ライルの謎
第二章
大きいものは月ほども。小さいものは岩ほどの。
さまざまな天体が廻っている。
小惑星地帯の軌道速度に同調させた調査隊の船から、目当ての天体へ探査艇がゆっくりと進んでいく。
それを尻目に船外活動用の宇宙服で膨れたシャフトナーは、簡易推進装置を操って一人別方向へ向かって行った。
『シャフトナー博士、また、あなたですか! どこへ行くんです!』
ヘルメットの通話機を通して、船で待機している船長の苛立たしげな声が聞こえた。
『また、無断で、勝手な行動を』
『放っときなさい、船長。どうせ、すぐに、大音量で助けを呼んできますよ』
副船長が、こっちに聞こえているのを承知で言っている。
シャフトナーは通話機のスイッチを切った。きっと、また船長が気づいてわめいているだろうが、彼の知ったことではない。
こっちは調査で来ているのだ。乗員や調査隊メンバーとつまらぬお喋りをするためじゃない。意味のない社交辞令や懇親会など大嫌いだった。
とうとう一度も船長主催のパーティとやらに出てやらなかったのを、きっと根に持っているのだろう。船長の態度は日増しに余所余所しく、敵対的になっていく。
それに追従するように、誰もシャフトナーに話しかけてこなくなかったが、そのほうが彼にとって気楽というものだ。
――慣性航行中にちょっと船外に出た事だって、そんなに大騒ぎすることなどありゃあせん。
シャフトナーはヘルメットの中で、にやっと笑った。
――退屈しのぎの散歩ってやつだ。もっとも、三本係留したはずのロープの一本が外れた時は、さすがに慌てたがの。
副船長の奴は、まだ二本あるから大丈夫です、などとしらっと言っておったが、一本外れたとなれば、他の二本だって外れる可能性があるというもの。そうなってからでは、遅いじゃろうが!
緊急要請して当然のケースだ。乗員は、調査員の安全に責任があるのだ。その時の連中の対応を思い出し、彼は一人憤った。
簡易推進器のノズルをわずかに開いて、方向を調整する。
絶対零度の宇宙はどこまでも深く広く拡がっていた。遠く近くの星が揺らめきもなく無機質な光を放つ。地上とは比べようもない数。聞こえるのは彼の呼吸音だけ。
ただ一人、彼は無数の星に包まれていた。
――あの中に、君はいるのか。
ふと、シャフトナーは友を思った。彼にとって生涯のただ一人の友だった。彼を本当に理解してくれた、ただ一人の親友だった。
栗色の髪をした優しい青い目の男は、二十五歳のまま、彼の心の中でいつも微笑んでくれている。
シャフトナーは、目当ての小天体に辿り着いた。先ほどちらりと目にした金属反射が気になったのだ。小さい岩塊のようだったが、近づくとそれが巧みに偽装されたものだとわかった。
それは、岩塊をまとった宇宙船だったのだ。
そこに至っても、彼は待機している船に連絡を取ろうとは思わなかった。というより、調査隊の連中のことは、もうすっかり忘れ去っていた。
――十二メートル程の長さ。直径五メートル。形状は細長い卵か。
宇宙船なら信じられないような小ささだった。陶質のような金属体。地球のものではない。冶金学にも造詣の深い彼は確信を持っていた。
シンプルで、何の突起も、窓も、開口部もない。つるっとした巨大な卵のようだった。
シャフトナーは壁面を叩いて回った。考えると、ずいぶん非常識な行動である。
すると、どうした弾みか、壁の一部にぽっかりと穴が開いた。
彼は誘われるままに中に入ってしまった。
そこは、人一人やっと入れるくらいの小さな部屋だった。小柄なシャフトナーでも狭く感じられた。
穴は彼が入るとすぐ閉じてしまい、気体が流入してきた。狭い室内はたちまち満たされ、次のドアが開く。小部屋は彼にも馴染みのエアロックだった。
宇宙服についている検出器の目盛りを読んで、シャフトナーは思わず声をあげた。
「ほう!」
地球の空気とあまり変わらない数値である。酸素が若干多めで、二酸化炭素は少ない。細菌類は全く検出されなかった。無菌状態といっていい。
シャフトナーはヘルメットを外して息を吸い込む。船内の空気には微かに花のような芳香があった。
当たり前のように普通に立っている自分に気づく。どのようなシステムなのか、ほぼ1Gの重力がかかっていた。
ドアを通って先へ進む。穏やかな光が、辺り一面に溢れていた。乳白色の壁自体が光を放っている。柔らかく優しい印象を与える物質だった。細く狭い通路は直ぐに終わった。
もう一つのドアがそこにあった。
ドアの鏡面に、わし鼻の男の顔が映っている。だいぶ後退したぼさぼさのグレーの髪と広い額。六十二歳という年齢は隠せないが、とび色の目は未だにいたずらっ子の少年のように好奇心に輝いていた。
引き返そうという気は全く起こらない。なぜか、不安感や緊迫感を覚えないのだ。この船に入り込んだ時から、暖かく優しい印象を感じる。この船が彼に害を為すはずがない。
ドアを開ける。
そして、そこに目にしたものを見て、彼は立ち止まった。
***
ネバダの宇宙病理研究所の特別会議室は、その名の通り特別な仕様となっていた。ガラス壁で仕切られた一般室と隔離室があり、会話は双方向性のマイクとスピーカーを介して行われる。両室にはディスプレイやPC、テーブル等必要機材もそれぞれに備わっていた。
その隔離室側で、チャーリィは何度も椅子の上で姿勢を変えていた。安楽椅子のような背もたれがあり、様々な機器と接続するジャックや点滴用ポール、酸素などがついている患者用椅子である。
隣にはミーナ、勇、そして、メアリ・マルテン博士も、やはり居心地悪そうに座っていた。ミーナ達は奇跡の回復を果たしたばかり。
勇のパジャマの襟元からは白い包帯が覗いている。マルテン博士は発症後ライルの投薬で回復、再発を恐れながら活動中であった。
向こう側の一般室には、感染の危険を冒して訪ねてきたギアソン国防長官とアレックスCIA長官、そしてハリスNASA長官にFBIのランフォード長官。
お歴々が自分達に何の用だろうと、チャーリィは落ち着かない。彼なりの推測は、不安を余計に掻き立てるばかり。
『奇跡の生還、おめでとう。こう言っても差し支えあるまいね。実は、君達の意識が戻ったという報せを受けてね。それでこうして君達に会いにきたわけだ』
アレックスの声がスピーカーを通して届く。
口調は穏やかだったが、グレイの目は冷たい光を放っていた。
『だが、なぜ、あなた方だけが回復できたのかね?』
「解りません」
チャーリィが代表して答えた。これは嘘じゃないぞと、内心考えながら。
アレックスの目はマルテン博士を捕捉した。
「きっと、ライル博士の処置を受けたのが早かったからですわ。彼もそう言ってます」
『どんな処置を受けたのです?』
「薬、だと思います。成分が解らないので。彼は決して、それが何か教えようとはしないのです」
メアリはライルに助けてもらった恩は感じていたが、仕事を進める同僚として、やはり彼の秘密主義には腹をたてていた。
『どんなものだと思いますか?』
「色は赤く、印象としては、まるで、そう、血のようでした。生の血。ひょっとしたら、本当に血液なのかも……」
考え考え答えたメアリは、今更ながらにぞっとした顔になった。血? 何の? いえ、誰の?
『君達も同じものを?』
チャーリィはあの時覚えた嫌悪感を思い出していた。彼も同じ印象をもったもの。
ライルはその時点で、その疾病は死に至るもので、しかも伝染することを示唆した。一方で病名は解らないとも。それなのに、あれが有効だと確信もしていた。
考えれば考えるほど、ライルの言動は矛盾と不審に満ちている。しかし、チャーリィはそれをアレックスには告げず、むっつりと押し黙って睨んだ。
アレックスは目を外すと、他の二人に視線を注いだ。勇はそっぽを向き、ミーナは俯く。
彼は苛々した口調で言葉を継いだ。
『答えたくないようですな。しかし、なぜ、彼はそういう薬を持っているのか。なぜ、彼だけ感染しないのか。一つ、考えてもらいたい』
「何をおっしゃりたいのです?」
ミーナの声が震えた。
『解っているはずですよ』
アレックスの声は冷たく厳しい。
勇が勢いよく立ち上がった。点滴の針が抜け落ちたが目もくれず、怒りでがっしりした体を震わせている。
「あんた方は、始めっから彼を疑っているんじゃないか! でも、彼が犯人ならどうして俺達や患者を助けるんだ! それこそ、理屈に合わないじゃないか!」
チャーリィも立ちあがった。
「それに、動機は何です? なぜ、ライルが疾病を広めなくてはならないのですか?」
「シャフトナー博士も亡くなったのでしょう? 彼が知っていたら、博士を見殺しにしたりするはずないわ。博士は彼の父親のような存在でしたのよ」
ミーナも必死に立ち上がる。
だが、アレックスは冷ややかに問い返した。
『そのシャフトナー博士が、彼を訪ねた二日後に発病して亡くなっていたとしたら?』
ミーナは救いを求めて、チャーリィを見た。が、チャーリィは眉をしかめて頷くことしかできなかった。
「事実なんだよ。ミーナ。博士は出発の二日前に、彼を訪ねて基地に来たんだ。そして、二時間ほど話して、シティへ戻っている」
追い討ちをかけるように、アレックスが補足する。
『しかも、博士が最初の発病者だった可能性が高い』
「そんな。だって彼が博士を故意に病死させる理由がないわ。出発前だって、博士と会えるのを楽しみにしていたのよ」
楽しみでしょう? と聞くと、彼は黙ってうなずいた。その目に、確かに暖かいものが溢れていたとミーナは思っている。
『理由があるとしたら?』
アレックスが彼女の顔を覗き込んだ。奴の目はネズミを飲み込んだヘビのようだと、チャーリィは思った。
『確かに、ルクセンブルクにある居宅で、彼はそのシャフトナーと同居していました。彼がカリフォルニアに移ってくると同時に、シャフトナーは火星に移住しています。地質学では高名な学者ですから、要請があったのでしょう。しかし、彼はどういう経緯で、一緒に暮らし始めたのでしょうね? 別に親戚でも何でもないのに。しかも、シャフトナーという人物は、正直言って、あまり好人物とは言い難い。普通ならとても同居したくなる人間ではないと、聞いてますよ。妻帯もしていないしね。そして、ライル博士はあの通り、我々が見てもはっとするほどの美貌の持ち主だし』
「な、何がおっしゃりたいのか、わかりませんわ……」
ミーナが声を震わせて言った。チャーリィと勇もあっと身を強張らせる。
『彼はどんな美女よりも美しいと、言ってるのですよ。彼が、シャフトナーとベッドを共にしていたのだとしたら? 彼がまだ無力な頃から、経済的な力で彼を拘束していたのだとしたら? 基地に訪ねてきて、過去を盾に行為を迫ったとしたら? 彼が博士に殺意を抱いても、おかしくはないでしょう?』
真っ青な顔を引きつらせて、ミーナが思わず叫んだ。両の拳が胸の前で固く握りしめられている。
「ひどいわ! 嘘よ! 邪推よ! そんなはずないわ! だって、彼、キスだって知らなかったのよ! そんなこと、考えられる? 私がキスしたら、どうしてそんなことするんだって、聞いたのよ! 不、不衛生じゃないかって! 真面目な顔して……不思議そう……に…………」
チャーリィはびっくりしてミーナを見た。初耳だった。ギアソンも真剣な顔で見つめてくる。
ミーナは口を押さえた。自分がとんでもない失言をしたことに気づいたらしい。
『なるほど。実に興味深い事だ。キスを知らなかった! 十七にもなって? 彼は無人島に、たった一人で生きてきたんでしょうかね? それでも、キスの一つや二つは、きっと知っていたでしょうねえ』
アレックスがグレイの目を底光りさせて言った。ミーナはすとんと力なく椅子に腰を落とす。
『実はね、お嬢さん。我々が、貴女のライル君を調べてみたところ、実に不思議なことが解ってきたのですよ』
彼は身を乗り出し、得々と話し始めた。ネズミどころかウサギまで飲み込んでいるようだ。
『彼の確かな記録は、十四歳以降しかないのですよ。それ以前は、全く白紙。しかも、彼が卒業したという学校も、大学も、全ての記録が完全な偽造であることが解った。みんな、シャフトナーが彼の為にでっち上げたのだ。さらに、彼の個人的な記録も全て偽造であることが判明した。レントゲン写真、血液検査、医療の記録。これがどういうことか、お解かりになりますか?』
チャーリィもミーナ達も口をぽかんと開けたっきり、声も出ない。
『いったい彼はどこからきたのでしょうね? ライル・フォンベルトとは、何者なのでしょう?』
そこから引き出される途方も無い考えに、チャーリィは慄然とした。