ー松ヶ崎・優子・美人ー 2
高校生になった私は新たな人生を歩んでいた。今までの人生がまるで何かの間違いだったみたいに。
「松ヶ崎さん、今度の休みの日何か用事ある?」
「今度面白い映画が始まるんだけど一緒に見に行かない?」
「おしゃれなカフェがあるんだけど、どう?」
なんて休み時間ごとに誘われる。引く手あまただ。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花なんて諺を体現していると言っても過言ではないと思う。とにかく私のすべてが変わった。
正確に言うと私が変わったのではなくて、周りの認識が変わったのだろうけれど、そんなことどうでもよかった。今が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
まあ、これについては基本的に男にしか通用しないから女子たちの目線は少々刺さるものがあるけれどそんなものどうも思わない。負け犬の遠吠え、引かれ者の小唄。何を言われても負け惜しみにしか聞こえない。
もう何も怖いものなんてなかった。
中学高卒業式当日。
私は例によって、こんな最後の日までいつも通りだった。だけどこの我慢していた日常も今日でお終いだ。
常に私をいじめてきたグループのリーダー格の女とは進学先が違うし、そもそも私はこの町から出てどこかで野垂れ死ぬ予定だからこんな生活とも今日でおさらばだ。
惜しむらくはこの女に一泡吹かせることができない事だ。せめて何か一つぐらい仕返しをしたかった。それぐらいはしたかったけれど、もちろんそんな事出来るわけないし流れるように卒業式は終わり、大して挨拶をする人もいない私はさっさと学校を後にした。
家に帰ったところですることはなかったので、私服に着替えてから外に出た。
父と母は卒業祝いと言って豪華な晩御飯を用意しているみたいだから、適当にいい時間になるまで町をぶらつくことにした。いい思い出なんかないけれど、私が育ってきたこの町を目に焼き付けておきたいと思った。
たいして何も考えずに歩いていた。いつもより少し視線が刺さるような気がしたが何も思わなかった。
商店街には至るとことに『卒業おめでとう』の文字が見え、私のこの世界からの卒業を祝ってくれているようだった。
商店街の端まで着いてしまい、そろそろ帰ろうかと回れ右したところで誰かとぶつかったようで、勢い余ってしりもちをついた。
「いたたた」
「あ、ごめんね。大丈夫?」
ほら、と背の高くてスマートな男の人が手を差し伸べてくれた。寒いからか顔は真っ赤だった。
「ありがとうございます。けど大丈夫です」
私はそう言うと服をはたきながら一人で立ち上がった。
「本当にごめんね、大丈夫怪我とかしてない?」
ほら、普通にしていれば、私の事を知らなければ、私の名前を知らなければ、こうも優しくしてもらえるんだ。この人だって私の名前を知ってしまったらおそらく微妙な反応とともに苦笑いを見せてくれるのだろう。私はそう思うと悲しくなり今まで人前で泣く事なんてほとんどなかったのに思わず涙を流してしまった。
「え!ごめん。やっぱりどこか怪我しちゃった?そんなに痛かった?」
身体はどこも痛くなかった。ただ心が痛かった。
「えっと、あ、ちょっとこっち来て」
言われるままに近くの公園のベンチまで連れてこられた。
ベンチと滑り台と鉄棒しかない小さめの公園。商店街に向かうであろう親子や荷物をかごいっぱいに乗せた自転車が通り過ぎていく。
彼は私を座らせると「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行ってしまった。正直今すぐ帰りたかった。人前で泣いてしまった事は私の中でかなり恥ずかしい事だった。
今まで色々な嫌がらせをされてきたけれど誰かの前で泣くなんて事はしなかった。泣いたら余計に面白がって嫌がらせはエスカレートするし、何より負けを認めているようで嫌だったから。
うつむいていた私の上から、
「はい」
という声が聞こえた。
先ほどの彼がコンビニ袋をぶら下げながら私に飲み物を差し出していた。
「紅茶でいいかな?」
「そっか、どこか怪我したんじゃないんだね」
「はい。ごめんなさい。少し悲しい事を思い出してしまっただけです」
「とにかく怪我がなくてよかった。……悲しい事ってもしかして今日卒業式があったからだったりする?」
間違いではあったけれど今日卒業式があった事を知っている事には驚いた。私の驚いた顔を見たからか彼は少し得意そうな顔をしていた。
「実は僕の彼女が今日卒業式でね。同い年ぐらいかなって思ったからさ。もしかして悲しい事って彼氏と違う学校に行くことになるからとかかな。僕の方は一緒のところに行くって言って晴れてこの春から僕の後輩になるからいいんだけど」
検討違いもいいところだった。笑顔で、まるで可愛い彼女を自慢しているかのような言い方にイライラしてしまったからか、心の中で思っていたはずの言葉がいつの間にか声に出していた。
「私に彼氏なんて出来るはずないじゃないですか」
彼も驚いただろうが、私が一番驚いた。こんな声が出るんだと。今まではすべて心のうちに溜めていて、怒鳴るなんて事もしなかったし、大きな声を出すことすらほとんどなかったのに、なぜか今は今まで我慢していたものを吐き出すように言葉が出てしまった。
「あ、……そうなんだ」
せっかく優しくしてもらっているの驚かせてしまって申し訳ないなと様子をうかがうと、やはり驚いた顔でこっちを見ていた。しかし続いた言葉は思いもよらぬものだった。
「そっか、彼氏いないんだ。……ごめんね。こんな美人な子なら彼氏だっているだろうし、少しその彼氏が羨ましいなって思っちゃったんだ」
私の事は私が一番よくわかっている。不細工とまではいかないでも美人ではない事を。そうじゃなければ今までのようにいじめられることなんてなかったはずだから。
けれど私の事を美人と言ったのはこれが二人目だった。一人目は数日前私に告白をしてくれた一年生。そして二人目が今目の前にいるこの人。前回ほどの嬉しさはなかったけれど、この人は嫌味やお世辞で言っているのではないなと顔を見ればよくわかった。
公園の外を通り過ぎる人。その人から私たちはどう見えているのだろうか。カップルにでも見えているんだろうか。
私は試しに泣いてみた。
「ど、どうしたの?俺変な事言っちゃったかな」
「いえ、違うんです。そんな事言われた事がなくて。学校でも不細工だって、醜いっていじめられて……」
嘘をついた。すべてが嘘とは言わないけれど嘘をついた。
「え!誰がそんな事。大丈夫泣かなくていいよ。そんな事ないから。それって女の子が言ってたんじゃないかな、それたぶん僻みだよ」
「そんな……僻みだなんて。私が実際不細工だから」
「いや、絶対そうだよ!俺が保障するよ君は美人だし、そんなに自分を卑下する事ないって!」
私はずっと顔を伏せたままだった。そうしないと笑っているのがばれてしまいそうで。
「だから泣いてないで顔をあげなよ。ほら、もうすぐ高校生だろ?だったらそこからまた心機一転のチャンスだって。あ、それとも君をいじめていた人と同じ学校だったりするのかな」
私は出てもいない涙を拭くふりをしながら顔をあげた。
「いえ。違う学校に進学します」
「だったらもう怖いものなんてないよ!だから自信を持ちなよ」
私は笑顔で答えた。
「はい。ありがとうございます。……学校にお兄さんみたいな人がいたら守ってもらえたんですかね。もう少し早く会っていればもっと早く自分に自信が持てるようになれていたかもしれませんね」
「今からだって遅くないよ。何かあったら守ってあげるよ。そうだ、なにかあったら連絡頂戴。ここであったのも何かの縁だし、今みたいに話聞く事ぐらいならいつでも出来るしさ」
「でも、彼女さんがいるなら迷惑じゃ……」
彼は携帯を出しながら続けた。
「大丈夫だよ。それぐらいで怒るような彼女じゃないから。優美って言って名前の通り優しい子だから」
その名前を聞いて私は驚いた。だけどこの世界じゃ似たような名前なんてよくあるし、気のせいだと思っていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
しかし、私が携帯を取り出したところで彼女はやってきた。
「ちょっとちょっと、あんた何してるのよ!」
狙ったかのようなタイミングで彼女の登場。普段学校では取り巻きの男子に囲まれてお姫様気分で私をいじめてきた彼女が、さっきから一人で商店街の端の方をうろうろしていたからまさかなとは思っていたけど、本当にそうだっから驚いた。
「何でお前みたいなやつが、私の彼と連絡先交換しようとしてるのよ!」
づかづかと近づいてきた彼女は私の胸倉を掴みながら怒鳴るようにそう言った。
私はされるがままでいた。すると思っていた通り彼が助けてくれた。
「おい、優美どうしたんだよ、やめろよ」
私と彼女を引きはがすと膝から崩れ落ち脅えるふりをしている私に優しく声をかけてくれる。
「大丈夫?」
私は笑いそうになるのを我慢しながら、泣きそうになっているふりをを続けながら彼に伝えた。
「あの……人です、私を……いつもいじめてくる人……」
私の言葉に彼はしっかり信用してくれているみたいでやはり私をかばってくれる。
「おい優美、どういうことだよ。こんな純粋な子泣かせてさ」
「ちょっと、そいつの肩持つって言うの?私あなたの彼女よ。私はその身の程知らずに事実を教えていただけなの。私悪い事何もしてないじゃない!」
「何もしてないって現に今この子の首を掴んでたじゃないか。それにこの子をいじめてたって本当かよ!」
「いじめてたなんて言い方が悪いわ。私はあの子に自分の立場をわからせていただけよ。いじめていたなんてそんな事してないわ!」
「まさか本当にこの子をいじめてたのかよ!」
私は横でこの言い合いを聞いて笑い転げそうになっていた。普段なら自分の思い通りに周りの男共も同調してくるが今は違う。しかもその相対する相手が自分の好きな相手だって言うんだから爆笑ものだ。
「だから違うって言っているでしょ! だって優君あの子の名前知ってる? 美人だよ美人。ね、笑っちゃうでしょ。どこが美人なんだってさ」
優君と呼ばれたその彼は、彼女の言葉に何か決心した顔をした。
「そうか。やっぱり嫉妬なのか。……俺は彼女を美人だと思うよ」
やはり彼は私の事を美人だと言う。しかしその事について認められないのは彼女だ。
「いやいやいや、何言ってるの?そんな訳ないじゃない。どう見ても……」
まだまだ私に罵声を浴びせようとする彼女の言葉を遮るように彼は力強く言った。
「百歩譲って彼女が美人じゃないとしよう」
「譲らなくてもそうなんだって。名前負けしてるのよこいつは!!」
「だったらそれはお前もだろう。何が優美だ!今のお前の言葉には優しさも美しさもない。お前の方が名前負けしているんじゃないか?」
「いや、だって、それは……」
彼女も今の自分の醜さに気づいたようで、初めて顔を強張らせた。
さて、この滑稽な言い合いはまだまだ見ていたいところだけど人の目も増えてきそうだし、そろそろ頃合いかな。私は立ち上がり、怯えるように二人に向かって訴えた。
「違うんです、彼女は何も悪くないんです。私が悪いんです。私が……」
「そ、そうよ!私は悪くないの。この女がすべて悪いの!だからね、優君……」
もう彼女の言葉は届かないようで、彼は私に近づくと優しく手を取ってくれた。そしてそのまま公園の出口の方へ連れて行ってくれた。
「待ってよ、ねえ、優君!」
泣きそうになりながらも、去っていく彼に向かって彼女は叫ぶように言った。
だがそれに対する彼の言葉はひどいものだった。
「俺の事を優君なんて呼ぶな。お前みたいな人にやさしくできないやつが優美なんて名前でいるな。俺とお前はもう彼氏彼女じゃねえ。金輪際俺と、そしてこの子にも近づくな」
吐き捨てるようにそういうとそのまま止まる事無く公園を後にした。
私はうつむきながらずっと震えていた。彼は私が泣いているのだと思っているのか頭を優しくポンポンと叩いてくれる。その行為がまた私を震わせた。私は今すぐ叫びたかった、口から体中の空気をすべて吐き出して笑いたかった。だってそうじゃない。今まで私の名前でさんざんいじめてきた奴がそんな事を誰より言われたくないであろう彼氏に言われ、そしてそのまま捨てられる。最高だった。あの醜く歪んだ悔しそうな顔は生涯忘れないだろう。
「あのさ、本当にごめんね。優美なんて名前なのにその、ずっと君をいじめていたみたいで」
彼がぽつんと言った。
私は繋いだままだった彼の手をそっと離すと少し距離をとって、彼と向かい合った。
「気にしないで下さい。誰だって優美なんて名前を聞いたらそういう子だなって思ってしまいますよ。だからあなたは悪くないです」
「でも……」
「もう大丈夫です。それにあなたが言ってくれたんですよ。心機一転のチャンスだって。あなたのおかげで自信が持てました。ありがとうございます」
私はとびっきりの笑顔を見せてあげた。
彼は顔を真っ赤にしながら私に一歩近づく。
「もしこれから君をいじめる人が俺が守ってあげるから。だから俺と付き合わないか」
私はニヤリとした。
「そういえばあなたの名前、優って言うんですね」
「うん?そうだよ。だからさ君を悲しませることはないよ」
「へぇ。何で悲しませる事がないんですかぁ?」
「だから俺の名前は……」
私は嘲笑して彼を見てから吐き捨てるように言った。
「あらそうだったの……ならあなたはあの彼女に優しくすべきだったのではなかったのかしら?あなたも名前負けしているのではないですか?」
私は唖然とする彼をよそにその場を後にした。
あと少しで夜中の一時になろうととしていた。私は誰だったかに貰ったブランド物の時計を見ながらため息をついた。今しがた言い寄ってくる男共と別れる事ができ、ようやく家へ帰るところだ。
もう早く帰って眠りたかった。ここ最近はテストなんかの関係で仕方なく学校に行きながらこんな生活をしていたから眠たくって仕方がなかった。
学校なんてたいしてすることがない。金を持っている奴なんてほとんどいないし、ただやりたい盛りの男子共にいい顔をしているのも疲れる。
今日の相手が面倒だったと言うのもさらに疲れを増やした。しつこいから仕方なく相手をしてあげたけどさっぱりだった。誰かの真似をしたような面白みもない話ばかり。そして最終的にはただすることをしたいだけなのがみえみえだった。晩御飯を一緒に食べるくらいまでならまだいいが、あんな程度の人間と私が釣り合うとでも思っているのだろうか。もっといい名前なら相手をしてあげても良いんだけれど、学校にいる男子は名前はいくらかましな奴はいてもまだまだ中身が子供だから相手をする気になれない。
それならお金を持っている大人や、すこ~しお願いをするだけで成績や出席日数をいいようにしてくれる先生に愛想を振りまいている方がいくらか意味がある。
名前と言えば今日は久しぶりにイライラした。大した名前でもないのに何事もないかのようにへらへらと彼女を待っていた彼を思い出した。あんな名前だというのに何の苦労も知らないような顔。彼も彼なら彼女も彼女だけれど。
こんな不公平な世界でそんな名前を付ける親も親だとは思うけれど別にそれ自体はどうでもいい。ただそんな名前で普通に楽しそうに生活しているのが気に食わない。あの場は他の人が来て面倒にならないように引いたけれど、何の苦労もなく生きてきて、彼女なんかも作って今が幸せなんてバカみたいな顔を思い出すだけでも腹が立つ。明日あたり学校の誰かをけしかけて嫌がらせでもしてやろうかしら。
なんて考え事をしながら歩いていると、向こうから来た人にぶつかりしりもちをついてしまった。
「ちょっと気をつけなさいよ痛いじゃない」
私が声を上げるとぶつかった相手は手を差し伸べて来た。ま、当たり前よね。私は差し出された手を握ろうとした。
だけど私がその手を握り返す事が出来なかった。なぜならそれは手ではなくナイフだったから。
私は出しかけた手をひっこめはしたものの恐怖のあまり動くことができなかった。助けを呼ぶにも口の中の水分が一気になくなり、空気が漏れたような音しか出せなかった。身体中からは汗が止まらなかった。気温はたいして寒くないはずなのに身体を震わせる事しかできないでいた。するとそいつはナイフをズボンの横にあるポケットの様なものに片付けると私に話かけてきた。
「----------ーーーーーーーーーーーー」
何を言っているか聞き取れなかったが、とにかくナイフが片付けられたのは私に少しの安心感を覚えた。その少しの安心感が私に相手を観察する程度の余裕を与えた。
相手の身長は私より少し高いぐらいで、フードを目深にかぶり、周りが暗いという事もあり顔は分らなかった。
「あなたは今日校門の前で私の大切な人を傷つけた」
今度はしっかりと聞き取れた。聞いた事のある声だった。私はこのフードを目深にかぶった人間が誰かピンときた。けれどその言葉の意味を理解するのは少し時間がかかった。と言うより理解できなかった。
だってあの場には彼しかいなかったはずだから。私は震える身体をそうとは悟らせないように勢いよく立ち上がり相手を見据えた。
けれど残念ながら相手の表情を見ることはできなかった。私は相手には見えないように後ろ手で鞄の中を探った。
「確かに私はあなた方にとっては悪口に聞こえるような事を言ったかもしれませんが、私はあくまで事実を言ったまでです。こんな風に脅されるなんて理解できません」
言い終わる頃には先ほどまでとは違い落ち着いていた。さすがにいきなりナイフを向けられた事はなかったけれど、私はこの名前の性質上誰かしらの恨みを買う事は今までもいくつかあったので似たような事は体験したことがあった。だからいつも鞄の中に護身用のスタンガンなんて物を持っている。
さすがに簡単に気絶はしてくれないけれど相手の動きを止めるくらいには役に立ってくれる。ならやることは今までと同じだ。私は一呼吸置いてから話を続けた。
「けれどもし、それほどまであなたを、あなたの大切な人を傷つけてしまっていたというのなら謝ります。だからちゃんと顔を見て、目を見て謝らせて」
私はそう言いながら少しづつ近づいて相手の目の前まで来た。私が近づいても何の反応も示さなかったのは少し驚いたけれど、何の抵抗もないのならそれに越したことはない。左手でフードをめくり、そのあらわになった首元に隠し持っていたスタンガン当てようとした。けれど当てる事は出来なかった。まるで天使の羽でも生えているかの様に軽やかに私の頭上を越え私の後ろに着地をした。
私は恐怖した。その時点で私は刺されてしまうと思った。何とか振り向いてこのスタンガンを当てようかと思ったけれど身体が言う事を聞いてくれなかった。
しかしいつまでたってもナイフで刺される事も羽交い絞めにされる事もなかった。ただただ相手の息遣いが聞こえるだけだった。ナイフで刺される事よりも何もされない方がここまで怖いなんて思いもしなかった。何を考えているかわからないから怖い。私はそんな恐怖を抱きながらも思い切って身体を反転させた。
目の前が真っ暗になった。急に街灯も、周りの家の光も、月の明かりですら見えなくなった。完全な闇だった。けれど相手の息遣いが聞こえる事は変わらなかった。
その後は一瞬だった。私は気が付くと地面に伏していた。身体中が焼けるように熱かった。特に顔が痛かった。ナイフで傷つけられているんだと気付いたのはもう動けなくなってからだった。
「こうなったらもう美人でも何でもないね。いや、こんな姿でも美人に見えるのかなすごいねぇ?じゃあね美人さん」
それが私の最後に聞いた言葉だった。