第2章 ③
叔父のシモンとミヤカが暮らすことになってから、十年。
思いがけない事態に出くわすことは、慣れているが、今回の衝撃は最大級で、とても立ち直れそうもなかった。
いくら、四十過ぎのわりに童顔で優男だったとはいえ、シモンが女装してくるとは、思ってもいなかったのだ。
「なあ、ミヤカ! びっくりしただろう? わたしもここまで上手く行くとは思わなかったんだよ。きっと、わたしの変装が完璧なせいだろうな!」
「完璧というか……、そのものというか」
シモンは、サテン地のナイトドレスの裾を、片手でつまみながら、得意げに口角を上げる。化粧は落としたものの、長髪のかつらは健在で、仕草も女性らしく、嫋やかだった。
(ぱった見た感じじゃ、バレることはないだろうけど?)
ミヤカとシモンは、あまり似ていない。
シモンの髪色と瞳の色は、共に茶色で、黒髪黒目のミヤカとは違う。それに顔の輪郭も、丸顔のミヤカとは違い、シモンは面長だ。こうなってくると、そう簡単にバレるとも思えないが、しかし、シモンのことを、国が総力を挙げて行方を追っていることは確かなのだ。
捕まってしまったら、どうするのか?
それこそ、ミヤカとの取引に利用されてしまうだろう。
(…………阿呆じゃないのかな?)
出会ってすぐに、そう叱りつけてやろうしたのに、シモンと対面した途端、言葉が飛んでしまった。あまりに、シモンの女装が堂に入っていて、当人に罪悪感がないからだろう。
寝台以外、何もない殺風景な一人部屋で、シモンは満面の笑みを浮かべている。
リカルトの手配した尾行を撒いて、警戒しながら、シモンの部屋に忍び込んできたミヤカが馬鹿みたいだった。
「えーっとさ、まず、どうしてここに来たのかな、叔父さん?」
「ああ、これは……すべて彼女の力のおかげなんだ」
「………………はっ?」
『うふふ。そうなの。わたしが彼に憑いてあげたのよ。それで上手くいくように、女らしくしてあげて、手を貸してあげたの』
むやみなほど、色気を濃厚に含んだ声が、シモンの口からついて出た。
忘れるはずもない。その声は…………。
「イリア……?」
四百年前のルミア神国の王族にして、神事を司った女性。
ミヤカが城に行くことを決めた矢先に、行方不明となっていたのだが……。
「巫女姫、貴方ね……。いきなりいなくなるから、捜していたんだよ。せめて、何処に行くのか教えてくれないと……」
『あら、心配してくれたの。ごめんなさい。久しぶりの現世が楽しくなっちゃって、ついふらふらと観光を……。忘れてしまったことも多くて、いい刺激になったわ』
「あっ、そう……」
どこまでも、軽い人だ。彼女の持つ緩い空気に騙されて、ミヤカは「巫女姫」などという、何の得にもならないことを引き受けてしまったのかもしれない。
『それでねえ、戻ったら、貴方が城に行ったって聞いて……。この人も城に行くって言うから、だったら、わたしが憑いてあげようと思ったの。だって、そうすれば究極の変装になるでしょう? 少なくとも、仕草は女性そのものに見えるはずよ?』
「……そうだね。涙が出るほど、女性にしか見えないよ」
『うふっ、誉められちゃった?』
くすくすと笑いながら、シモンの身体を抱きしめているイリアを目の当たりにして、ミヤカはぞっとした。この雰囲気に飲まれてはいけない。
「じゃあ、イリア。せっかくの機会だから、改めて訊くけど、魔界の入口って、この城のどこにあるの?」
『さあ……』
「はっ?」
シモンの中のイリアは、まるで他人事のように首をひねった。
『分からないのよねえ。当時の面影がまるでないんだもの。目印になるようなものもないし、お手上げだわ。近くまで行ったら、神珠が反応して、貴方にも分かると思うけど?』
「…………近く……と言われても」
『近くは近くよ……』
「何、それ……? この広大な城の中をさまよって、自力で見つけろと?」
『まあ、あと二カ月は猶予もあるんだし、ゆっくり探したらいいじゃない。わたしも、目覚めたばかりで、記憶があやふやなところがあるのよね』
「それ、かなり困るんだけど……」
ここまで、白々しいのは彼女の性格なのか?
(どうも、引っかかるなあ……)
「この高台には、城だけではなくて、リーラ教の総本山も建っているんですよ」
『リーラ教……。ああ、あの大陸の野蛮な宗教ね。まだ、存在しているの?』
「ねえ、イリア。その言動、誰かに聞かれたら、捕まるかもしれないから、気を付けてね」
サンマレラ王国では生まれて間もなく、リーラ教の教父から洗礼を受け、死後は、リーラ教の教父の祈りであの世に逝く。生まれた時から死ぬまで、リーラ教なのだ。
国民のほぼ全員が入信している国教を前にして、ルミア神国の民間信仰を口にすることこそ、野蛮な行いと見なされてしまう。
(なんか、面倒だな。もう帰りたい……)
「いっそ、魔界の入口なんてどうでもいいって、逃げてもいいかな?」
『ええ、別に構わないわよ。天変地異が起きても構わないと、見切りをつけるのなら』
「その脅し……さ。「天変地異」って、一体何なの?」
『……言ってなかったかしら?』
「訊いたげと、何度もはぐらかされているかな?」
『分かったわ。じゃあ、もう一度、話してあげる』
今まで一度も話したことなんてなかったはずなのに、イリアは腕を組みもったいぶった口調で話し始めた。
『魔界には赤い龍が住んでいるの。巫女姫は古来より、それを神珠の力で封じてきたの。でも、三百年前、サンマレラ王国が侵入してきた時に、当時の巫女姫が神珠を持って神殿から逃げたのよ。だから、この機に神珠を元の位置に戻して、封じ直して欲しいってこと』
「……そもそも、赤い龍って何? 地下にそんなものが住んでるの?」
『四百年前に封じたわたしにも、実態はよく分からなかったんだけど、赤いものが地下で蠢いていたのは、覚えているわ。きっと、あれが赤い龍だったのね?』
「人に大変なことを頼む割には、肝心なところを、話してくれてないよね?」
(なんだか、命懸けになりそうだな)
悪い予感がしていた。
ミヤカのこういう勘は悲しいことに、高い的中率を誇っている。
リカルトとの再会がなかったら、とっくに逃げていただろう。
「…………むしろ、詳しく話すと、わたしが逃げ出すとか思ってない?」
『どうして、そう思うの?』
「わたしだったら、そうするから。美味しい飴を用意して、飴を食べ終わった後で、鞭をふるうってね」
『飴という割には、貴方は、神珠の力を使えるって分かった時も、まるで他人事のようだったけれど?』
「そうだったかな?」
両親を早くに亡くし、学園で苛められるだけだったミヤカは、どこか自分のことを、他人のように見てしまう癖がある。主観的に物事を考えることができなくなっているのだ。
今回、国の王子たるリカルトに無茶な条件を押し付けた時点で、死刑になっても仕方ないのだから、大それた行為の代償が命というのも、どこか当然のような気がしている。
「でも、できれば、死にたくないので、そこのところ、詳しく……」
「はははっ。ミヤカは、おかしなことを言うなあ」
「へっ?」
突然、我に返ったシモンが大声で笑った。
「…………また、逃げられた……の?」
「違うぞ、ミヤカ。イリアは疲れたんだそうだ。憑依は力を使うらしくてな。長時間喋るのは無理なんだと。……しかし、お前は昔から心配性だな。何を恐れる必要があるんだ? 魔界の入口を塞ぐ前に、先にサンマレラの王家を潰してしまえばいいだろう?」
「…………もうね、何をどう言えばいいのか」
ミヤカの疲労は、叔父と巫女姫の相手をしていることで、二倍に膨れ上がっていた。
「叔父さん、何度も言うけれど、そう簡単に、王家を潰せるはずないからね」
「別に王家自体を潰さなくとも、とりあえず、陛下には退場してもらって、お前が女王になればいいんじゃないか?」
「どうして、そんな大層なものに、わたしがならなきゃならないのか分からないんだよね」
「分からないのは、ミヤカお前の方だぞ」
シモンが楽天的な笑顔を引っ込めて、真剣な眼差しで顎をさすった。
「お前だってその気だったんじゃないのか? だから、リカルト王子と結婚なんて、言い出したんだ。最悪、王子を取り込んでこの国を乗っ取ろうとしていたんだろう?」
「まっ、まさか……。叔父さん、わたしはね……。城に留まる理由が必要だったから、王子に結婚を吹っかけただけで……」
「どうして、結婚? お前が神珠の力で、ここにいたいと脅せば、それで済んだだろう?」
「それは……その」
たまに、正論を吐くから、シモンは怖いのだ。
ミヤカはここでも嘘を言わざるを得なくなってしまった。
「つまりだよ! わたしは「結婚」で、リカルト王子に復讐しているんだよ。分かるかな。ただの復讐なんだ。そこにやましい気持ちは一切ない」
『やましい気持ちのない復讐なんて、初めて聞いたわ』
「イリア!? 疲れていたんじゃないの!?」
すかさず、叔父の中の巫女姫が突っ込んできたので、ミヤカは目を丸くする。しかし、すぐに表情は切り替わり、眉間に皺を寄せたシモンが激しい剣幕で詰め寄ってきた。
「しかし、ミヤカ。お前がリカルト王子と同級生だったのは知っているが、復讐って……力を使ってまでしなければならないことなのか?」
…………絶対、何かがおかしい。
個人的な復讐と国家転覆と、どちらの罪が重いかと問われれば、当然、国家転覆だろう。
「復讐をしたいほど、リカルト王子に恨みがあるなんて。一体、王子はお前に何をした?」
「そんな……たいしたことでは」
「たいしたことではない復讐って何だ? お前は、この城に乗り込む時も嫌がっていたじゃないか。リカルト王子が原因なのか? 一体、あいつに何をされたんだ!?」
ミヤカの肩を両手でつかんだシモンは強く揺さぶる。
目を回しながらも、ミアカは強い口調で言い放った。
「叔父さん、いい? リカルト王子はね、もっさり重い黒髪の黒ずくめのお化けみたいな格好した化粧気も、色気もない、ガリガリの女が嫌いなんだよ。こんな女が始終近くにいたら、不愉快でしょう。私は彼の不愉快そうで困った顔を見てやろうって、決めたんだ!」
「…………お前」
刹那に、神妙な面持ちとなったシモンは、懐から藁でできた人型を取り出し、ミヤカの手に持たせてから、その手を握りしめた。
「叔父さん、これ……?」
「ミヤカ、これは、わたしが独学で学んだ魔術で作った身代わり人形だ。これをお前にやろう。この藁の中に一本髪を入れたら、それと髪の主は同化する。復讐をするのなら、徹底的にやらなければ……。わたしはどこにいても、お前の味方だからな」
「いや……その……。えーーっと」
戸惑うミヤカに、親指を立てて見せたシモンは、白い歯が輝きそうなくらい、爽やかな笑みを浮かべていた。
…………もう、何も言えなかった。
◆◆◆◆
――また面倒な物を託されてしまった。
シモンの部屋からの帰り道、ミヤカは豪華絢爛な王城の中で、異質なほどに古めかしい朽ちた箒を抱えながら、ゆっくりと歩いていた。
「馬鹿みたいだ……」
ひとりごちて、虚しくなる。
(一体、わたしは何しているんだろう?)
一人で結婚だの、復讐だの言って、挙句、よく分からない役目を押し付けられて……。
リカルトの言う通り、猛烈に痛い人だ。
彼の困惑した顔を眺めているのは面白いが、同時にとても寂しくもあった。
限りある時間を楽しく使いたいと望んだのは、ミヤカ自身だったはずだが、それは間違っているのだと思い知らされているような気がする。
高い天井を見上げて、華やかなシャンデリアに目が眩み、がくりと肩を落とす。
………………と。
「おいっ」
低い呼びかけに、びくりと身体が震えた。
「……王子」
リカルトは壁に寄りかかったまま、悠然と腕を組み、まるで通せんぼするかのように、長い足をミヤカの前に投げ出していた。麗しい顔に笑みはない。見慣れた仏頂面だった。
「お前、何処に行ってたんだよ?」
「おや。結婚式もまだなのに、妻を束縛するのかな? わたしは、王子が何処に行っても、束縛なんてしていないつもりだけどね?」
ミヤカはさらりとかわしたつもりだったが、リカルトの目は厳しいままだった。
やはり、目をまっすぐ合わせるのは、後ろめたいことがあるだけに怖い。
「戯言はいい。お前、尾行を撒いたそうじゃないか?」
「わたしに尾行なんかつけても無駄なのに、どうして、つけるのかな?」
リカルトに対抗するように、嘲笑を浮かべてみたものの、慣れない芝居は長時間持たない。彼の真剣な眼差しに、ミヤカはすぐに、固まってしまった。
「お前さ……」
「何?」
まさか、シモンの存在がバレたのか?
背筋に冷たいものが走ったものの……
「どうして、お前、姉さまが来た時、大人しかったんだ?」
「……はあっ?」
思いがけない質問に、ミヤカは腰が抜けそうになった。
「一緒になって、俺の悪口を言って、俺に嫌がらせをすることだって、できただろう?」
「お妃様の、あまりの迫力に拍子抜けしただけだよ。次からは覚悟するがいいさ。ハハハ」
「何がハハハだ。ただ拍子抜けしているようには、見えなかったぞ?」
「そんなことないよ」
「そうかな。救国の条件で結婚とか言い出した割には、子供じみた嫌がらせをするだけで、具体的にどうこう動こうとはしていない。お前は一体、俺で何がしたいんだよ?」
「…………別にわたしは」
何がしたいのか……。
それは、ミヤカ自身が一番知りたいことだった。
四百年前の巫女姫の言葉なんかに、従わなければ良かったのに、うっかり手を貸してしまったのは、ミヤカの方なのだ。
その理由の半分は、認めたくないけれど、学生時代の清算が目的なのだろう。
地位が釣り合うことなんてないけれど、異能があれば、彼と肩を並べることができると思った。
だけど、いざ肩を並べたものの、何をしたいのか自分でも分からない。
不毛な状況だ。
「なあ? こんなこと言うのも変だけど、お前、もしかして悩んでいるんじゃないか?」
「ないよ。悩みなんて……」
「でもな。学園にいた頃のお前、うっすら覚えてはいるんだ。なんか内気で繊細そうで、声は掛けづらかったけど、こういう過激なことをするような奴には見えなかった」
「買い被りだな」
「じゃあ、一体何を企んでいるんだ。俺に話してみろよ。力になれるかもしれないだろう?」
「……だろうね。確かに、貴方に話したら、あっという間に解決するかもしれない」
「……だったら?」
そうして、ミヤカは口を開こうとして、思い出す。
暗黒の学生時代のことを……。
リカルトが薄らとしか覚えていないようなことでも、ミヤカは鮮明に覚えている。
悲しいくらいに、彼のことを忘れることができない。救いの手を差し出しているようで、地獄に叩き落とす、リカルトの残酷で優しい仕打ちの数々が胸を抉るのだ。
それでも……。
彼に悪気がないことくらい、理解はしていた。
卒業してから、彼に一目だけ…………会えないかと願っていた。
しかし、ただ会いたいというだけで、別にリカルトを独占したかったわけでも、巻き込みたいわけでもなかった。
もしも、一目会う機会があったのなら……。
卑屈に根暗に振る舞うことなく、普通に……挨拶くらい彼と交わしてみたいと思っていた。
普通で良かったはずだ。
それなのに、ミヤカはどうしても、正反対のことばかりしてしまう。
確かに、城に来た時、門前払いされたことも理由の一つではあるけれど……。
「答えろよ。ミヤカ……」
「いや……だから、それは……」
ミヤカは、言いよどんだ。
(貴方に教えたら、あっという間に解決してしまうって、私は二度とここにはいられなくなるんだよ)
そんなこと言えるはずがない。
未練がましいではないか……。
だから、もう少し待っていてほしい。
そう暗に言っているのに、せっかちなリカルトは責め立てるのだ。
「お前のためを思って言っているんだぞ?」
随分と上から目線な言い様だ。
けれども、彼に他意はない。
本気で、そう思っているのだ。
純粋そのもののリカルトのきょとんした眼差しを目の当たりにすると、動揺しつつも、深奥から苛々してしまう。
どうやら、ミヤカが素直になれない最大の理由は、彼のこの表情のようだった。
「……嫌いだ」
「はっ?」
「やっぱり、わたしはリカルト王子が大嫌いだ」
ミヤカは語気強く言い捨てた。
そして、箒を引きずりつつ、大理石の床を脱兎のごとく駆けだす。
後ろでリカルトが
「おいっ!! 何だと! どういう意味だよっ!?」
地団駄を踏んで、叫んでいた。
そうだろう。世界が滅びても、彼には理解できないに違いない。
ミヤカとて、よく分からないのだから……。
決して、リカルトが悪いわけではない。
誰より嫌いなのは、すべてを彼のせいにしているミヤカ自身なのだ。