ー東雲・Yー
「こいつはまたひでぇな」
俺はそっとブルーシートを被せた。
「先輩どうでしたか」
「どうでしたかじゃねぇよ。自分の目でしっかり見てこい」
俺の後ろに隠れるようにしている自分で見ようともしないへたれ野郎の背中を、思いっきり叩いてやった。
「痛った。わかりました行きます、行きますよぉ」
情けない声を出しながら問題の仏さんの方に向き合う背中を見ながら、俺はため息をついた。
「おい、こんなんでいつまでもへばってんじゃねぇよ正義。そろそろ慣れてもらわねぇと仕事になんねぇぞ」
「うぇっぷ。……慣れろなんて言われても無理に決まってますよ。あんな死体見たら普通の人ならこうなりますよ」
「悪かったなどうせ俺は普通じゃねぇよ」
「いやそういう意味で言ったんじゃないんですよ」
俺の声色をうかがうように言う。
「はいはい、わかってるっての」
毎度のようなこのやり取りに、いつものように軽く返事をしながら現場を後にする。
「それにしてもまだ早いうちに見つかってよかったですね」
車のエンジンをかけながら正義が話かけてくる。
「こんな通学路の真ん中みたいなところに死体があるのを学生が目撃しなくて本当に良かったですよ」
自分で言っておきながらさっき見た光景を思い出してか少し気持ち悪そうな顔をする。
「よかったも何もそのせいでこんなに朝早くから仕事をする羽目になってんだ。犯人ももう少し考えてやってもらいたいもんだっての」
「ちょっと先輩!何言ってるんですか!我々警察というものは市民の安全を確保しそうして……」
また面倒な話が始まってしまった。
ちゃんと前を向いて安全運転をしながらも正義の言葉は止まらない。
俺だって別にやる気がねぇ訳じゃねぇ。ただ今は昔のように俺のようなやつがわざわざ頑張る必要もなくなった。文字通り優秀な後輩たちが増えてきた。後は経験不足を補うための指導ぐらいで、事件そのものに対する必要がほとんどなくなってしまった。ホント嫌になるくらい優秀だよ。
「うおぅ」
思いがけない車の停止に思わず声が出た。
「先輩、俺ちょっと行ってきます」
「おい!」
俺が声をかける暇もなく出て行きやがった。でたよ、あいつの悪い癖だ。そのせいで何回現場に到着するのが遅れたことか。あいつは正義の名の通り正義感が強い。と言うよりあそこまで行くとただのお人よしだとは思うが……。
今回は信号のない横断歩道を渡ろうとしていたお婆さんの手伝い。この手のはよくある事だが、一人暮らしの足腰の弱い爺さん婆さんの家の電球なんかの交換から、はては主婦の井戸端会議にまで参加する始末。しかも勤務中に。しかも大半がどうでもいいどこどこのスーパーで特売だとか、ここのケーキ屋のショートケーキが美味しいだとか。もう少しどうにかしてもらいたいもんだ。
「すいません、先輩。お待たせしました」
走って戻って来たようで少し息を切らしながら運転席に戻って来た。何回言っても改善された事はないが、とりあえずいつものように嫌味の一つでも言っておく。
「行くのはいいが運転席を空にしていくなよ、なんかあったときすぐに移動出来ねぇじゃねぇか」
「すいません、気が付いたらつい……」
「で、どうだった」
俺の言葉に初めはわからないと言う顔をしていたが、急に顔を明るくしてテンションが高くなるのがわかった。
「いやーあのお婆さん、今から息子夫婦のところに行くみたいなんですよ。何でも念願の初孫が生まれたそうで、その子のおもちゃとかいろいろ用意したら大荷物になってしまって駅まで行くのが大変だって。なのでよかったら駅までお連れいたしましょうかって言ったんですけどバス停までもうすぐだから大丈夫だって言われたんで戻ってきました!」
「あーはいはいわかったわかった。」
俺から話を振っておいてなんだがめんどくさいぐらい話してくる。もちろんいいことをしているのだから咎める必要はないのだが少々鬱陶しいので違う話題にすることにした。
「あーそれで、事件の方だが、被害者の詳細は」
今まで太陽みたいに明るかった顔がまた少し暗くはなったが、今わかっている範囲の情報を思い出すように話しだす。
「えーっと、被害者の名前は松ヶ崎・優子・美人。嵯峨高校二年。これは持っていた学生証に書いてあったもので、両親への確認はこれからです。発見したのは近くを早朝のジョギングで通った男性。道の端に普段見ない毛布のようなものがあった為確認すると中に遺体があり、警察に連絡がきました。辺りは住宅街ですが、学校や会社等の行き帰りにはなかったものと思われ、事件は昨夜遅くに起こったと推測されます。」
まあ、そうだろう。俺たちが通報を受けてほぼ一番に駆け付けたのがさっき。やはり俺が知っているのと同じ情報だ。ではなぜわざわざ聞いたかと言うと、こいつはさっきも言ったように井戸端会議に参加したりだとかで、さらっと重要な話を拾ってきたりするだ。たまにではあるが。とは言ってもこのまだ早い時間のまだ事件自体ほとんど広まっていない状態では何の収穫もないみたいだが。
「それで、先輩。この道であってるんですか?」
「ん?あぁ。このまま真っ直ぐ奥に進めば着くはずだ」
どうせあんな事件すぐに俺たちに回ってくる事はないだろうし、こんな朝早くから面倒な事をしたんだ。面倒ついでに一応この前礼をしに行こうというわけだ。
街中からもそう遠くない山の中にひっそりと建つ一軒の家。ただの家と言うには少々豪華だが豪邸というほどでもない。そこに奴は住んでいる。
「本当にこんな道であってるんですか」
車一台がギリギリ通れる程の木々に挟まれた狭い道を車をガタガタいわせながら走らせる。
「あぁもうすぐで着く」
道が開けてきて、森の中に突如として現れた家。
「わっ。本当にこんなところに家が。先輩、車はどこに止めればいいですか」
「ん?あぁ適当に止めときゃいいよどうせ誰も来ねぇし」
どうせここには俺か、ネットで注文したものが届くくらいだ。
「いやー本当にこんなところに住んでるんですね」
正義は車のロックをかけながら感心したように言う。
「ここに連れてきたのはいいがお前は出来るだけ話すな。口を開くな。いいな」
俺は無駄だろうなと思いながらも一応忠告することにした。
「なんでですか!ここにはかの有名な事件を解決したと言われるあの東雲さんが住んでいるんでしょう?それなら是非とも挨拶をしないと!!」
あー。だからこいつと一緒にここに来たくなかったんだ。俺は胃がキリキリするのを感じた。
インターホンを鳴らそうと指を伸ばすと同時にドアが開いた。
「どうぞ入って下さい。普段なら入って欲しくないんですが今は人手が欲しいので、今日は特別に良いですよ」
いつ来ても変わらない上下ジャージでぼさぼさの髪の毛。目には生気がこもっていないやる気のない面。本当にこいつは。もっと言い方があるだろうと一言言ってやろうと思いながらも何倍にもなって返ってくることを考えればこらえた方がましだ。そう思い俺はいつものように靴を脱ぎスリッパに履き替えたところで正義がまだ玄関の前で微動だにしていない事に気づいた。
「おい、どうした正義。はやく……」
「ど、どうして僕たちが来るのがわかったんですか!!やっぱりこう何か推理をしたんですか!!それにしても若い方だったんですね。僕とほとんど変わらないぐらいじゃないですか?いやーもっとこう本とかに出てくる名探偵なんかのようにパイプとかが似合いそうなお歳を召した方だと思ってました!」
いつもの三割増しくらいのテンションでまるで欲しかったおもちゃを買ってもらった時の子供の様に目をキラキラさせながら言った。
「……」
「……」
俺もあいつもただ茫然とした。少し間があって先に声を出したのは奴だった。
「ふ、ははははははは。ちょっと、早乙女さんこの人大丈夫ですか」
奴は腹を抱えながら本気で笑っていた。
「あー、さすがに俺も心配になって来た」
俺も奴につられて少し笑い声になっていた。
「ちょっと先輩までなんで笑ってるんですか!だってすごいじゃないですか!まるで僕達が来るのをわかっていたみたいだったじゃないですか」
「そんな事どうでもいいので早く入って下さい。春先とはいえまだまだ寒いんですよね」
やれやれと呆れたように言い放つ。これについては俺も同意見だった。
「そうだな俺も早く入りてぇ」
「え、ちょ、ちょっとぉ」
情けない声を上げている正義を置いて俺と奴はリビングへと向かった。
「で、説明してくださいよ!」
リビングに案内され席に座るやいなやまた先の疑問を投げかけてきた。駄々をこねる小学生かっての。
「だとよ。説明してやれよ」
俺はキッチンに立っている奴に話を振った。
「ヤですよ。ただでさえこうして一応客のあなた方をもてなす為に準備しているんですから。そのうえそんなしょうもない事に労力を費やしたくないですし。早乙女さんが説明してくださいよ」
まあ説明をしてくれるなんて思ってもいなかったが、案の定俺が説明をしないといけなくなってしまった。とは言っても説明するほどの事でもないんだけどな。
「わかったわかった。説明してやるからよく聞け。とは言っても俺は何が不思議なのかわからないんだが……」
「いやいや、だって僕たちが来るのを完璧にわかってたじゃないですか」
「なら、俺たちは今日ここまで何で来た?」
「何って車ですよ。僕が運転してきたんじゃないですか……あ!」
はあー。と大げさにため息をつく。
「ようやく理解したか」
「そう……でしたね。この場所他に何もないから、車の音でもしたらすぐわかりますよね。あああ、何でそんな事もわかんなかったんだろう」
ようやく理解した正義は先ほどまでとは打って変ってうなだれている。奴の事は署の一部では伝説みたいなものになっているからな。そのイメージでいくとちょっとしたことでもすごい事だと思っちまうんだろうが。特にこいつはミーハーだからな。
キッチンの方から、チン!と大きな音が鳴ったところでいい匂いが漂って来た。
「お待たせしました」
と、奴が持って来たのは大量のトーストと三人分の飲み物だった。
「なんだこの大量のトーストは」
「だから言ったじゃないですか、人手が欲しかったって」
「お前人手って、パンを食べる人が欲しかったって事か」
俺は予想外の事に声が裏返ってしまった。こいつの事だからまた、小間使いの様に部屋の掃除だのなんだのをさせられるのかと思っていた分余計にビックリしてしまった。
「ええそうです。今パンまつりのシールが付いているので買いだめしたのですが、賞味期限的に危なくなって来たので。どうせ朝ご飯もまだ食べてないでしょう」
奴の言葉に正義が少し反応したようだったが、先ほどの事もあってか質問はしてこなかった。
すると、これまた予想外だが奴の方から質問を促してきた。
「今回は聞かないんですね。何で朝ご飯をまだ食べてないのを知っているのかって。それともあなたは朝ごはん食べてましたか」
「あ、いえ。確かに仰る通り朝ごはんはまだですが……」
「では、今回は先ほどより気にはならないと」
「いえ、そうではないんです。そうでは……」
また仕様もない事だったらと思うと気まずいのか濁すばかりで鬱陶しかったので俺が聞くことにした。
「で、何だって俺らが朝ご飯を食ってねぇってわかったんだよ」
「まあ、簡単な事です」
コーヒーの入ったマグカップに手をかけながら俺の質問に答えた。
「早乙女さんがこんな朝早くに来たからですよ」
奴は壁にかかっている時計を見た。
「それのどこが朝ごはんを食べてねぇ理由に何だよ」
「早乙女さん、あなたもしかして自分の事よくわかっていないんじゃないですか」
驚いたように目を見開いて俺を見てくる。
「いや、言ってる意味がわからねぇよ」
奴はやれやれと言わんばかりに大げさに肩をすくめた。
「そもそも早乙女さんがこんな早い時間にここに来るわけがないじゃないですか。となると朝早くに事件か何かがあって、検査結果なんかの時間つぶしにここに来たと考えるのが一番納得できます」
割と当たっているが言われっぱなしは性に合わねぇから少し反論することにした。
「だけどよ、別に朝一にここに向かったってんなら別におかしくないだろうよ。こうして俺の部下を紹介するために早く来たのかもしれねぇじゃねえかよ」
すると珍しくすぐには返ってこなかった。いつもならぐうの音も出ない程コテンパンにやられるのだがなぜか考えこむように「うーん」とうなっていた。
「おい、珍しいじゃねぇか。今回は俺の勝ちか?」
いつも負けていた分勝ち誇った態度になったのもつかの間。やはりいつも通り勝つ事は出来ていなかった。
「いや、別に今の事に対してもいくつか言いたい事はありますけど。てっとり早く言うと見えたんですよね」
俺は奴の言葉にドキリとした。体中の毛という毛が逆立ち、汗がとめどなく流れてきた。そんな俺を見て奴は、
「あ、安心してください。流石に最後まではわかりません。何を話しに来たのかまではわかりませんし。あなたの部下の正義さんが言うようにそれこそただの推理に近いです」
もちろん奴がどこまでが本当の事を言っているのかはわからなかったがその言葉に安心した。
「いや、すまない。ちょっと取り乱した」
「いえ、自分でもよくわかってるんで大丈夫です。なんだかんだ言っても長い付き合いになりましたからね。ボクと早乙女さんは」
「ああ、そうだな」
こいつと初めて会った頃からかれこれ三年ぐらいか。そりゃあ仕方がねぇか。
「あ、あのー」
ずっと蚊帳の外だった正義がおずおずと右手を上げた。
「その、さっきから二人の話がよくわからないんですけれど……見えたって言われた時先輩急に顔色が悪くなりましたし……」
まあそりゃあ気になるよな。どうしたもんかと奴の方を見たら構わないよと言うように笑顔を見せた。
「では正義さん。少し質問しても良いですか」
「は、はひぃ!」
奴の言葉に緊張しているようで、噛んだ。
「『正義』これはあなたの名前ですが何故ご両親がこの名前をあなたに付けたかご存知ですか」
「それはもちろんです!僕は今こうして警察官として働く事が出来ています。両親はこれを望んでいたようです」
「と、言うと?」
奴はしっかりと正義の言葉をかみしめるように聞いていた。
「警察官と言えば町の人の安全を守るためにいて、真面目で誠実で、そして正義の味方だと。なのでそういう人になるようにこの『正義』という名前を付けられました」
「そう。そうですよね。あなたにそういう人になってもらいたいからそう名付けた。まあ、早乙女さんの方に関してはよくわかりませんし、苗字もさることながら名前も女っぽいですよね。実際は熊みたいな人なのに」
こういう人をいじる時だけはイキイキとした顔をしやがる。どうせ俺の世代は今ほど名前の意味は考えていない親が多かったし、俺に関してはギリギリまで女の子だと思われていて、その時に考えていた名前そのままを付けたから余計に男でも女でもいそうな名前なんだが。そんな事どうでもいいだろう!
「さて、早乙女さんの事は置いておくとして、正義さん。今は名前というもの自体がとても重要なものになっています。そこでもし、『悪』と言う名前の子がいたらどんな子だと思いますか」
「『悪』ですか」
正義は顎に手を置いて「うーん」と考えこんだ。
かなり真剣に考えているようで、俺が食べかけだったトーストを食べ終わる頃にようやく話出した。
「まず前提としてその名前はあり得ないです」
「へー。どうして」
奴は面白いと言わんばかりに笑顔を見せていた。
「まずそんな名前を付ける親がいると思えませんし、それにそんな名前国が許しませんよ。そんなおかしな名前」
「そうでしょうか。『正義』がいいもので『悪』がわるもの。なんてことが今ではみんなの共通の事みたいになってはいますが、元々『悪』という言葉は剽悍さや力強さを表す言葉としても使われていたので百パーセント悪い意味でもないですよ」
「いや……それでも……」
奴の言葉に言いよどむ正義。そんな正義にさらに追い打ちをかけるように言葉が飛ぶ
「それに、そんな名前と言うのであれば、早乙女さん。あなたのいる『特殊事件対策係』の特別班にいる人の名前をいくつか挙げてみてください」
特殊事件対策係は大層なのは名前だけで、普段は俺と正義しかいない言ってみればめんどくさい事件を押し付けられるためだけのところだが、たまに常識では考えられない事件を解決するために奴や、普段は別のところに所属している奴らを集めて特別班として、その力を借りて事件を解決しているところの事だが、恐らく奴が言いたいのはこのあたりだろうといくつか名前を挙げた。
「犬神 捕縛とか横山 推理とか犬吠埼 走とかのことか」
奴は俺のあげた名前に頷き、
「ボクからしたらこっちの名前の方がおかしいとおもいますよ。犯人を捕まえられるよう『捕縛』だとか事件を解決できるよう『推理』だとか。挙句犯人を追いかけられるように『走』なんてあほなんじゃないですか!!陸上選手にでもした方がまだましですよ」
とは言っても実際特別班の奴らの検挙率は高い。もちろんそれは奴も知ってはいるだろうが、奴の事を考えるとあほなんて言いたくなるのもわかってやれているつもりだ。
もはや言葉も出ない正義に奴は、ふぅ。と一息ついてから別の質問をした。
「すいません柄にもなく大きな声を出してしまいました。あほじゃないかなんて強く言ってしまいましたが、特別班の方が実際役に立っているのは、早乙女さんから聞いているので知ってはいるつもりです。別に役に立たないなんて言っているわけではないのでそこはご理解いただきたいのですが」
「は、はぁ」
「では正義さん二つ目の質問させてください。先ほど正義さんは『悪』という名前はあり得ないとおっしゃいましたが、例えば『全知』や『全能』なんて名前あり得ると思いますか」
「『全知』や『全能』ですか。それはないと思います」
一つ目の質問とは違いほぼノータイムで返事をした。
「へー、何故です」
「いや、だって『全知』も『全能』もそんな人がいたら怖いですし、想像もつかないですもん」
正義の言葉に奴はニヤリとして、
「そう、想像できないからありえない。それは正しいです。今、正義さんが特殊な能力を持っているのは想像出来る事だからです。どういう意味か解りますか」
この話を奴から初めて聞いた時はこいつの親を一回殴りに行ってやろうかと考えた時の事を思い出した。ん?そういえば奴が俺以外にこの話をするのは初めてじゃねぇか。よほど正義の事を気に入ったのか。なんにせよ奴の考えている事がわからないのはいつもの事だが。
「いえ……よくわかりません」
正義は申し訳なさそうに頭をかいた。
「そうですね。では基本から考えましょうか。そもそも人は名前がないとそのものの存在を認識することはできません。例えばこのマグカップ。これはマグカップとして教えられているのでここにいる三人共通でマグカップとわかりますよね」
「勿論それはマグカップですけど……」
「ではこれはなんですか?」
そう言うと奴は机の上に置いてあった本の中から栞を抜き出した。
「これは何かわかりますか。あ、栞の事ではないですよ」
「えっと、タンポポの事ですか」
「そうです。大正解。この栞にはタンポポを押し花にしたものが加工してあります。因みに早乙女さんはわかりましたか?」
「さすがに俺だってタンポポぐらいはわかるに決まってんだろ」
こんな時でも俺をバカにすることは忘れないってんだからむかつく野郎だ。
「さて、大正解なんて言いましたが、実は二人とも間違いです」
「へ?」
「はぁ?」
二人して素っ頓狂な声を出してしまった。奴はニヤリとして続けた。
「これはタンポポによく似ているのですがノゲシと言う花です。早乙女さんは特にでしょうが花に興味がない方でしたらパッと見タンポポに見えるかもしれません。ではもしここに早乙女さん……はありえなさそうなので、正義さんのお子さんがいたとしましょう」
もう何も言わねぇ。
「二人はその子供にこの花がタンポポだと間違って教えます。もちろんお二人に悪気も、間違えた事を教えようとしているわけではないですよ。そうすればその子はそれをタンポポだと思い頭の中にインプットします。そうですよね」
「それは確かに、そうだよと教えられれば間違えて覚えてしまいますが、それがどうしたのですか?」
「ああ、いえ」
と正義の質問を否定した。
「この場合間違えて憶えてしまう事については別段問題はないんです。別に間違えていても死ぬわけではありませんし。ここで問題、と言うより本題なのはそれをタンポポだと思ってしまう事です」
「えっと、言ってる事が同じに聞こえるのですが、どう違うのですか」
「いえ、全然違いますよ。その子供はそれをタンポポと言い、植物に詳しい人、まあそうでなくともわかる人から見ればそれはノゲシなんです。同じものを指しているのに全く別の名前で憶えているんです。今はあくまで『もの』と『名前』の話でしたが、では言葉の意味ではどうでしょう。『コーヒー』と言われてどう思いますか?」
奴の質問に正義は、
「コーヒーですか。正直苦手です。僕はあまり苦いのは好きではないので」
「だと思いました。先ほどからコーヒーにほとんど手を付けていませんもんね」
「かー子供だねぇ正義は。コーヒーなんてこの苦さもまた美味しさの一つじゃねぇか」
「人の好き嫌いをバカにする人の方が子供だとは思いますけどね。砂糖をたくさん入れた甘いコーヒーだって美味しいと思いますけれど」
うるせぇ、ほっとけ。
「さて、正義さんには申し訳ないのですが実は早乙女さんに甘党だとは聞いてはいたんですがコーヒーを出しました。すいません。けれどこれで同じ『コーヒー』と言う、今では一般に知れ渡っているものですら個人によって認識の違いがあるのを解ってもらえたかと思います。あ、正義さん冷蔵庫にリンゴジュースでよければあるので飲んでも良いですよ」
正義は、
「ありがとうございます」
とは言ったものの席を立とうとはしなかった。その様子を確認した奴は、
「では話を戻しますが、コーヒーですらその差が出るのです。『全知』や『全能』なんて正しい意味もよくわからないものを理解して、その言葉を正しく使えているのかどうかが問題なんです。子供にそんな名前を付けるとして、母親と父親がその意味をお互い共通して同じ事を考えて子供の名として呼べるかどうか。まぁ、普通は呼べませんし、そんな人想像もつきませんよね。だから『全知』や『全能』なんて名前はないんですよ」
「いえ、しかし」
と正義はそれに反論した。
「例えばそれが片親しかいない場合だったらどうするんですか。それなら認識の違いはなくなりますよね」
もっともな質問。と言うか俺と同じ質問だった。
「そうですね。確かにそうなら認識の違いはなくなります。が、実際問題、正義さんは想像できますか。全知の子供を。全能の子供を」
「あ……いえ……」
「そうなんです。想像つかないんですよ。仮に想像がついたとしましょう。全知であるなら、あなたの子供のころのおねしょの数だってわかるだろうし、それぐらいならまだよくてもあなたが今まで寝た人の数や、あなたが過去に抱いた喜びや悲しみ怒り恨み興奮などすべてを知っているのです。そんな子供いたらどう思いますか」
「それは……正直怖いです」
「そう。その通りです。そこまでいくと自分の想像を超え、もはや恐怖の対象でしかないのです。正義さんはもちろんご存じでしょうが特別な能力を持つ人間が増えたとは言っても、全員が持つわけではないですよね。つまりはそういう事です。そういう名前の人がいたとしてもそういう能力は持たないんです」
「なるほど。……えっと、それについては理解したつもりではいるんですけれど、最終的に先輩の顔色が悪くなった理由はわからなかったんですけれど……」
「あぁ。それはボクの名前が『予言』だからですよ」
奴はスパッとなんてない事のように言った。長い沈黙。奴がコーヒーをすする音だけが聞こえる。
「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「うるせえよ」
俺は驚きのあまり叫ぶ正義の背中を思い切り叩いた。
「痛っっっ!!先輩、痛い、痛いですよ」
涙目になりながらこちらを見てくる。
「いやいや、驚かない方がおかしいですよ!!だったら今までの説明なんだったんですか!!そんな行き過ぎた名前の能力を持つ人はいないって言う話じゃなかったんですか!?先輩があんな顔色になるって事はただ名前が『予言』ってだけじゃないですよね?ね?」
「わかったから落ち着け落ち着け。な?」
「落ち着いていられるわけないですよ!!だって……」
「おーし、もう一発いっとくか?」
「あ、いえ、それは……」
「うわぁ。パワハラの現場を見てしまいました。正義さんこれは訴えていいと思いますよ。この暴力上司なら勝てますよ」
お前な、誰のために言ってると思ってんだよ。
「さて、この話し合いより先に手が出る野生動物は置いておいてちゃんと説明しますね」
「誰が野生動物だ」
「あれ、別に早乙女さんの事は言っていないのに……」
本当にこいつは。いつか泣かす。
「確かに『全知』や『全能』なんて能力を持つ特殊な人はまずいないという話をしましたが、百パーセントいないとは言い切れませんよ。先程も言ったように可能性が限りなく低いというだけであって、恐れることなくそう子供を呼べるのであればそういう能力を持った人だっているでしょう。それにボクは予言と言う名前ではありますけれど別段すべての、すべての人の未来が見えるわけではないんです」
「そ、そうなんですか……」
「えぇ。予言とは言っても見える範囲は狭いですし、夢に見たことが現実になるとか、急に天啓が降りてくるとかそういう事ではなく、あくまで推理の域を出ません。もちろん常人と比べると異常ではありますが」
「あ、だから迷宮入りしそうな事件を解決したり、伝説が残っているんですね!!」
「伝説ですか……」
「だったらもっと東雲さんに事件の解決を手伝ってもらえばいいのに……」
それができればある意味良いんだろうがそうもいえねぇ理由がある。そもそもそうじゃなきゃ特殊事件対策係なんてもん出来てねぇし、俺がこいつとかかわる事もなかったろうよ。
それにしても今日の奴はやけに口が軽い。こんなに話す奴だったか?
「そうですね……。手伝うのはやぶさかではないですがそれはあり得ないですね」
「なぜですか。東雲さんにかかれば何年もわからなかった事件があっという間に解決したという事が過去にあったとか、事件現場を一目見ただけで犯行の手口がすぐにわかり早期解決につながったとか、まるで推理小説の名探偵のようだって聞いてますよ!!」
奴は少し驚いたように目を開いて笑った。
「ははははは、ボクはそんな風に言われているんですか」
「あ、いえ。僕が個人的に調べただけです。みなさんあまり良い顔をしないんですけれど」
「まあ、それもそうでしょう。予言なんてこの異常な世界であっても異質な能力を持つ人間が、すべての事件を解決したんじゃあ警察の面目丸つぶれですからね。それに嫌われている理由はもう一つあります。それは……」
奴が言いかけたところでプルプルプルと携帯電話の音が鳴り響いた。
「あぁすまねぇ。俺だ」
俺は奴と正義がどんな話をするのか気になったがそうもいかず廊下に出て電話をとった。
「ねぇ、先輩。東雲さんの両親は何であんな名前を付けたんでしょうか」
先ほどの電話で事件の目撃者がいた事がわかった。わかったんならそっちで話を終わらせてくれたらいいものを、どうも正義と話をしたことのある人物のようであの警察の人になら話すという事らしい。そんなわけで奴の家を早々に後にし、正義の運転で現場近くにまた戻る事になった。
「……そんなもん俺が知るかよ。それこそ全知でもなけりゃあわからねぇんじゃねぇの」
嘘だった。少なくともこいつよりは奴の事情は知っている。奴の両親がなぜあんな名前をつけたのかも。
「そう……ですか」
「まあなんだ、あいつ何故だかわからないがお前の事気に入ってるみたいだったからまたおいおい聞けばいいんじゃねぇの」
正義はこの日一番の笑顔を見せ、
「はい!!」
と返事をした。