第2章 ①
あれは、十四歳の時だった。
六年制の学園で、入学してから二年の月日が経過し、経済状況と生い立ちからミヤカの学級内での奴隷的な立ち位置も確定してきた頃の話だ。
リカルトは、派手に廊下で転んだミヤカを、起こしてくれたことがあった。
王子と発覚する前の黒髪で、変装中の彼であったが、どことなく漂う育ちの良さと、天性の人懐っこさで、学園内の誰もが一目置く存在となっていた。
彼は常日頃、悲しいほど鈍感なくせに、変なところで、鋭い観察眼を持っていた。
この時も、そうだった。
「今のさ、アイツの足に、引っかかって躓いたんじゃないのか?」
気づかなければ良かったのに、一体どうして……。
「ちが……違うよ。リッカルド君、大丈夫だから」
ミヤカは消え入りそうな声で、否定した。
事実、リカルトの言う通りだった。
ミヤカを嫌う女子の一人が、のそのそ歩くミヤカの前に突然、足を出してきたのだ。
動きが鈍く、長い前髪で視野が狭くなっているミヤカは、簡単に引っかかって転んでしまったのだが……。ここまで派手にやってしまうとは、自分でも驚きだった。
うつむき、黙り込むミヤカにしびれを切らして、リカルトは勝手に暴走してしまった。
「……ああ、分かったよ。俺がちょっと言ってきてやるから!」
「げっ。いや、ちょっと、リッ、リッカルド……く」
弱々しく、ミヤカが止めている暇はなかった。くすくすと満足げに笑っている女生徒に、猛然と詰め寄って行ったリカルトは、こう言ったのだった。
「あのなあ、気を付けろよな! いくら不注意だからって、あんなに派手に転がっている奴に手の一つも貸してやらないなんて、酷いじゃねえか! かわいそうだろ!?」
――きっと、彼の脳内は、良心で出来ているのだ。
彼女がわざと足を出したとは、微塵も思ってもいないらしい。
リカルトのしたことは、まったくもって、余計なお世話だった。
ミヤカに対する苛めは更に過酷なものとなってしまい、性格も荒んでいった。
あれだけ、毛嫌いしていたシモンの怪しげな魔術を使って、彼女たちに気づかれない程度の復讐を遂げるまでになってしまったのだった。もっとも、気づかれない程度のものだったので、ミヤカに対する嫌がらせが終息に向かうわけでもなかったのだが……。
出来ることなら、学園を辞めてしまいたかった。
だけど、シモンが無理をして入れてくれた私立の名門校を辞めたくはなかった。
それに、辞めてしまったら、ミヤカを虐げた連中に、負けてしまうような気がして、嫌だった。だから、ミヤカは卒業まで待つことにしたのだ。
学園を出てしまえば、赤の他人。誰とも一生、関わることもないだろう。
住む世界も考え方も何もかもが違う人と時間を共有することは、二度とない。
彼と出会うことも、絶対にない。
―――そんなふうに、考えていた。
「…………考えてたんだけどな」
この後の自分の人生に、関わり合うことなどないはずだった相手の私室に、完全に居座ってしまっているミヤカだ。
さすがに寝室は分けてみたが、強引なのには、変わりがない。
日が経つにつれて、自分の愚かさが身に染みてくる。
よくもまあ「結婚」なんて、そら恐ろしいことを口にしたものだ。
せめて、婚約にしておけば良かったのだろうか……。いや、結婚も婚約も同じだろう。
「…………あの?」
「んっ?」
すぐ横で愕然と呟く声を聞いて、ミヤカは顔を上げた。
「…………一体、お前は何を考えているんだ? ミヤカ=ファーデラ」
「えっ、何って?」
ミヤカは、わざとらしく首を傾げた。
「お前は一体、俺に何をさせたいんだって訊いてるんだ!」
「何って、見たまんまだと思うけど?」
「もっ、申し訳ありません、殿下。今少し動かないで下さいますか……」
長椅子にだらりと腰かけるミヤカのすぐ横の丸椅子で、せっせと画布に筆を走らせていた男が申し訳なさそうに、ぺこぺこ頭を下げながら、リカルトに指示を出した。
「あともう少しで、下描きが出来ますので……今しばらく」
「…………えっ、あ、うん」
――と頷いて、しばらく直立していたリカルトだったが、ややしてから、予想通り声を荒げた。
「いや、絶対におかしいよな!?」
睨みつけてくるリカルトに、ミヤカは内心の動揺を打ち消して、余裕の笑顔で応じた。
「まったく、動くなと言われているのに、どうしてじっとしていられないのかな?」
「ふざけるな。どうして、画家を使って俺を描いているんだよ? 理由を言え」
「理由も何も、妻が夫の肖像画を欲しがるのは、当たり前のことじゃないのかな?」
「いや、初耳だぞ。お前のことだ。純粋に俺を描いて欲しいという訳でもないのだろう?」
「いやだな、純粋に王子の絵が欲しいだけだよ。リカルト殿下は美しいからね」
「…………ミヤカ様は、肖像画を量産して売り裁くことを望んでおられます」
良心の呵責に耐えかねたらしい画家の自白によって、リカルトは怒りを露わに、ミヤカの前までやって来た。
(あと少しだったのに、ひどい)
巫女姫から授けられた箒で、一過性の能力者となっているミヤカだが、役目が終わればただの人に戻ってしまう。
後々、いくら事情を説明しても、簡単には許してもらえないかもしれない。
……としたら、莫大な逃走資金が必要になるはずだ。
そのための荒稼ぎと、嫌がらせが一緒になった素晴らしい作戦だったのだが……。
「……一体、何を企んでるんだ? 俺の肖像画で、稼ぐとか言ってなかったか?」
「お金は、美しい物を皆で共有するための対価だよ。きっと快く払ってくれるだろうさ」
「ええ。王子の肖像画ともなれば、国家規模で売れますとも。特に若い娘が……」
「黙れ」
自信満々に髭を撫でて言い放つ画家を、鋭く視線で制したリカルトは、
「今日は帰ってくれ」
――と、きっぱり命じた。
すごすごと部屋から去って行く画家の後ろ姿に、ミヤカは重い溜息を落とす。
「あと、もう少しだったのに。あんなふうに邪険に帰さなくても……」
「ふんっ、俺で復讐したい割には、安っぽい復讐方法だな?」
「そうかな。まあ、確かに、服は脱いだ方が、更に高く売りつけられるだろうけど?」
「そんなことを言ってるんじゃねえ!」
リカルトは激しい剣幕で突っ込むと、肩で呼吸をしながら、今まで画家が腰掛けていた椅子にどかっと座った。
「ああ、クソっ。さっきまで、お前相手にも冷静に対処できると思ってたのに、やっぱり駄目だ。猛烈に腹が立つ」
腹を立てられているのは、いつものことだ。
好かれる可能性より、嫌われる現実の方が受け入れやすいのは悲しい性分だ。
「クラウト王子は息災のようだね。義理の妹になったことだし、直接わたしが王子に会いに行ってみようか?」
「それだけは、絶対にやめてくれ」
剣の柄にまで手を伸ばしていたので、ミヤカは、それ以上強引な話をするのをやめた。困惑しているリカルトを目にするのは楽しいが、本気で怒らせたいわけではない。
「あのなあ……。自称・救世主」
「はい?」
「俺が何も知らずに、お前に良いように使われているだけだと思ってるのか?」
「残念ながら、まだ良いように使ってもいないんだけど?」
「……揚げ足取りするな」
「揚げ足……なのかな?」
リカルトは、乱暴に足を組むと、得意げに鼻を鳴らした。
「お前の身元は知れているんだよ。ミヤカ=ファーデラ。子供の頃に両親を事故で亡くし、身内は叔父だけ。叔父が古書店の店主であったことから、幼少時より古文書に触れていた可能性が高い。叔父は現在失踪中で、同年代の友人はいない。俺と同じ学校に六年通っていた。…………違うか?」
「なにも、諳んじなくても……。それに、調べた割には、薄っぺらい情報じゃないか」
当然、リカルトがミヤカの素性を調べるだろうことは、予想していた。
身内や友人に説得を頼もうと試みたのだろう。
しかし、残念なことに、姿をくらませている叔父が見つかったとしても、何の役にも立たないだろう。むしろ、その背中を押すに決まっているのだ。
「一応、お前のことを色々と聞いて回ったが、印象の薄い、目立たない女の子だったって聞いたぞ。みんな、俺と同じ見解だ。それが卒業して半年で一体お前に何があったんだ?」
「悪いね。リカルト王子。わたしは元々こういう性格なんだ。学園では、口数の少ない、つまらない人間でいただけだよ。王子のように、裏表のない人間にはなれないんだ」
「俺だってな。自分を偽ることくらいは……」
「分かっているよ。学園での六年のうち、三年間は変装して学校に通っていたよね?」
「…………ああ、そうだ」
「どうして、また変装までして通っていたのか、わたしには、いまだに分からないけど?」
「別に深い意味はない。王族御用達の学校に十二歳まで通っていたけど、くだらない連中ばかりで、つまらなくてな。いっそのこと、普通の学校にバレないように通ってみろって、陛下……、父様から言われて、俺もカッとなって、まあ……成り行きでな」
「成り行きでねえ……」
聖チェスタ学園自体、普通の学校ではなく、名門校なのだが……。
「変装中は、色々と制約も多くて、地味にはしていたな」
「そうかな。これでもかってくらい、いつだって目立ちまくっていたけど?」
リカルトの変装が上手くいっていた三年間、黒髪の美麗な少年は、ミヤカにとって希望の星だった。ルミア神国特有の黒髪を持ちながら、学級内で一目置かれているリカルト。
あの時、ミヤカはただ単純に彼に憧れていただけだった。
「ああ、そういえば、あの頃の名前は、リッカルドだったかな……。偽名にしても、分かりやすい。よくみんな騙されたものだよ」
「馬鹿で悪かったな。他に思いつかなかったんだ」
「いやいや、リッカルド君は、学校の成績は優秀だったじゃないか……。何も考えない人の方が、勉強はできるみたいだな」
「それは、誉められているのか?」
「そうだよ。頭が良いだけではなく、運動神経も良かったじゃないか。昔、馬術の授業中に、何の非もない女生徒を叱っていたヌエル先生に、手綱が緩かったと言って、馬で威嚇したのは、ワザとだったんだろうね?」
「ああ、よく覚えてるな?」
リカルトは悲しいくらい単純に、ミヤカの話題に乗ってきた。
「あの教師、いつも、自分の機嫌が悪いと怒るだろう。腹が立ってさ……」
「そうそう。わたしも密かに、掃除と託けて、あいつの部屋の床に蝋を縫ったものだよ。いっそ、転ばせてやろうと思ったんだけど、なかなか転んでくれなかったな……」
「お前、意外にやるな」
「まあ、そういうことだから、同級生の誼で、結婚くらいしてくれないか?」
「そうだなあ。同級生の誼で、結婚くらい」
……と、そこまで相槌を打ってから、リカルトは首を横に振った。
「いやいや、駄目だろう」
「言うと思ったよ。やっぱり困った顔がいいね。明日、画家さんに描いてもらおう」
「お前なあ……!」
飄々と言ってのけたミヤカに、リカルトは怒鳴りつけようとして、疲れたのか、肩の力を抜いてうなだれた。
「それでいいのかよ、お前は?」
「何が?」
「国家を救うとか、復讐のためだなんて言って、好きでもない男と結婚して、幸せなのか?」
「王子は本当に……?」
本気でミヤカとの「結婚」を受け止めているのか……。
口約束くらい、軽くしておけばいいと助言されているはずなのに……。
(…………なんだろうな)
つい、苛めたくなってしまう。
「仮にも王族であるリカルト殿下がそれを言うのかい? 王族だって、好きでもない相手と結婚するじゃないか? いずれ、貴方だって……」
「自由に選べるなら、選んでおいた方が良いだろう? 俺も選べる範囲で選びたいし……」
「たとえばさ、リカルト王子は根暗で地味で、友人も一人もいないわたしが、まともな相手と結婚できると本気で思っているのかな?」
「それは…………その…………」
リカルトは、答えを必死に探しているようだった。
(かわいそうに……)
人の良いリカルトに、酷な質問だったかもしれない。
ミヤカは立ち上がり、リカルトの肩をぽんと叩いた。
「そういうことで、わたしは失礼するよ。今日も会いたくないもないのに、私と会ってくれて、お疲れさまでした。次はちゃんと肖像画を描かせてね?」
「はっ?」
肩に箒の柄を乗せて、すたすたと歩き始める。
彼の困った顔を眺めているのは、最高に楽しい余興である一方、最高に虚しいひと時でもあるのだ。
リカルトは並々ならぬ義務感で、ミヤカと向かい合っている。
そんな彼を苛めたい気持ちもあるが、究極の善人である彼をこれ以上苦しめたところで、何の意味も為さないことを、ミヤカは最初から気づいているのだ。
早く、気鬱な時間を終わらせてあげることも人情だろう。
(……それに)
忘れがちだが、ミヤカには、リカルトに嫌がらせをする以外に、この城でやらなければならないことがある。
(魔界とつながっている場所って、具体的に何処なのか聞いても分からなかったんだよな)
ルミア神国の巫女姫イリアは、「城の近くに行けば分かる」と、色っぽい笑顔で断言した。
だったら、城にさえ行けば、すぐに分かると思っていたのだが……。
せめて、ルミア神国の神殿だった頃の面影があれば、特定することも出来るのだろうが、あちこち回っているものの、いまだに見つからない。
もしも、この城に入口がなかったとしたら、ミヤカにはお手上げだ。
(……それにしたって、巫女姫イリアは、どこに行ってしまったんだろう?)
過去のルミア神国の代表として、責任を取って、しっかり教えてくれたら良いのに……。
ミヤカは、城内で行っていない場所を探索するつもりで、勢いよく部屋の扉を開けた。
…………しかし、次の瞬間。
「あ……れ?」
目が点になった。
まるで、ミヤカが扉を開けるのを待ち構えていたかのように、部屋の前に見知らぬ派手なドレス姿の女性と、黒の給仕服姿の侍女が二人並んで立っていたのだった。