地球を目指して
混濁した意識がふっと浮上し、夢から覚める。意識を呼び戻したのは……。
――誰かがキスしている。チャーリィ、君か。……今の僕は、応えることができない。身体中の全神経の調整能力を失っている。
君のキスはミーナのとは違う。人によって皆違うのだろうか。君のキスは刺激的だ。なんだか身体の奥から訳のわからないものが湧いてくるようで、落ち着かなくなる。
不思議だな。なんだろう。でも、嫌じゃない。
もう、止めるのか?
それとも随分長い間だったのだろうか?
時間の観念が失われている。
――どこへ行くんだって? チャーリィ、君はどこへ行くんだ? 火…星?……
再び混濁に飲み込まれたライルは、夢を見続ける。夢は過去へと立ち戻る。
***
ついにバリヌールの大地が裂けた。
亜空間の移行中に地殻の最終崩壊が始まった。移行は不完全に行われ、船体は多大な損害を受けた。長距離ジャンプは不可能になる。
それでもかまわない。別に急ぐ旅ではないのだから。宇宙は見知らぬ世界ではない。むしろライルにとっては親しい世界だった。
宇宙は空虚でも静かでもない。あらゆる波長、放射線が語りかけ、星々の秘密を覗かせてくれる。密度こそ低いけれど、様々な元素の展示場でもある。決して飽きることのない世界だった。
地球へと航行するうちに、いつのまにか五年が経っていた。
その間に、自分に伝えられた遺伝子に記録された知識の整理もしなくてはならない。情報は無尽蔵にあり、七年掛けてやっと半分も終わっていなかったのだ。退屈している暇などなかった。
***
地球が見える。青い惑星。スペクトルが豊かな世界だと告げている。まるで、生物の宝庫のように見える。
バリヌールを発って五年も過ぎているので、生命の活動を感じるのは嬉しかった。
船の中枢知能セクションが情報を収集している。電波が洪水のように発信されているのだ。
処理を終えた船が、しかし、クレームをつけてきた。地球は危険だという。直接接近して着陸するのは好ましくないらしい。
ライルは暫く眠ることにした。そのうち、情勢も変化してくるだろう。
アステロイド帯の中に紛れて船を静止させる。そして睡眠カプセルの中に入った。
***
閉じた瞼を通して視野に光を感じ、ライルの意識が浮上した。
誰かが側にいるのがわかる。身体も頭も動かすこともできないし、目を開くこともできなかった。それでも、側にいる者が誰かわかった。これまでも時々意識が浮上すると、いつもそばに感じた気配だった。
――ああ、光が眩しい。感覚の調整もおかしくなっているようだ。体調整機構が働かないのがもどかしい。ミーナ、泣かなくていい。僕は大丈夫だから……。
そして、意識はまた混濁していった。
***
シャフトナー博士、おはようございます。今日も良く晴れていますね。とても明るくて眩しいようです。朝食は何を用意しましょう? 卵とハム? 私は、パンだけでいいです。卵やハムは、私にはちょっと……。
まるで、殺人を犯したような気になるのです。それは生きていたのですよ。
あなた方は命を摂取するのですね。
わかりました。少しだけ。ほんとに少しだけ。
すみません。気分が悪くて
失礼!
***
昏睡から、意識が戻り、夢が途切れた。
――ああ、気分が悪い。むかむかする。ミーナ、君はそこにいるの? 胸が苦しいんだ。僕の体調整能力は、どうなってしまったんだろう?
しかし、再び、意識は夢の中へと戻っていった。
***
――シャフトナー博士、船はあなたに僕を託すことに決めたのです。僕の遺伝子に興味があるのですか。あなたの親しい人だったのですね。地球人の遺伝子は、あまり情報を伝えてくれません。殊に、個人の経験によって得た情報は皆無です。
シャフトナー博士、あなたが亡くなられて、僕はとても残念です。これは……悲しいと表現して良いのでしょう?
本来、バリヌール人は死に対し恐れを持たないし、個人の死に対しても感情的な反応はあまりありません。遺伝子に代々受け継がれてきた膨大な知識のほかに、個人の経験した記憶も残されるので、個人の死はある意味で存在しないのです。
でも、あなた方地球人はそうではないのですね。個人の死は完全な情報の消去です。これは悲しむべきことです。
シャフトナー博士、あなたにもう一度お会いしたかったと思います。
***
ライルは、ぴくりとも動かない人形のようだった。
その彼の閉じられた長い睫の下から、涙が一滴、糸を引いて流れ落ちた。
それを見たギアソンは驚いて、思わず声をかけた。
「ライル博士? ライル君?」
ライルの目が開いた。
「シャフトナー博士?」
弱々しい声が微かに漏れた。目は焦点を合わせていない。見えていないのだ。夢を見ているのだろうか?
目が再び閉じられた。静かだった顔にいきなり苦悶の表情が表れる。首が反らされ、何かを掴もうと腕が上げられた。
医者を呼ぼうとしていたギアソンは、思わずその手を握り締めていた。
ライルの目が再び開いた。今度ははっきりと、焦点を彼に結ぶ。肩で息をしながら、彼が口を開いた。
「ギアソン国防長官。あなたがなぜ、ここに? ここは? 僕は……?」
「君はネバダの研究所で倒れてから、十日も意識が無かったんだよ。ここは、アカデミー付属病院の特別隔離病棟の一室だ。君はまだ、世間からは隔離されている。君の正体を知っている者は僅かな人間に限られているんだ」
「疾病はどうなりましたか?」
ライルは何より知りたいことを訊ねた。
「ああ、おかげですっかり治まったよ。更に酵素剤の散布をWHOが中心に全世界的に行われている。あの酵素は劇的な効果を見せてくれた。ありがとう」
「いいえ、功績はミシガン博士達のものです。僕は知っていることをやったにすぎない。本当に苦労したのは彼らなのです。地球の人達は思考が柔軟です」
そして、ギアソンを見上げた。
「……僕は、ここにいてもいいでしょうか?」
彼は胸を打たれた。ひどく弱っている所為なのだろうか、見上げてきたライルは、とても頼りなげに見えた。まるで、保護を求める小さな子供のような。
ギアソンは握っていた手に力を込めた。
「ああ、いいとも。好きなだけ居るといい。一番懐疑的だったランフォード長官も、君が二度襲われた時点で疑いを捨てたよ。今、奴は血眼で部下を走らせ、犯人を捕らえようとしている。何しろ、自分の部下の中に、訳のわからぬ裏切りが出たのでな。すっかり、頭に血が昇っちまっているよ」
ギアソンは一旦言葉を切って、やつれていてもなおも美しい彼に見惚れた。
「私は、君を歓迎するよ。そのうち、世界中の人々も君を歓迎するようになるだろう。我々が、君から学べる事は数限りなくあるに違いない」
ライルが静かに微笑んだ。ギアソンは胸が高鳴るのを感じる。年甲斐もなく、彼にキスしたいと思った。
馬鹿な! 相手は、男で、しかも異星人だというのに!
ギアソンが戸惑っていると、黒髪の医者がせかせかした足取りで入ってきた。担当のモリス院長である。
無駄のない細身を白衣に包み、神経質そうな灰色の目で苛々と睨んできた。
「患者の部屋には、短い時間でと言ったで……! 意識が戻ったんですか!」
ギアソンに非難する厳しい口調で、
「どうして、直ぐ連絡しないのです!」
ライルには優しく、同時に、当惑も込めて、
「気分はどうです? 何しろ生きているのが不思議なほどの重傷でしたからね」
と、言いながら衣服を開いて傷口を調べた。
陶器のような白く滑らかな肌に、銃創がまだ醜い傷跡を開いていた。しかし、医者は満足そうだった。
「最初の一週間は、傷の回復も見られなかったし、体力は極度に落ちていたしで、正直言って諦めていたんですよ。だが、二週間目に入ると、それがみるみる回復してきたんですな。驚きましたよ。ミス・ブルーが献身的な看護をしてくれていました。彼女には、感謝しなくてはなりませんよ」
「ええ、切れ切れですが、彼女が側に居るのが解りました」
「なんですって? あなたは意識が混濁していたのですよ。解るはずがない!」
「混濁していたのは知っています。それでも、時々、意識が戻るのです。チャーリィが来てくれたこともわかりました」
医者は信じられないように首を振る。そして、思い出したように、ギアソンに向かって噛みついた。
「まだ、居たのですか? 患者が疲れるでしょう。早く帰ってください!」
世界でも屈指のアカデミー付属病院の院長は、相手が国防省長官でも遠慮しなかった。
「僕は大丈夫です。長官は僕に話があるのでしょう。用が済んだら連絡しますから、どうぞ席をお外しください」
医者は憮然とした顔をしていたが、手短にしてくださいよ、と念を押して出て行った。
「長官、チャーリィ達の事を話すつもりだったのではないのですか?」
促されて、彼は本来の目的を思いだした。
「そうだった。チャーリィ君と勇君は、あの後間もなくに、火星へ発った。火星で特別実習訓練を受けた候補生達で隊を組んでね。彼等は、酵素体を受けなくても、もう感染する気遣いはなかったから。彼らの任務は、後始末と疾病の感染ルートを調べることだ。彼らに遅れて五日後には、第二次隊が月とルナステーションに派遣されている。君は、これが任意に持ち込まれたものだと言った。今でも、そう考えているのかね?」
「はい。これは、何者かが故意に地球を汚染させたものです。」
ライルはきっぱりと肯定した。その答えにギアソンは満足げに頷いた。
「我々もこれを外部からの侵略行為とみなし、調査を開始している」




