思想としての文学
タイトルは「思想としての文学」だ。文学に思想を導入するとかしないとか、そういう意味ではない。文学それ自体が一つの思想であるという話だ。が、それに関しては語り得ない。それは文学内部においては語られないタイプの真実である。
僕は、文学を一つの思想、立場として見たいと思う。今までは、現代の、どちらかと言えば通俗的な文学作品、露悪に流れるかほっこり日常系に流れる文学作品(それを権威や大衆性が支えている)を否定し、古典に活路を見出してきたが、そういうものとは違う見方をしたい。現代の文学作品も古典となる文学作品も、文学という立場を取っているという事は同じだ。そこには質的な差があるが、それに関してはここでは問題にしないつもりだ。
さて、文学が一つの思想であるという時、それはどんな意味か。その場合、こんな風に考える。ある人間を分析したり、洞察したりする場合、様々な方法論がある。それらの内で、文学はその人の生に着目する。
この場合、例えば、高邁な物理学者並びに、哲学者などがいても、彼らの思考内容は文学における主な対象ではない。それは物理学や哲学の対象である。アインシュタインという人物の考えた理論が問題になる、それを問題とするのが、物理学という分野だ。それが、事実と呼ばれる現象と数式が一致するかというような、人間の根底のあり方に合致した行動というものが物理学である。文学はそれとは違う見方をする。アインシュタインの中にある高邁な(あるいは低俗な)思想や数式も、全ては彼が人生の中において「いかに生きたか」という関わりに着目する。そのような見方をするのが文学である。文学という一つの立場である。
だから、文学とは、生の定式化であり、その言葉への定着であると言える。これに関しては極めてオーソドックスな答えと言っていいだろう。
さて、厄介な問題はここからだ。僕が長い時間、この問題を考え、同時に、何故人がこの問題を考えようとしないのかという疑問に思っていたポイントがここにある。
それというのは、文学が形式化したという事である。短歌の歴史であれば、新古今和歌集になって、短歌が生の叫喚ではなく、貴族の遊戯となった、趣味的なものとなったという事柄と同じような歴史的事象であろう。(ポストモダンはこれを後押しした)
先に、文学は生の定式化と言った。その場合、僕が考えているのは、作家が(プロとかアマチュアとかはどうでもいい)生を直接見るという事だ。では、生を直接見るとはどんな事か。これがわからくなっているのが現在であると思う。
問題は、僕が「生の定式化」と呼ぶ場合、人々が、文学というものを趣味的に捉え、作家もまた、人々に気に入られようとし、売上を伸ばそうとし、あるいは新人賞を取ろうとしている時、その『為の』手段としてのみ文学が、道具として使われている時にも、『そうしている人々』を直接見るのが『文学』であるという事である。したがって、僕の言う文学は、過去の文学という定義からはみだすだろう。またはみ出さなければ『文学』ではないだろう。少なくとも、僕の言う「文学」ではないだろう。
僕は人と、哲学や文学の話をして、ほとんどの人が実際には哲学にも文学にも、芯の部分に興味がなく、それらを趣味的か、商売的に扱う事によって満足しているというのを体感した。その為に、僕は「真の」という言葉を使い、先を目指したが、今、自分の試みは間違っているという事に気がついた。仮に僕の考えが人口に膾炙しようと「真の」という言葉を僕の思考につける事はできない。できるのは、「ただヤマダヒフミはそんな風に考えた」という事だけだ。
文学の話に戻るなら、文学は「生の定式化」であるという場合、文学というものを文芸誌の中にあるもの、新人賞やノーベル文学賞、書店の中にあると考えている人は、生を描こうとしているのではない。彼らは生を、現実を見ていない。彼らが見ているのは文学である。だからこそ、彼らの書くものは文学ではない、というパラドックスが現れてくる事になる。
文学とは生の定式化であるとする時、それを絶対的なある一つの視野とする時、文学というジャンルが存在し、それに人が参入するのではなくて、そのような人々のあり方、そのような人々に扱われる文学というあり方も、人間の生き方を通じて全て見る事ーーそれが文学という一つの視野であると思う。
現代の社会では、「文学をする」とはすぐ「芥川賞か直木賞か」という話になり、市民社会の価値観によって、その内部に収められるものとして機能する事が前提とされている。多くの作家、作家志望者もこの前提については疑わないという点では全く一致している。現行の作家らが、おそらくは市民として『健全』であろうという印象を与えるのは、彼らがいかに露悪的な作品を書いたり、露悪的な行為をしたりしたとしても、彼の思考は我々の前提に及ばないと感じられているからだろう。
だから、現行の文学は社会に包摂され、人々に包摂されている。僕の言いたいのは、そのような人々を描く、認識するのが文学であるというような事柄である。だから、生の定式化としての文学は、文学というジャンルから外れる事になるだろう。少なくとも人々が文学と呼ぶものではないという事になる。
僕は文学というものを一つの視野として考える。現行の文学は、大衆的価値観や権威に承認される限りにおいて「文学」というレッテルを保っているが、僕の言う文学とは、そのような価値観や権威に憑かれてて生きる人々をも描く一つの手段である。芸術は、芸術という価値観によって包摂されるものではない。むしろ、そのような価値観をも包摂するように、それ自身の表現によって様々なものを越えていくのが芸術であると思う。
…とここまで書いて、また「自分の概念の方が真である」という論法を使ってしまったが、今は考え中なので、まあいいかと思う。しかし、ここから更に進むと、おそらく文学論ではなく、哲学をしなくてはならないだろう。「文学とは何か?」という問いはそのような問いの構造や、論理の構造の解読に及ばなければならないだろう。とにかく、この文章においては、もし文学が文学の本質を(僕が本質と呼ぶもの)真っ当しようとすると、文学という価値観を破らざるを得ない、と言えるだろう。文学が、人間の生を描くものだとすると、それを描く事によって「文学」だと認めてもらおうとすると、それはもはや本質を失っている。文学の本質は、文学が生を上回る、上回る事ができる、という点にある。(これは芸術史上主義ではない。認識の話だ) 現行の文学は生並びに、生を深く犯す人々の価値観によって文学が包摂されているのであり、だからこそ、文学が軽く見られ、サブカルチャーがより評価されるという現状も当然の事となる。それは正当な事であるというような価値観が我々の本質に深く根ざしているからだ。文学はそのようなあり方をも、一人の人間の生き方を通じて描く事は可能だろう。最も、そんな文学が我々の目に映るかどうかは未知である。我々は、我々の認識にしたがって世界を見るから。したがって…この文章も人々の目に映るかどうかは未知であろう。ただ、この道は存在するように自分には思われるが。




