玉を見た。
いや、こんなモノはどこにでもあるアクセサリーだな。
それよりも巫女の乱れた寝姿はかなりエロくないか?
ああ、実に良い。
いかん!
やましい思いを股間にしまい彼女の顔をマジマジと見た。
綺麗な子だった。が、やはり記憶にない。
俺は、そもそも人の顔を覚えるのが苦手なところがある。特に女性は髪型一つでまったく変わってしまう。そのせいで今までどれだけ損をした事か……はあ、そんな事は今はどうでもいい。
す~
規則正しい寝息。
ゲロして少し楽になったようだ。
まったく、若い娘さんがこんなになるまで飲んで、お父さんが泣いてますよ!
しかし、この近所に巫女さんがいる神社なんてあったかな?
それとも結婚相談所からの贈り物! な訳無いなぁ。
やはり、どこかで会ったのだろうか?
その時「う~ん」と寝苦しそうに巫女さんが寝返りをうった。
ま、眩しい。
その際、袴が豪快に捲れて白く瑞々しいおみ足があらわになった。
白足袋がエロすぎ!
無防備な寝息を立てる少女に対する劣情がわき上がる。
男として正常な反応だ。
だが、酸っぱいゲロの寝息が冷静さを取り戻させる。
俺は静々とその袴を直してやった。
うむ。大人の対応だ。
たぎっては消える危険な情事を胸に、玄関前のゲロ掃除を朝方まで続けた。
「疲れた」そんな俺の週末が始ったのであった。
朝、目が覚めて思う。
この荒涼とした砂漠にオアシスは本当にあるのだろうか、と。
俺は見慣れた天井を確認して再び目を閉じた。
潤いはないのかと体を丸くする。
トントントン
心地よい包丁さばき。
微かに漂うみそ汁の匂い。
きっとおかずは出汁巻き卵と焼き魚だ。
日本の朝の定番が浮かぶ。
ああ、こんな潤いが俺にあったらいいのに。
トタトタトタ
行き交う足音。
カチャカチャ
食器を並べているのだろうか。
ああ、焼き魚のいい香り……ん?
微睡みからの覚醒。
「何んだあ!」
俺はソファーから飛び起きた。
「お目覚めですか広人様~!」
「おわああぁ!?」
巫女さんに飛びつかれた。
寝起きのホワイトアウト。
「お会いしとうございましたぁ」
泣きじゃくる巫女さん。
だから、誰?
俺はそれに応えるか否かで両腕が宙ぶらりんの間抜け。
「お慕い申しております」
俺に熱の籠もった眼差しを向ける巫女の少女。
正直かわいい。
小さな鼓動と息づかいが男の朝の危険な状態を襲う。
「まぁ、私とした事がはしたない」
少女も察したらしく頬を赤らめ隠すように小さな両手で顔を覆うとうつむいた。気のせいか指の隙間から俺の股間を凝視しているような。
ちょっと恥ずかしいけどまだまだ元気です。
「朝餉の用意が調いました。広人様」
小さな巫女さんは背中越しにもじもじ言う。
その仕草、まるで新妻。
とりあえず、まあいい。
まずは朝食だ頭が働かん。
ホントにいいのかよ?
そんな疑問も上の空、俺はしっかり朝食を平らげた。
「おかわり」
「まあ、広人様ったら」
少女は俺の子供のような態度がよっぽど可笑しかったのだろうか、クスクスと笑いながら茶碗にご飯を盛った。
朝だと思っていたがすでに時計は午後三時を指していた。
爆睡。
仕事疲れと昨夜の巫女ゲロ事件が俺に深い眠りを与えたらしい。
しかし、この巫女さんは誰だ? 黙々と朝食を頬張る俺をただ黙って見つめ、目が合うと微笑みうつむいてしまう。
実に初々しい。
いや~、良いね若いってさ。
ぱっと見、小柄。一五〇センチ前後と推測されるそのたおやかなボディーに、これまた推測だが形の良い胸。脱いだら以外に巨乳かも知れない。それに加えてすうっと伸びた長いまつげが優しさを醸しだし、大きな瞳は愛らしさを讃えているようだ。そして、ロングの美しい黒髪を後ろで一本に結っている古風なヘアースタイル。それは正しく日本の心。そう彼女は大和撫子! 見た事無いけどきっと「小野小町」もこんな清楚で可憐な女性だったに違いない。また、赤と白の巫女服は彼女に神聖さを与え女性の神秘を慎ましくも主張している。東洋の魔女とはよく言ったもんだ。
あー! もう訳わかんねー!
最高ッス!
巫女巫女バンザイ!
イヤッホーイ!!!
どんな言葉を並び立てても足らないが俺はあえて言おう。
実にオヤジ好きしそうな女性……少女だ。
俺のツボだと言う事を今認識した。
「ところで、君誰?」
言った。
ついに言ったぞ。
巫女の少女はキョトンとした顔で俺を見た。
「その、俺は君を知らないんだよ」
「広人様は私をお忘れなのですか?」
悲しそうな少女の問いかけが俺の胸を突いた。
「ごめんね、でも君は俺を知っているんだよね。何であんな時間に泥酔……寝てたんだ……俺ん家の真ん前でさ」
「はい、実は出雲で大きな宴がありまして……私はまだ新参者で諸先輩方にその、かわいがられたというか、飲まされまくったというか……その、こっそり予定より早く抜け出して参りました」
うたげ? 「宴」って何だよその言い回し、ひょっとして変な子?
まあ、いいか。なる程、確か「いずも家」って居酒屋チェーンがあったな。で、サークルか何かの合同コンパでさんざん飲まされたのかよ。まったく、学生は限度を知らないからな。ずいぶん前にそんなおちゃらけサークルの巨大コンパで飲まされたあげくに暴行を受けた女子大生もいたな。
「それじゃあ、その巫女服もその会の罰ゲームか何かのコスプレなんだ?」
「い、いいえ? これは私の常衣です」
「じょうい?」
「はい、常日頃身にまとっている物です」
「あーなる程……へ? それじゃ君、本物の巫女さんなの?」
「はい。偽物の巫女がいるのですか?」
少女は神妙な面持ちで俺を見る。
天然かこいつ?
「まあ、いるようないないような」
厳密に言えばコスプレ関連の店には居るんだろうが……まあいいや。
「はぁ?」
少女は首をかしげた。
だから君、誰よ?
再び基本的な疑問が浮かんできた。しかし、もうめんどくさいからあんまり追求するのは止めでいいや……いや、待てよ?
「君もしかして、その、何だ。け、結婚相談所から派遣されて来たとか、そう言うオチ?」
昨夜も瞬間的に浮かんだがこんな馬鹿げた事を本当にする会社なんてあり得ないと思ったが、もしかして、話題作りのためアメリカンジョークのような「ビックリ」を狙ってどこからか俺を盗撮してるんじゃないのか?
俺はそんな思いから部屋の中をきょろきょろと見回したが……異常無し。
問題ない。
何の変哲もない2K三階建ての一階、俺の部屋だ。
つーか、それやったら犯罪だって。
「どうなさったのですか?」
彼女は心配そうに俺の疲れ切った顔を覗き込んだ。
鼻孔をくすぐる女性の香り。
暖かい吐息。
髪を恥じらうようにかき分ける愛らしい仕草。
今すぐ抱きしめたいです。
この子の素性なんて、もうどうでもいいか。
だって目の前に美少女がいる。
俺の部屋にいる。
それだけでいいじゃないか!
いやいや、まてまて! こんな現実あり得ない。
これは夢?
そう、夢だ……これは神様が俺に与えてくれた幸せな夢の現実。
ふふふふふふ、だからいいんじゃない?
そうだ!
俺の家に来て飯作ってくれて、おまけに「お慕い申しています」という美少女が今後現れるのかよ。
否!!!
ありれねーよ絶対! 少しくらい不思議ちゃんでもかまわねー。これはこれで燃ゆるものがある。
キターーーーーー!!!
この殺伐とした世界に現れた女神。千載一遇のチャンス到来。
逃すかよ……ゲッヘッヘッヘッヘッヘッヘ。
獣、そう俺の中の獣が鎌首を持ち上げるのを必死に押さえた。
落ち着け。
獲物は目前だと獣は轟き叫ぶ。
堪えろ俺、しかし逃すな俺。
いや、獲物を前に舌なめずりは三流のする事だと誰かが言っていた。
しかし……。
ああ、もー辛抱たまらん!
いいのかよ?
「もう、いいんだよ!」
「きゃっ!?」
突然叫んだ俺に驚き子犬のように彼女は飛んだ。
瞬間、何かが俺の中で弾けた。
キリ!
針で刺したような痛烈な腹痛が俺の動きを制した。
あれ?
妄想超特急な俺だったが、今の痛みでまた新たな疑問が生まれた。
家に食材なんてあったっけ?
はて?
それに先ほどの焼き魚、食べた事無いような味だった。
気のせいか少し泥臭かったような?
キリキリ……
へ?
ギュルっ
何!
ギュルギュルっ
あらら。
ギュルルルルルル……
おう!?
ギュルルルルルルルルルルッ!!!
い、痛たたたたた!!!
腹が急に活性化してきた。
俺の下腹部に痛みが電光石火の如く駆け抜けた。
弾けていたのは俺の腹だった…痛いです。
「き、君。この魚何?」
俺は皿の上の三枚におろされた魚の切り身の食いカスを指した。
「あ!? 私とした事がとんだ失礼を」
え、何食ったの俺?
「申し遅れました。私、川瀬 美子と申します……お忘れだと思いますが」
少女は切なそうに呟いた。
ん?
かわせ みこ。
あれ、どっかで聞いたような……?
やっぱり以前、会っているのだろうか?
「へ~ミコちゃんか、かわいい名前だね……いやそうじゃなくて! さっきの魚何?」
ギュルギュルっ
うおおお!
「本当に私の事は、お忘れなのですね。手取り足取り優しく弄び、時には禍々しいまでの情熱で私の体を……ぽっ」
ギュルルル
「ぁあう!?」
痛い! 知らない! 俺知らないってば!!!
「やはり二十年の歳月が無情にも私との良き思い出を広人様から奪ったのですね……ヨヨヨヨヨヨ」
泣き崩れる少女。
て言うか、ありえねー!
君いくつ?
俺、二十年前って十四歳よ。
幼女? そんな昔におれ目覚めたっけ……さっきとちゃうのん?
幸せの構図から様々な思いが交錯する修羅場へと転じた俺の部屋。
ギュルルルルルルルルルルッ!
「はぐ!?」
正直訳がわからんし、腹痛で意識が朦朧としてきた。
「まあ! 広人様、どうなさったのですか? このような良くない汗をおかきになるなんてどこかを患っているのでしょうか!」
ミコちゃんは慌てて立ち上がろうとしたので袴の裾を踏みつけてしまった。
「うがあ!?」
「きゃっ」
スローモーション。
彼女が形振り構わず俺に抱きついてきた。
ナイスタックル……。
その拍子に俺たちは床に倒れ一つになった。
ああ、やめて。
ギュルルルルルルルルルルルルルッ!!!
「まあ、私とした事がまたこの様なはしたない真似を……」
「すまない」
気がついたら俺は謝っていた。
何故?
サラリーマンの性だろうか。
いかん! 腹が臨界点を突破しそうだ。
「もう無理!」
俺はミコちゃんをはね退けると直ぐさま解放の地へと猛ダッシュ。
その後、嘔吐と下痢を繰り返す。
体を駆ける悪寒と頭痛。言わずと知れた腹痛に悩まされ再び床に付いた。
今日は厄日? それとも吉日?
どちらとも取れる今日は十月最後の日。
「広人様……お加減はいかがでしょうか?」
ミコちゃんは心配そうにベットの脇に座り俺を覗き込んだ。
「だめ……死にそう……何食わした?」
「まあ、どうしたらよいのでしょう。薬師を呼んだ方がよいのでしょうか?」
会話が成立しない。
何故だ。
いや、もういい。
「その、俺ん家には薬がないんだよ……だから薬局へ行って症状を話して薬を買ってきてくれるとありがたい」
これで良いんだ、これで。
「分かりました。このミコ、命に代えても広人様のため薬を調合して参ります」
いやああああああ!!!
「ま、待て!」
「はい?」
獲った。
急ぎ飛び出そうとするミコを引き留める事に俺は成功した。
「……い、いいんだ。君が命と引き換えに薬を作らなくても……」
きっと薬の調合と等価交換されるのは俺の命だ。
シャレにならん。
「で、ですが!」
初めてミコちゃんが抗議めいた口調で言った。
「た、頼む……ゴフっ!?」
「広人様! お気を確かに!」
ミコは俺の様子に血相を変えた。
良し! コツが掴めてきたぞ。
「君に危険な真似はさせられない。だから俺の気持ちを少しでも酌んでくれるなら頼む! そこの財布を持って薬屋さんに行ってくれ」
マジ頼むよ!!!
「分かりました……このミコ、命を賭しても必ずや名薬を手に入れ広人様の下にはせ参じまする!」
ガッとミコちゃんは俺の財布を鷲掴みにすると猛烈に駆けだしていった。その様はまるでイノシシ。
車に気をつけてね。
まずった!? 財布ごと持たせたのは失敗か!
彼女の今までの行動を考えれば然るべき対策を取るべきだったかも知れない。
しかし、彼女もそこまで世間知らずでは無かろう……いや、心配だ。もちろん俺の財布だが、ああも浮世離れした物言い。俺の中でとてつもない不安が露わになる。
ミコちゃんて一体……何者?
「しかし、俺は何の魚を食ったんだろう?」
まさか、裏手に流れるドブ川の鯉だったりして……あり得る。だが、そんな馬鹿な! あんな汚水下の魚を食ったりしたら俺は間違いなく汚染されちまう。たぶん……今もしかしたら俺の体の中はバイオハザード警報が鳴り響いていて、免疫体が悪玉たちと熾烈な戦闘を繰り広げているのかも知れない。その結果がこの肉体的拒絶反応なのか……マジで?
ギュルルルルルル
「オウイエェェ!?」
再び、目覚めたように襲うビックウェーブに俺はすぐさまトイレへと駆け込んだ。
「誰か助けてよ」
エマージェンシー。
救援を求む……なるべく友軍。
嘔吐と目眩に打ちひしがれそうになるのを耐えながら俺はラッパのマークの正露丸を持って帰投するミコちゃんに思いを寄せ、腹の痛みから逃避するため時折襲う眠気に身をませて深い闇に落ちていった。
待てよ?
彼女、ドラッグストアーの場所知ってんのか?
俺の中にまた新たな疑問が浮かんだ。
「まあ、いいか」
お休み。
そして、俺は現実を放棄した。
(愛しているわ)
「うっ」
するりと俺の体を何かが滑る。
「はう」
冷たい人の手。
(お願い……)
女の声だ。
またか。
体が動かない。
いつもの事だ。
もう、慣れた。
夢現の世界で俺はいつもの女がまた来た事を知った。
どういう訳だか知らないが俺はこの女の事を起きるとすっかり忘れている。
「くっ」
細い指先が俺の股間をまさぐる。
(ねえ)
まあいいか、これはこれで気持ちいいしな。
しかし、こいつにやられている時は良いんだが、目覚めるとひどく疲れているんだよな。
こういうのって色情霊とか言う奴なんだろうか?
実際俺の体は金縛っているしな。
「くぁ!」
女の紅い唇から伸びた舌先が体中をチロチロとはい回る。
悔しい程、俺は感じている。
目を開ける事が出来ないがそう見える……よくわからん。
この現象は俺の煩悩が呼び込んだ災難なのだろうか。
ちゃんと彼女がいればこんな色魔の霊体験なんかしなかったんだろうか?
はあ、彼女が欲しい。
……女?
あれ、何か忘れていないか俺……紅い?
赤い……赤と白の災厄。
巫女……みこ。
川瀬美子?
ミコっ!?
夢と現実が交差する。
そうか、ミコちゃんが俺の寝込みを襲っているのか。
何~んだ、それならそうと言ってくれれば俺もその気だったのにな~。
完全に俺の意識は覚醒した。
どうやら俺は寝ぼけちまったらしい。
色魔がどうのこうの悶々とさ。
「あう」
俺の服を脱がし始めた。
良し、合意の上だレッツゴー!
……て、体が動かねーよ、何これ?
マジで金縛り?
い、いや、そんな事在るわけ無い。
きっとミコちゃんの趣向なんだ、ソフトな奴。
もう、不思議ちゃんて実はアブノーマルなのかしらん?
分かった。でも俺はアグレッシブに攻めるのが好きなんだよ。
気合いだ。
気合いでこんな拘束をぶっちぎってやる。
やってやるぜ!
「うおおおおおおおお!!!」
キンッ
何かが弾ける音が俺の中で微かに響いた。
解除!
愛は勝つ。
「好きだあああ!」
俺は獲得した自由で彼女に襲いかかった。
「いやああぁ!」
ミコちゃんのかわいい声が離れたところであがった。
貰ったあっ!
スカッと俺は対象物を得ること無く勢いに任せてベットから転げ落ちてしまった。
何故?
俺はミコちゃんを抱きしめる筈だった……よく分からない。
離れたところからミコちゃんの声?
ん?
俺はしたたかに打った頭を振りながら真っ暗な部屋の明かりをつけた。
寝室の扉を開けた格好でミコちゃんがフリーズしている。
床には薬屋さんの袋から飛び出したバファリン。
ギュル
痛い……思い出したぞ。
俺はバファリンを見つめる。
何故にそれなのミコちゃん?
俺、腹痛。たぶん食中たり、きっと君のせい。
俺は腹を押さえて部屋の時計に目をやった。
午後十一時。
あれから、かれこれ八時間。
夜分遅くですよ。
君、今まで何してたの?
「やあ……」
何となく気まずいので爽やかに挨拶。
「広人様! しっかりしてください!」
「がは!?」
彼女は俺の襟首を掴んで激しく揺さぶる。
俺は何を自白すればいいのだ。
「や、やめなさいって!」
「私という者がありながらあの様な下賤の輩にたぶらかされるなど在ってはなりませぬ!」
両の目を見開き叫ぶ彼女。
鬼気迫る表情とはこういう顔なのか……正直怖い。
どうも恐喝されている気分になってきた。
よく分からん。
「み、ミコちゃん。何でバファリンなの?」
それの効果で生理痛鎮静というのがあるが食中りとは違うぞ。
もしかしたら痛み止めとしては使えるかもしれないが。
でも求めているのはラッパのマーク。
「はっ!? 申し訳ありません!」
応えた?
「道中いろいろと物珍しいモノに出くわしまして、その……浮かれて都見物していましたところ」
まただ、人の話聞けよ。
「い、いやそんな事より腹痛を治す薬が欲しいんだけど」
「道に迷い困り果てていましたら親切な氏神様に出会い、お供の神使の方に案内され夜分薬師の下に駆け込む事が出来ました」
もじもじと申し訳なさそうに彼女は言う。
「私、感激してしまいました。この様な未熟な若輩者だというのに」
「何の話?」
「あ! それと夜更けだというにも関わらず薬師の館はまるで昼間のように明るく、それは驚きの連続で……」
何故だ、何故こうも俺と会話が成立しない。
もう、いいや。
「帰りも神使殿のおかげですんなり戻る事が出来ました。聞けば氏神様も出雲の帰りだったそうです」
にこやかな笑顔。
「はあ、そうですか」
「……広人様。もう、お加減はよろしいのですか?」
「ミコちゃんのおかげで、何となく直ってきたよ」
これは本当だ。
まあ、あれだけ出す物上下から出せばそれなりに良くはなる。まだ少しだけ腹が痛いけどな。
「そうですか……では薬は必要ないのですね」
ミコちゃんは寂しそうにうつむいた。
「いや、その……ありがとう」
そんな彼女を見ていると居たたまれなくなってしまい手近にあったジュースでバファリンを三錠飲んでしまった。
三錠は飲み過ぎか?
「まあ、広人様ったらお優しい」
ミコちゃんは満面の笑みを浮かべた。
しかし。
う~ん。やっぱりかわいすぎるぞ。
これで天然、不思議ちゃんではなく会話が成立すればなぁ。
俺の口からため息が漏れた。
「広人様」
そんな俺に気が付いたのだろうか真剣な眼差しで彼女は言った。
「あ、今のため息は気にしないで何でもないからさ」
俺はその場を取り繕う。
「お気をつけてくださいまし」
「……すみません」
まるで心を見透かされたような気分になった。
何だよ、鈍くさい割には案外鋭いんだな。
俺は少し感心した。
「そこっ!」
「ひっ!?」
彼女は懐からお札を取り出すと素早く何もない空間に投げつけた。
突然の行動に驚いた俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
シュッとナイフの如く飛んだお札が空中に刺さった?
何これ?
「姿を見せなさい淫魔!」
ボッとお札が蒼白く燃え上がる。
「桔梗光輪術! その陰を滅せよ。閃光陽炎!」
フラッシュアウト。
「うお!?」
いつ取り出したのか定かではないお札が彼女の印を結ぶ中心で眩いばかりの光を放った。
目が焼き付いた。
「こざかしい真似を」
聞いた事のあるような女性の艶のある声が耳に入った。
誰だっけ?
いや、そもそも何で俺の部屋に第三者?
「我が主に取り憑こうなど言語道断」
勇ましいミコちゃんの声が部屋に響く。
「ふん、お前も似たようなモノではないか……まだまだこのエロ男からは生気が吸い取れると言うのに、惜しいこと」
「貴女の様な淫魔風情と一緒にしないで下さいまし。私の身体は広人様の愛で満たされています!」
先ほどのミコマジックでまだ目が見えない。
どういう訳だか俺の部屋が修羅場と化している。
原因は俺のようだが、二股かけた覚えはない。
「広人様は私が守る!」
「勇ましいお嬢ちゃんだこと……やってみな!」
どこかでゴングが鳴った。
いかん!
目の前でキャットファイトが始まったというのに視力が回復しない。
ドスンバスンと言う取っ組み合いの音が響く。
まあ一階だしね。しかしお隣さんには迷惑だ。
止めなくては!
「やめるんだ君たち! うご!?」
誰か分からんが俺のミゾに肘を打ち込んだ。
このくそアマが!
ええい、目が見えん!
しかし、荒い息使いだけで女の喧嘩特有のチンケな罵り合いが聞こえない?
俺は目を瞬かせてぼんやりと見え始めた輪郭を凝視した。
サブミッション。
静かなる攻防が目に飛び込む。
だから何これ?
俺は愕然とした。
ミコが腕を決めにいくと、折れる寸前のところでパツキンねーちゃんが切り返す。しかし、ミコも譲らず離れようと蹴りを繰り出すが、待っていたかのようにパツキンがアキレス腱を決める。が、瞬時にミコが跳ね上がりパツキンのマウントポジションを獲ろうとした。まるで息つく間のない電光石火な技のせめぎ合い。
ん?
誰、あの外国の金髪おねーちゃん?
またコスプレかよ。
グラマラスセクシーダイナマイトボンバー。
黒マントの下のボディコンを思わせるタイトなスカートから伸びる白いおみ足はかなりそそられる。
いかんいかん。
俺はあんな魔女みたいな金髪碧眼の外国人知らないぞ!
しかし、この体勢はとても……。
微かな隙間から見え隠れする魅惑のデルタゾーン。
「きゃっ!?」
「ぐは!?」
再び、邪な思いに囚われそうになった時、ミコが俺に覆い被さるように弾き飛ばされた。
「はん! 埒が明かないね」
胸くそ悪そうにパツキンが言う。
実に流ちょうな日本語だ。
「おのれ」
ミコはゆっくりと立ち上がった。
「浅ましき欲望よ、我の呼びかけに応えここに集え。淫邪欲色!」
パツキンが叫んだ。
漢字かよ!
「!? いけない!」
黒い霧がパツキンを中心に発生した刹那、それは爆発するように一気に広がった。
「広人様!」
俺を庇うようにミコがそれに立ちはだかった。
「色即是空!」
巫女装束のミコが般若心経の一部を叫んだ。
意味わかんねー。
辺りは静まりかえった。
恐る恐る目を開けた。
何ともない……何したのミコちゃん?
「ふん、咄嗟に守ったようだね……だが、もう遅い!」
静寂を破りご近所から男達のエクスタシーの雄叫びが次々と木霊する。
あ、今大家さんの様な声が聞こえた。
とてもイヤな体験だ。
「あはははははははははは!」
パツキンは狂ったように笑い出し、その体にはどこからともなく現れたヘドロのような黒い物体が集まり始めた。
「くっ、このままでは」
ミコが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何? どうなっちゃうの」
「はあああああああ」
ミコは気合いを貯めているようだ。
「あああぁ。いいわ、この欲望の味は」
パツキンは酔いしれたようにうっとりと囁いた。
体が一回りも二回りも大きく見えて変貌していく。
何か別のモノに変わるようだ。
「空烈破!」
「うはああぁっ!?」
ドガシャン!
窓と壁が瞬時に持っていかれた。
ぎゃああああああ!?
お、俺の部屋があ!
ミコの声を合図に目に見えない衝撃波がパツキンを吹き飛ばしたのだ。
俺の頬にもビリビリと感じる程の空気振動。
すごい。
いや、そんな事はどうでもいい!
大家さんに怒られる。
「ギャハハハハハハハ! 本気でき来な小娘!」
アパート裏手の茂みで叫ぶパツキンは先ほどよりも更に大きくなっていた。
目が赤く光っている。
「蜘蛛? 蜘蛛になっちゃったの。あのネーちゃん?」
ははは、もう驚かないぞ。
何でも来やがれってんだよ!
「本性を現したな。異国の女郎蜘蛛め!」
何度も言うようだけど意味わかんないって。
「広人様! 御許可を……」
スッとミコは片膝をついた。
「オッケー」
即答。
よく分かんないがもうどうにでもなれってんだ。
「御意」
ミコはかしこまるように頷くとクルリと俺に背を向けた。
「古より続く血の契約により命じる」
声に応えるように首飾りの勾玉が碧く輝く。
「荒ぶる神々により鍛えられし大いなる御業」
勾玉から発せられる碧い光が細く天井に突き刺さった。
はて? 何だったっけこの詠唱……聞いた事あるな。しかも妙に懐かしく感
じる。
あら? 何で。
「汝、その力をここに示せ……其は「神威」我が声に応えよ!」
ミコの声に熱が籠もる。
「刃鬼招来!」
一際輝きを増すと勾玉の光は四散した。
キーン!
何かが聞こえる。
キーーーーーーン!
高々度から何かが接近中。
イヤな予感がする。
ズドーーーーーーーーーーン!!!
地震かと思う程の振動。
俺の六畳間に何かがもの凄い勢いで突き刺さった。
剣だ……それも大きな。
昔、社会の教科書で見た幅広両刃の古代仕様の剣に似ている。
パラパラと天井の破片が舞い落ちる。
どうやらその物体は屋根から三階二階と二部屋突き破り登場したようだ。
もはや俺の頭は常識を逸脱した現象について行きたくないと泣き叫んでいる。
ガっとミコが柄を掴むと、鍔の辺りに位置する刀身に彫り込まれた目の模様が赤く光った。
「スタンデン・バイ」
剣がコンピューターボイスで喋った?
しかも英語!?
「まさか?」
「転身変化!」
ミコが叫ぶと剣を中心に五芒星の魔法陣に似た幾何学模様が畳上に現れ、外の円と内の円が逆回転を始めた。五芒陣とでも言うのだろうか?
木火土金水に位置する光点が虹色に輝き、螺旋を描きながらゆっくりと上昇。
何だよこれ、いつから俺の部屋はアミューズメントパークに改装されたんだ?
上昇するプリズムは徐々に高速回転へと加速していく。
光の中にミコの裸体のシルエットが浮かび上がった。
嘘だ……。
高速螺旋がミコの頭頂部で回転をやめると光が膨張を始めた。
「や、やめろ」
ヒュイイイイイイイイイッ
「いーーーやーーー!!!」
ドオオオオオオオン!
爆裂。
天井が……アパートの屋根がすべて吹っ飛んだ。
上の住人が皆いませんように。
「コンプリート」
マシンボイス。
シュウ
煙の向こうにミコがいた。
「イ、イリュージョン……?」
大きな赤いリボンと太鼓マーク(三つ巴紋)の黒い胸当て。
今までの巫女装束とは異なりミコはそこに立っていた。
そう。赤い袴がミニスカートに、そして揺れるポニーテール。腕とスネに西洋風の黒い甲冑が装備されていた。まあ、簡潔に言うと乱心した弓道部員みたいなもんだ?
「戦巫女 推参!」
大きな剣を振りかざしミコは猛々しく叫んだ。
「八百万の神々が出雲に出向く神無月。その隙をついて我が主を寝取ろうなどと不届き千万! 決して許しはしませぬ!」
俺は彼女を知っていた。
「合力せよ刃鬼神威!」
「イエスマスター」
彼女は神威を手に外へと跳躍していった。
「妖魔討伐姫 巫女のミコちゃん」
中学の頃、大好きだった美少女アニメだ。
「……何このアトラクション?」
俺は呆然とミコを見送った。
ええい! これが飲まずにいられるかってんだ、こんちきちょう!
酒だ!
酒持ってこーい!
気が付くと俺は妙な高揚感の中、一升瓶片手に戦巫女VS妖魔の対決に見入っていた。
バッサバッサと雑木林が薙ぎ倒されていく。
あ!? 火球が飛んだ。
どうやら熾烈な戦闘を繰り広げているようだ。
ここからではよく見えないが危険なので近寄らない事にした。
しかし。
俺はアパートの外に出て全貌を見た。
ひどい有様だ。
鉄筋コンクリートの三階建てが半壊している。
「ちきしょう!」
俺は酒をあおった。
まだだ、まだ飲み足りねー。
ドーンと言う爆音が更に裏手の川原から聞こえた。
戦いの場が開けた水辺へ移動したようだ。
何だか疲れた。
それに眠くなってきたな、夢見てるみたいだし……。
酒と先ほど飲んだ薬の影響のようだ。
寝ちまうか?
明日からまた仕事だし……あ!?
提出書類があったんだ。
まずい、書かなきゃ!
俺の中でランナーズハイに似た現象が起こっているのだろうか、それとも日本のサラリーマンの悲しい習性?
急ぎ外の微かな明かりを頼りにノートパソコンを探し出し書類作成に励んだ。しかし、時折聞こえるサイレンや戦闘音が気になって満足のいく書類が出来ない。
だめだ、このままじゃ課長に怒られちまう!
俺は必死に作成した。
出来た!
その時、ドアを蹴破るように消防隊員が駆け込んできた。
「大丈夫ですか! 要救助者発見!」
「何でもないです」
俺は隊員の下に赴き無事を伝えた。
返答が間違っているがそうとしか言えなかった。
ドーン!
直後、背後に黒い物体が着地した。
赤く光る八つの目。
隊員は悲鳴を上げて一目散に逃げ出していた。
職務放棄かよ?
俺はその物体を知っている……巨大化したパツキン蜘蛛ネーちゃんだ。
「!? あ、あ……ああああああああ!!!」
彼女の大きなお尻の下でスパークして煙を上げるノートパソコン。
ば、馬鹿な!
書類が……俺のデーターが。
おシャカ。
今まで集めた俺のエロ画像が、俺のお宝エロムービーが……。
すべてが無に帰した。
今までの苦労が走馬燈のように流れていく。
声にならない悲痛の叫びを上げ、俺はその場にヘタレ込んだ。
「逃すか!」
ミコの声が俺の耳に届いた。
「お、おのれ小娘!」
息も絶え絶えに蜘蛛ネーちゃん。
「拘束結界 氷結!」
キン
瞬時にして俺と蜘蛛ネーちゃんは凍てつく氷の結界にその動きを奪われた。
何故、俺まで……つ、冷たいよミコちゃん。
!? あれ、まずくねーかこれ?
この敵の動きを封じた次に来るのは……アレだよね?
「神威!」
「イエス」
剣とのやり取り……間違いない。やはり、必殺の。
「ま、待てミコ! 俺がいる!」
拘束術により掠れて小さな声しか出ない。
早まるな! 誰か助けてー!
ミコの位置からは俺が見えている筈なのに気づかない。
戦闘に夢中……怒りで我を忘れている。
ジーザス。
「今、龍神の力を得て我は放つ!」
ミコの声に反応した神威が展開、柄に近い刀身からグリップが飛び出した。
滑るような動作で神威を小脇に抱えて刀身より飛び出したグリップに手を添える、その姿はさながら長モノのライフルを構えているようだ。
「稲妻鉄槌!」
「レディ」
神威の先端に光輪が発生。その中心には小さな光球が徐々に大きくはち切れんばかりに拡張していく。
ああ、毎週欠かさず見てたよ。
「天・誅・殺!!!」
「ファイヤ」
無情な神威の声。
雷撃閃光が迫る。
「おのれミコっ! 謀ったなああああああ!!!」
まるで悪の中間管理職のような断末魔を俺は上げていた。
「ぎぎゃああああああ!」
同じく蜘蛛ネーちゃん。
ドゴオオオオオオンッ
落雷衝撃。
忘れていたけど、設定では龍神の巫女だったんだ。
眩い光の中でミコは放った衝撃を殺すため、砲撃の反動を利用して体を軸にクルリと一回転。ザッと神威を地面に接触させブレーキを掛けての決めポーズ。
「成敗っ!」
凛々しく美しい。
カッコイイじゃん……ミコちゃん。
俺を眩しい光が包んでいく。
ああ俺、死んじゃうかも?
光が俺の世界を白く全てを飲み込んでいった。
「……様……」
どこかで誰かが呼んでいる。
「広……様」
頭に当たるこの感触。
ああ、柔らかい、これは女性の太股だ。
「広人様!」
は!?
俺、生きてる?
「しっかりしてくださいまし!」
ミコ……そうかこれは彼女の膝枕か。
「広人様!?」
俺はゆっくりと目を開けた。
「な、何とか生きてる」
「ああ、広人様。私とした事がとんだ失態を……」
ミコは俺の顔を抱きしめ泣いていた。
柔らかくっていい匂いだなぁ~。
もう限界だ!
「た、頼みがある」
「はい、何なりと」
俺の弱々しく伸ばした手を掴みミコは応えた。
「一発ヤラせろ」
「はい、申し訳ありません。先ほどの戦いで思った以上に力を消耗してしまい、予定の刻限よりも早く戻らねばならなくなってしまいました……」
何? どういう事よ!
また、噛合ってなくない?
「ああ、もう限界のようです」
だから限界は俺だって!
「み、ミコさん!」
俺を抱きしめるミコの体が淡く白い光に包まれていた。
「ま、待てミコ! 俺はお前に沢山言いたい事が……したい事がぁ!」
「お別れの時のようです広人様」
ミコの体が透け始めた。
「待て! 逝くな! やらせろおおお!!!」
俺は渾身の力でミコを抱きしめていた。
「ああ、広人様……」
ミコは光の粒子となって天へと昇っていく。
「みこおおお! カムバーック!!!」
(きっと……また、あなた様の下へ参り……まする……必ずや)
頭の中でミコの声が響いた。
俺は必死に両手を空に伸ばしていた。
ポツリと雨が頬に当たった。
「何だよ……勝手に来てそれかよ」
次第に雨が激しさを増してきた。
俺はかつて自分の部屋だったと思われるクレーターの真ん中にいた。
訳も分からずその場に座り込んでしまった。
コトリと何かが手に当たった。
手に取りそれを良く見た。
「くくくくくく……そういう事か」
それは俺が中学二年生の時、小遣いを貯めて買った「妖魔討伐姫 巫女のミコちゃん」の1/7フィギュアだった。
「そういう事かよ」
当時、俺はこのガレージキットのミコを必死に完成させたんだ。
「来るなら来いミコ! 次こそは貴様をヤってやる」
雨は一段と激しく俺を洗う。
「ヤってやる、ヤってやるぞ! わははははははははははははははは!!!」
深夜の笑い声は続々と集まるサイレンと激しい雨音に打ち消されていった。
俺は一つ悟った。
据え膳食わぬは男の損
ああ明日、会社休も。
完