第1章 ③
「ひっ! よっ、よせっ! 俺に寄るな! さっき、取って食わないって言ってただろ!?」
「綺麗な王子様と、同じ寝台で一緒にいることが出来るなんて、人生も悪くないもんだな」
「くそっ、最低だ! やっぱり、食事を出した時に、毒を盛っておけば良かった!」
ああ、まったく、そのとおりだ。どうして、彼はそうしなかったのか……。
呆然としながらも、抵抗するリカルトを、体重で抑えつけ、ミヤカは、その整った相貌を目と鼻の先から覗き込んだ。
心臓の音が煩い。完璧な悪女を演じるためにも、この緊張感を彼に悟られたくなかった。
リカルト王子の……、紅潮しているが、肌理の細かい白い肌に、高い鼻梁、薄い唇……。
男のくせに、項まで伸びた金髪が妙に艶めかしく見えるのには、感嘆の吐息しか漏れない。
すべての部品が完璧だった。
「………………楽しいね……」
「やっ、やめろっ!」
青筋を立てて、リカルトが喚いていた。――が、次の瞬間……。
「あれ?」
彼は身じろぎをやめ、大きく瞳を見開いた。
「…………あっ? お前、もしかして?」
「な、何っ?」
しきりに瞬きを繰り返すリカルトは、子供のようにあどけなく見えた。
(もしかして、ここまで来て思い出したとか?)
こちらから、迫ることができても、迫られることを想定していないミヤカだ。
真っ直ぐ向けられるリカルトの視線が怖くなり、とっさに、うつむいた。
「お前、たしか……学校が一緒だったよな? えーっと、ほら! いつも窓際の席に座っていた……髪色が違うし、今と印象が全然違うけど……。でも、絶対そうだ」
「……いや、あの」
喜怒哀楽すべての感情がミヤカの心の中で怒涛のように湧きあがった。
すべてを思い出して欲しいような、思い出して欲しくないような……。
鼓動が跳ねて、耳まで真っ赤になった。
「えーっと。あれ? お前の名前……。……名前…………名前って何だっけ?」
――が、その熱はすぐに引いた。
「……だよね」
相手は、あのリカルトなのだ。
学生時代、何度も、心の奥で鈍感王子と呼んでいたあの人なのだ。当然の反応だった。
「…………まったく、中途半端に思い出すよね。リカルト王子も」
ミヤカは、わざと忌々しげに舌打ちをして、無表情に戻った。
「今頃、わたしの機嫌を取ろうとしたって、そうはいかない」
「……はあっ!?」
そして、そっとリカルトの頬に、手を添えた。
「ひいいいっ!」
彼が恐怖と混乱で、本能的に目をつむったと同時に、ミヤカは、ささっとリカルトの額に文字を書いた。
たった今、机の上で筆に馴染ませていた特殊なインクは、てかてかと光沢を持って、リカルトの額に馴染んでしまった。
「素敵だよ。リカルト王子……。おかげさまで、人生で、やりたいことの一つを達成させてもらった。ありがとう」
「…………何だよ? お前、一体、何を?」
―――完璧だ。
文字の躍動感も良い感じに決まっている。
その完成度の高さに、わざと大きく頷くと、ミヤカはリカルトから素早く離れた。
「ようやくわたしの正体に気づいたリカルト王子に、自己紹介をしようか」
「いや、だから、お前は学園の同級生で、無口だった……えーっと?」
そこで、リカルトが固まったのを確認してから、ミヤカは腰に手を当て、胸を反らした。
「分かっているから、そう何度も名前が分からないことを主張しないでもらいたいな。わたしは聖チェスタ学園で同級生だったミヤカ=ファーデラ」
「ミヤカ……ファーデラ?」
抑えがなくなった途端、リカルトは逞しい腹筋でスッと上体を起こした。
懸命に頭を働かせ、リカルトはミヤカとの思い出を探っているようだったが、しばらくして放棄したらしい。
「あのな、同級生なら……。俺に一言断ったら、良かっただろう? こんなことしなくったって、話くらいは聞いてやったぞ」
「よく言うよ。わたしのことなど、覚えてもいないで、汚物を見るような目で門前払いしたくせに。わたしは城門で、学園で同級生だったミヤカだと名乗ったんだけどね?」
「仕方ないじゃないか。一学級、百人は生徒がいたんだぞ。同級生の名を騙って、俺に近づいてくる奴もいるし……。大体、百人の名前と顔、全部を覚え切れるか」
「実は、わたしと王子は、六年間、同じ学級だったりするんだけど?」
「…………嘘だろう?」
リカルトは、心底、驚愕しているらしい。
目に穴が開くほど、ミヤカをじっと見つめていた。凝視されるのは、嫌いだ。
気まずくなって、冷や汗が背中を伝っていく。力の使い過ぎもあって、ぐったりだ。
(だから、嫌だったんだよ……)
二度とリカルトに会うこともないと思っていたのに、こんなおかしなことで、巻き込む羽目になるなんて……。
「……もういいって。リカルト王子」
今と学生時代のミヤカは、見た目がだいぶ違うのだ。
学生時代は、目よりも長い前髪で、髪色も変えていた。
いつも地味なドレス姿で、教室の隅で小さくなっている目立たない存在だったのだ。
あえて、冴えない格好をしていたということもあるが、すべてを思い出されてしまったら、それはそれで、人生の黒歴史だ。
「しかし、俺がお前を覚えていなかったことに、腹を立てているのだろう?」
「モテる男の典型だな。自惚れない方がいい」
インクの残った筆を飲み水の入ったカップに浸けたミヤカは、くるりと後ろを向いた。
「別に、気づかなくったっていいんだ。ただ、わたしが勝手に復讐したってだけだから」
「やっぱり、めちゃくちゃ怒ってるんじゃないかっ!?」
「夜中に、うるさい人だな……」
「もしかして、お前……。今までの全部嘘で、俺に対する私的な復讐が狙いだったとか?」
「違うよ。リカルト王子を標的にはしていたけれど、神の話云々はほぼ本当だよ。面倒事のついでに、いっそのこと王子様に嫌がらせしようって、開き直っただけさ」
「開き直られてもな……。嫌がらせと復讐は一緒だろう。俺が一体、お前に何をしたんだよ!?」
「その……加害者意識をはなっから持っていないところが、イラッとするわけだよ」
「何だと!?」
「素晴らしい光景だったね。国宝級の美貌の王子様が、十八歳の身空で、記憶にもない、訳の分からない同級生に組み敷かれる。その恥辱に耐える表情。扇情的なくらいだ」
「変態が口を開くな」
――変態。
そうかもしれない。
ミヤカも十八年目にして発見してしまった自分の性癖にびっくりだ。
「その謎の変態と、リカルト王子は結婚しなければならないんだよ。こんな人生の悲劇はないだろう。そして、王子の額の文字は、これからの貴方の未来を物語っている、わたしからの預言だ。心しておくがいいさ」
はははっ……と、高笑いをして部屋から出て行ったのは、ミヤカ自身怖かったからだ。
本当は、小心者のミヤカだ。
自分の悪戯に気づいたリカルトを見届けるほどの余裕は、さすがに持てない。
「あああーーーーっ!!」
絶叫がこだましたのは、ミヤカとすれ違いに、衛兵が部屋に突入した瞬間だった。
「……やはり、衝撃だったか」
鏡を見たリカルトが、ミヤカの書いた落書きの意味を知ったのだろう。
「確かに、「ハゲ」は……なかったな」
容姿端麗、文武両道、性格も飾らない庶民派の国民人気の高い王子様。
地味に振る舞っても、目立ってしまう完璧な容貌の彼は、一度だってハゲと言われたこともないのだろう。
「いいザマ……だ」
(……そして、実に稚拙で馬鹿げた復讐劇だな)
いくら一方的に腹が立ったとはいえ、結婚なんて、話を持ちだす必要もなかった。
(でも、もう止まらない……)
こうなってしまった以上、リカルトにはミヤカの子供じみた復讐劇に、付き合ってもらう必要があるのだ。