義理の弟が姉上と呼んでくれません
「……汚い手で触んな」
男の足を払いうつ伏せに倒すと、彼は背中へと乗り上げ抵抗する手を楽々と捻りあげた。
男が痛いと叫んでいるのに、彼は力を弱めることもせず「うるせぇ、その舌切り落とすぞ」と物騒極まりないことを口にして。
私は呆然とその光景を見るしかなかった。
頭が真っ白になっていたから。
どこぞの貴族かも知らない男に壁へと追いやられ、怖くて逃げられずにいた私の前に現れた一人の男ーーいや、子供か。
「ユーラ」
名前を呼ぶと、ユーラは捕まえていた男の手を離した。立ち上がると、逃げるようにして男が去っていく。
チッと舌打ちをして男を見送るユーラの顔は恐ろしいぐらいに険しい。
「もっと早く呼んでくれますか」
ムスッとした声でユーラが言う。すごく怒っている。私が助けを呼ばなかったから。彼を、呼ばなかったから。
私はホッとしたのと、その態度になんだか笑いが込み上げて。気づけば目に涙が浮かんでいた。
ユーラが「は?」と小さく声を漏らして、慌てるように私の前で膝をついた。
なんで、と困ったように目を泳がせるユーラに、私はたまらなくなって両手を伸ばして抱きつく。途端に抱き締めた小さな身体は石のように固まった。
ああ、わかってる。こんなことをされるのは嫌だってこと。でも、もう少しだけ。
「ユーラ、ありがとう」
「…………お嬢様は危機感が足りなさ過ぎます」
「うん、ごめんなさい」
ユーラの肩に顔を埋める。すぐ隣で深い溜息が聞こえた。それでも、控えめに背中を撫でる手に嬉しくなる。
ユーラはいつも私を守ってくれる。小さな頃からとても辛い訓練を受けて、大人顔負けの強さを手に入れて。すべては、私をーー家を守るために。
子供ならもっと甘えたいはずなのに、ユーラは一言もそんなことは口にしない。むしろ私が子供扱いをすると怒って口も聞いてくれなくなる。
寂しくなって音を上げるのはいつも私のほうだ。
「ドレスが汚れてしまいます。立てますか?」
「ええ、大丈夫よ」
ユーラの手を借りて私は立ち上がった。先程の恐怖はもうない。ユーラが、いるから。
私が微笑むと、ホッとしたようにユーラの表情が和らぐ。
心配かけてばかりだ。私のほうがずっと年上なのに。
今日のパーティーに、私の護衛としてユーラを選んだのは父だ。
親しかった友人夫婦が事故で亡くなり、その一人息子だったユーラは引き取り手もなく、孤児院へ連れていかれそうになっていたところを父が手を差し伸べた。いずれ息子とするために。
私がいつか家を出てしまうから、ユーラは家を継ぐために必死に勉強をしている。幼いのになんでも卒なくこなしてしまうから、安泰だなと父は喜んでいるけれど。
私は少し不安だ。まだ十歳の子供に全部押しつけてしまうことが。
ユーラが屋敷に来てから五年がたつ。
弟として接しているのに彼は一度として姉とは呼んでくれない。いつもユーラは私を「お嬢様」と呼ぶ。主従関係なんかありはしないのに。
もう慣れてしまったけれど、やっぱり寂しさは拭えない。
「会場に戻られますか?」
「……誰かと踊る気分にはなれないわ」
首を横に振って私は目を伏せた。あんなことがあって、男の手を取れるわけがない。ーー気持ち悪い。思い出したことで悪寒が走り、私は自分の腕を抱いた。
背中に温もりが触れた。ハッとして隣を見ると、ユーラが優しい顔をしていた。
あちらへ、と誘導するようにユーラは私の手を取り歩いていく。ーーどうして。
手を触れられて込み上げてくるのは、嫌悪なんかじゃなくて驚くほどの安堵だった。
少し力を入れて握れば、ユーラはなにも言わず握り返してくれる。なぜか、胸が甘く締めつけられた気がした。
ユーラが足を止めた場所は中庭にある噴水の前だった。流れる水の音が心地いい。
「ここに座ってください。なにか飲み物が必要でしたら取ってきますが」
「いらないわ。あなたも隣に座って?」
「……でも、」
「ひとりにしないで……お願い」
ユーラの目が少しだけ見開いて、左右に泳ぐ。困らせてるなとわかっていても、断らないと知っているから。
ユーラ、と名前を呼べば、彼は小さく息を吐いて隣へと腰を下ろした。
「ごめんね?」
「今日はお嬢様を守るのが仕事ですから」
「……うん」
ふふっと笑って、目の前にある噴水を眺めた。辺りを照らす灯りが夜を少し幻想的に見せてくる。きっと今日のパーティーのために庭もいい雰囲気が出るようにしたのだろう。
さて、これでどれだけの婚約が結ばれるのか。未婚の男女の集まりだ、出会いを求めて来てるに決まっている。私もその一人だったけれど、今回は無理そうだ。
これで何度目だろう。わかってはいても、嫌悪しか感じない自信があるから戻りたくない。
「お嬢様、あの男のことはどうするおつもりですか?」
「……なにもなかったから、お咎めはなしでいいんじゃないかしら?」
「バカですか?」
「バ、」
あんまりな言い方に言葉に詰まる。
ユーラを見れば呆れたような顔をしていた。
「なにかあったら遅いでしょうが」
「う、」
「俺が見つけなかったらなにされてたかわかってます?」
「あ、う……」
「なんでちょっと目を離した隙にいなくなるんですか」
「ご、ごめんなさい」
肩を落として私が謝ると、ユーラはこれまた深い溜息をついて髪をかきあげた。
幼いのに迫力がありすぎて萎縮してしまう。
そんなに怒らなくてもいいのに。
「生きた心地しなかったですよ、まったく」
「……ユーラ」
「いつまでも俺が守れるわけないんですから、いい加減自覚を持っていただかないと。それか早く結婚相手を見つけてください」
確かに、その通りだ。
私はいずれ結婚をして家を出る。ユーラも学校へ行くようになれば寮に住むかもしれない。そしてあっという間に大人になって、婚約者だってすぐに見つかって、ユーラはその人を大切に守るのだろう。
「そうだね。……ごめんね、いつまでも迷惑かけて」
「…………」
「今日はお相手が見つかりそうにないから、もう帰りましょうか?」
明るく声を上げて立ち上がる。
反省しなければ。いい加減、ユーラに甘えるのはやめよう。弟のように可愛がっているつもりで、私は姉らしいことなんてひとつもできてはいない。むしろ迷惑ばかりかけている。十七歳にもなるのに、なんて情けないのだろう。
「自分で婚約者は選ぶなんて言ったけれど、ここまで決め兼ねると父様に選んでもらったほうがきっと早いわね。……ふふっ、帰ったら話してみようかしら」
私を溺愛している父のことだから、悪い縁談は持ち込まないだろう。あっという間に話が進んで
、円満に結婚となるのが簡単に想像できる。
でも、私はその人をちゃんと愛せるだろうかーー恋すらまだなのに。
「……本気ですか?」
「……だって、いつまでもあなたに甘えられないもの」
困ったように笑えば、ユーラはひどく悲しげな顔をして俯いた。初めて見る顔に驚く。
「ユーラ?」
思わずユーラの前に座り顔を覗き込む。
ドレスが汚れるなんて考えもしなかった。
膝の上に置かれた小さな手がギュッと拳を作り震えている。
その両手を優しく包み込むと、ユーラはヒクリと喉を鳴らした。
「ユーラ……泣かないで」
「…………っ」
どうして泣くの。
初めて見たユーラの涙に私はどうしていいかわからなくなった。とめどなく落ちていく涙をなんとか止めたくて両手で拭うのに、ユーラはさらに嗚咽を漏らして泣いてしまう。
ああ、どうしたらーー。途方に暮れていると、小さな手が私の手を掴んだ。
「……ごめんなさい」
「ユーラ」
「嘘です」
「……え?」
「誰のものにもならないで」
「…………」
「……姉上なんかにならないで」
悲痛な声で言われた言葉に、ただ瞬きを繰り返すしかなくて。
私は、なにが起こっているのか理解するのにとても時間がかかった。その間にもユーラは私の手を掴んだまま泣いて、泣いて、泣き続けて。
すっかり目が赤くなってしまったユーラを見て、手を離すように言えば嫌だと首を横に振る姿になんとも言えない感情が込み上げる。
「ユーラ」
優しく名前を呼ぶと、ユーラは名残惜しそうに手を離した。
私はその場に膝をついてユーラを抱き締めた。
「お嬢様……?」
「あなたは私に早く家を出ていってほしいのかと思ってたわ」
「……っ、違う」
「だってさっき早く結婚相手を見つけろと言ったでしょう?」
「嘘だって言った……!」
「……ねぇ、ユーラ。どうして、あなたの姉上になったらいけないの?」
「そ、れは……」
「どうして?」
「…………言いたくない」
ーーまだ。
私の肩に顔を埋めてユーラは言った。
「それは、いつか教えてくれるのかしら?」
ユーラが少し間をあけて頷いた。
なんだかそれがとても可愛くて、私は小さく笑ってしまった。
「じゃあ、待つしかないわね」
「待ってくれるの?」
「ええ」
「……誰のものにもならない?」
「それは、」
「…………いやだ、離れたくない」
初めてのわがまま。一度として甘えなかったユーラが。必死になって私のドレスを離れないようにと掴んでいる。
これを人は愛おしいというのだろうか。
なんともむず痒い、でも充たされる温かさ。
「可愛い」
「…………嬉しくないです」
スン、と鼻を鳴らしてユーラが拗ねた声を出す。子供扱いはするなということか。それでも離れようとしないのは、甘えているからでは。言ってしまうとユーラは触れることを二度と許してくれないような気がして。
私は黙ったままユーラの頭を撫でて目を閉じた。
「いつもこうだったらいいのに」
「……?」
「私だって年上だもの、頼られたいわ」
「…………俺はあなたに頼られたいです。この先も、ずっと」
「…………」
ーーずっと?
ユーラがそっと私の身体を押した。
そのまま離れようと思ったら、ユーラの両手が首の後ろに周り動きを封じられた。間近で見えた青く綺麗な目に惹きつけられる。
ユーラ、と唇だけが動いた。
その唇を塞ぐように温かな熱が触れて。
咄嗟に細い腕を掴む。けれど首に回った手がさらに私を引き寄せて、触れた唇は深く重なった。
「……んっ」
目がチカチカする。なに、なにが起きて。
は、と離れた唇から吐息が重なって、やっと「ユーラ」と震える声で名前を呼べば、縋るように額が合わさった。
「あなたが待つなんて言うから、」
ひどく辛そうに言うものだから。私はなにも言えなかった。十歳の、年下の、弟になにをされたのか。それがなにを意味するのか。
「今さら、姉なんかに見れるわけないですから」
「…………ユーラ」
「待っててくださいね? 俺が大人になるまで」
抱き寄せて耳に囁かれた言葉に、私は身体を震わせた。
ただ寂しくて、誰のものにもなるなと言っただけだと。血が繋がっていないから姉と呼べないだけだと。勝手に思っていた。いずれ姉弟になれたらいいと、勝手に。私だけが。
「ユーラ」
目を閉じて流れた私の涙を、ユーラは愛おしそうに唇で掬いとった。
「……大好きですよ、お嬢様」
小さな身体が私を抱き締める。
戻れない言葉をひとつ残してーー。
おねショタしか書けないのか私は。
すみません、ほんと。
挨拶でキスする。大丈夫。セーフ。
セーフと言ってくれ。
おねショタ書くの好きだけどガチで年齢差に悩む。そしてお蔵入りがたくさん。こわい。