疾病の模索
ライルは立ち上がろうとして、ぐらりと意識が遠くなるのを感じ、はっと机に支えを求めた。
限界がきていると感じる。絶え間なく送られて来る患者に、結局例の薬を与え続けてしまったからだった。もう、これ以上はいけない。だが、彼は患者を見殺しにはできなかった。
遠心分離器から試験管を取り出す。その時、スタッフの一人と目が合った。疲れた表情を浮かべたその男はぷいと目を背け、一言も言わずに向こうへ行ってしまった。研究所の殆どの人間が、彼と口を利こうともしない。
それでも良かった。彼を敵意の籠もった視線で監視している同僚も気にならなかった。彼にとって問題なのは、ギフォード達が執拗に彼の体を調べようとしていることだった。
厳重な保護処置にもかかわらず、研究者達からも何人も罹病患者が出ている。それなのに、彼は一向に発病する気配がなかったのである。
患者を調べて解らなければ、発病しない人間を調べれば何か掴めるのではないか。誰でもそう考える。
しかし、彼は自分の体を調べさせるわけにはいかなかった。
今、手にしている試験管には、疾病で死んだ死体から採取した細胞が分離されてあった。感染した組織・細胞は、一様に硬変を生じている。一種の著しいアレルギー反応ではないかと、彼は考えている。
呼気を通して肺から血液に入り、全身に感染するのだ。だから、真っ先に呼吸器に症状が現れる。
自然のものにこれほどの増殖を示し、且つ感染度の高い病原体はありえなかった。しかも、突発的に発生し、瞬く間に全世界を罹病してのけたのである。
「効率が良過ぎる」
彼は呟いた。人為の技が匂う。何者かが故意に、地球上の人間を殲滅、或いは無力化しようとしている。
疾病の拡がり方は、緻密に計算された分布を示していた。
人為の手の掛かった病原体は、本来の姿を著しく変えているので、なかなか突き止めにくい。
赤く警報ランプがついて甲高い緊急ブザーが鳴った。
ライルは患者のベッドに急いだ。
だが、心電図は真っ直ぐな線を描き、脳波も沈黙している。
一緒に火星へ行った訓練生の一人。
十二人目。その中には、二次三次感染者も入っている。例の薬を注入したにも拘わらず。
彼は他の患者も診て回った。どの患者も昏睡状態。彼らの体は疾病に対する自衛手段を、自ら作り出すことはできなかったのだ。
今では、人工肺と人工心臓の機械によって、辛うじて生かされているに過ぎない。それも心筋が硬変し脳細胞が萎縮を始めてしまったら、終わりである。
足を止める。
チャーリィ達が同じように横になっていた。顔色は血の気を失い、死体と大差ない様子。接続された機器類が、彼等がまだ生きていることを示しているだけ。
最初の発症を起こしたあと、彼らも一緒にアカデミーの付属病院に移動した。その時には、同様の症状を起こした火星訓練の仲間達が次々と担ぎこまれ始めていた。
隔離処置を指示しながら、院長のモリス博士に特A級疾病隔離宣言を出すよう提唱。モリスも同様の危機感を覚えていたので、即座に決断、各機関に公表した。
同時に、患者をここネバダの宇宙病理学研究所に搬送。チャーリィ達も一緒に移動した。
その三日後、チャーリィ達は再び発症。そのまま意識不明の状態が続いている。
彼等がまだ存命なのは、例の薬を与えられた時間が早かったせいなのかもしれない。だが、残された時間はもう無いはず。
逡巡のあと、彼は赤い液体が満たされた注射器を取り上げた。再度の注入が、彼らにどのような反応を引き起こすのか全くの未知数。しかし、彼に今できる手立てはこれしかなかった。
唇をきっと噛む。彼には珍しく怒りに似た闘志を感じている。
このような非道で冷酷な疾病に、地球の汚染を許すわけにはいかない。
***
アレックスから、火星実習帰りの候補生の足取りと初期感染の分布図がギアソンに送られてきた。
「なるほど、確かに一致する。これは彼等が火星や月で感染し、地球に持ち込んだことを証明するものだな」
ギアソンはTELの中の男へ感想を述べた。外部と接触するのを極力避け通信回線を利用するのは、当然の自衛として全ての機関、官僚間でも行われている。
『一致するなんてもんじゃない。彼らの行動は感染経路そのものだと言っていい』
訝しく思って視線を投げると、アレックスがそれに応えるように補足した。
『彼等が去る時と同じくして、火星に疾病が現れた。次いで、寄港した月とルナステーションが、感染した。その時期は、発病し始めた時を逆算すればすぐ求められる。潜伏期間が、二日と正確なことも、考えてみれば異常なことだ。彼らはそこに二日間滞在し、地球に到着してから発病する。旨くできているものだ。そして、地球が汚染された』
「なにを言いたいのだ? アレックス」
『確か、ライル・フォンベルトは君の推薦だったな』
「そうだ。彼は非常に優れた逸材だよ。真の天才だ」
『その彼が、まだ発病していないと聞いたら、どう思う?』
ギアソンは驚愕して水色の眼をむいた。
「え? どういうことだ? 彼はとっくに……」
『彼はネバダでぴんぴんしている。最前線で活躍中だよ』
「それは、幸運だ。彼ならきっと……」
希望を感じて続けようとした言葉を、アレックスに遮られた。
「幸運? 大いなる不運なのではないかね?」
指を振ってみせるCIA長官に、太い眉を寄せる。
『彼は火星帰りなのだよ。彼と行動を共にしていた親友達はとっくに感染しているというのに。それにだ、ネバダの職員の話だと、彼は何か得体の知れない薬を患者に注射していると言う。そのおかげで、あそこの死者はまだ十二人に過ぎない。たった十二人だよ』
ギアソンは息を呑んだ。八日で十二人。毎時何万という単位で人が死んでいるのに。しかも、それは加速されつつあるのだ。あと十日も経ったら、地球には誰も残らなくなってしまうだろう。
『なぜ、彼はそんな薬を持っているのか? しかも、それを誰にも教えないらしい。未だ感染しないことと考え合わせると、かなり妙じゃないかね?』
黙ってしまったギアソンに、アレックスが続けた。
『彼を調べさせてもらった。実に驚くべき事がでてきたぞ』
思わせぶりに、手をひらひらさせる。
ギアソンは苛々して促した。
「いったい、なんだね」
『彼については、何も解らない、ということが解った』
***
「意識が戻ったぞ」
同僚の驚きの叫びに、ライルは顔を上げた。
一目で勇のベッドだと解る。集まってきた防護服の間から、素早くチェック。
まだ、朦朧とした状態だが、肺も心臓も機能が回復しつつある。見ているうちにも、胸の上下の動きが力強くなっていく。顔色も血色が戻ってきていた。
勇のベッドを離れて、チャーリィとミーナの様子を診る。肺機能の回復がここでも確かめることができた。
その隣では、昏睡を続ける火星帰りのチームメイト。状態は絶望的。
更に隣のベッドは空。二時間前に死亡し、死体保存室に移っていた。火星には行った事もないデパートの店員。
彼らの容態の差は、発症から薬の投与までの時間によることが、これまでの実例でほぼ確実だった。
厳重な警戒にも拘わらず発症した同僚二人は、すぐに投与されたので、一人は拒絶反応で昏睡状態だが、もう一人のメアリ・マルテン博士は回復して仕事を続けている。ただし、彼女もチャーリィ達のように、また再発するはず。
ライルはすっかり意識を取り戻した勇に言った。酸素吸入は離せない状態。
「君の組織を取らせて欲しい」
勇は瞬きし、ひゅうひゅうと掠れた音を漏らした。まだ、声が出ない。
「今の君の組織が必要なんだ」
声にならない問いに答える。勇はこくんと頷いた。
研究所が総出で夜も寝ないで、昏睡状態の患者、死体、回復した者、あらゆる検体の血液、体液、組織を徹底的に分析培養し、細胞レベルは無論、遺伝子レベルまで調べたのに、結果は全てネガティブだった。
もちろん勇の調べられる限りの全ては既に検査され、現在も分析中のはず。だが、それでは何も発見されないと彼は確信していた。
無茶だという同僚の声を強引にはね除け、ライルは手早く肺の組織のごく一部を切り取った。縫合と処置を他の者に任せ、組織が生きているうちに処理を急ぐ。
細胞所見を飛ばし、染色体の標本作成も無視して、彼は組織細胞の構成物質を抽出する作業を始めた。試薬や媒体を加えながら丁寧に分離していく。
数分前に赤ん坊の心臓が止まった。緊急の手当ての甲斐あって、幼い心筋は再びの活動を開始した。母親の肺機能はとっくに停止して久しい。次に誰の心臓が止まっても不思議ではなかった。
だが、患者の死が目前に迫っている緊迫した事態にも拘わらず、彼は決して急がない。それよりも、作業を正確に行うほうを重視した。
勇の組織は分解中だった。これは予想通り。彼の考えでは、組織構成に激しい組み換え置換が行われているはず。
病原体が分解中の今こそ、その正体を突き止められるというもの。
そのライルの背後に、ギフォードがそっと歩み寄った。防護服のガラス越しにも、この十日間ですっかり老けこんでしまったのが解る。茶褐色の髪には目に見えて白髪が増え、顔のしわは数と深さを増していた。
彼は苛立っていた。世界の情勢は悪くなる一方だというのに、何の成果も上げられないのだ。みんなが夜も寝ないで仕事しているというのに、全てが失敗に終わっている。患者の死が増えるに従って、スタッフ達の間に言い様の無い挫折感が広がりつつあった。
それに、とギフォードは心の中で舌打ちする。この美貌の青年がスタッフの足並みを乱す。一人毅然と孤高を保ち協力を拒む。
今度こそどうあっても彼を調べさせてもらおうとギフォードは決心していた。拒否したら、力づくでも。右手には麻酔剤の入った注射器を忍ばせていた。
「ライル君……」
彼は掛けようとした言葉を飲み込み、ディスプレーを凝視した。
「これは……何かね?」
声が震える。
ディスプレーには、一見ありふれた有機化合物の分子式の羅列が並んでいた。
だが、彼の所長としての勘が告げる。これが、ひょっとしたら……。
画面を見つめるライルの顔は厳しく強張っていた。