ー松ヶ崎・優子・美人ー
私はこの世界のすべてを恨んでいた。憎んでいた。憎悪していた。
この不可思議な世界も、それを良しとする世の中も、すべてなくなればいいと思っていた。
だけど今はそうは思はない。この世界万歳。この不可思議な、歪んだ世界万歳だ。
私の生まれる五十年程前、この国に不思議な事が起こり始めた。大きくニュースなんかで取り上げられるようになったきっかけは『虎』事件だそうだ。
ある日、原因は些細な事だったらしいが、言い合いになり、喧嘩を始めた人がいた。そして、その片方がカッとなってしまい相手を殺してしまった。普通と言ったらおかしいが、ここまでは普通にありえる事件だった。何が普通ではなかったかと言うと、殺された相手の死に方だった。ここにいるはずもない大きな肉食獣の鉤爪で左肩から右の腰の方に向かって引っ掻かれたような傷があったからだ。引っ掻くと言うと大した事がなさそうにも聞こえてしまうが、言ってしまえばごっそりと身体をえぐられていたらしい。
当時の新聞やテレビのニュースでは一部規制がされていたようで、どこかで起きた不思議な事件として終わらせようとしていたらしい。だけど、パソコンや携帯のネットの中では終わらなかった。瞬く間に噂は広がりある事ない事が書かれ、もはや国は正しい説明をしなくてはならないまで事が大きくなってしまった。そこで国は今まで隠していた事実を話した。
それからは国中で大パニックとまではならなかったらしい。答えは簡単同じ様な事件が今すぐ起こり得る事がほとんどありえなかったからだ。そもそも国からのおかしな説明を真に受けなかった人も多くいたのだろうけれど。
そんな世界になった後に生まれたのが私。正直最悪だった。なんて世界なんだと思った。そして、なんて名前を付けてくれたんだと親を憎んだ。世界を憎んだ。ずっとそうして生きてきた。
私の父と母はお世辞にも見た目がいいとは言えない。どちらも平凡な冴えない顔をしている。そんな二人の間に生まれた私が、果たして世の中に通用するような整った見た目をして生まれてくるのか。答えはNOだ。平々凡々。不細工とまではいかないでも、抜きんでて美形でもなかった。
そうして生まれてきた私に両親はあろうことか『美人』と名付けた。
もしも私が本当に美人で名前負けしないような風貌だったらどれだけよかった事か。しかし、そうはならなかった。
そして、そうではない人間が学校に、クラスに居たらどうなるか。答えは容易に想像が出来ると思う。
今ではあまり思い出したくもないが、それはひどいものだった。
ある時はランドセルの中身をすべてぶちまけられた。またある時は、給食の牛乳パックを洗った水が入っているバケツを頭からかけられた。またある時は、掃除当番を無理やり押し付けられた。物を隠される捨てられるは日常茶飯事。
あげだしたらきりがないが、何をされた後でも決まって
「教科書披拾う姿も綺麗だよねーさすが美人なだけあるよねー」「水も滴るいい女だねー。さすが美人ちゃん」「ほら、やっぱり何をさせても美人なんだからぁー」なんて皮肉でしかない言葉を言われ続けた。
私は少しでも皮肉を言われないようにありとあらゆる力を使って、誰にも負けないように努力した。
勉強ができないと。
「美人さんは美人だから勉強なんてできなくてもいいもんねー。美人でいるだけでいいんだもんねー。本当にうらやましいなぁ」なんて言われるし。
運動ができないと
「運動なんてできないよねー。無理してしなくていいんだよぉ。激しい運動をしてけがでもしたらせっかくの美人のお顔が大変な事になっちゃうもんねー」
何て言われてしまう。だから努力した。運動は苦手だったし、勉強だってそんなに得意ではなかったけれど、みんなの見えないところで努力した。努力し続けた。
時間はかかったけれど、体育はクラスの女子の中では一二を争うほどになったし、勉強だって学年上位に入るまでになった。これで皮肉なんて言われないし、言わせない。そう思っていた。
だけど実際は何も変わらなかった。
確かに運動をしている時は言われる事が少し減った気はしたが、勉強の方はより酷く言われるようになった。いろいろな言われ方をしたが、端的に言うと私が身体を使って先生をたぶらかしているから成績がいいという事だった。
そうしてやっぱり最後には「美人だから得だよねー」なんて言われる。
最悪だった。これならまだ勉強ができていない時の方がましだった。
だって私はいつだって健全で、綺麗なままで、何一つ悪い事なんてしていなかったのに。
母を恨んで、父を恨んで、世界を恨んでいたが、もうここまでになると笑うしかなかった。
今まで考えないようにはしてきたがもう無理だった。死にたくなった。
だけど世界は一変した。運動も勉強も努力も何も必要なかった。ある日突然何の前触れもなくすべてが変わった。
中学三年の三月。まだまだ寒く、コートが手放せない程寒かったある日。
周りの人は高校生という新しい生活が始まるのが楽しみで、不安で、今の友達と離れるのが寂しくて。なんて日々を過ごしているようだった。
私はと言うといつも通り一人で、親の立場もあるので近くの高校は受けたしもちろん受かったが、何の楽しみも悲しみもなかった。
確かに今の学校の人たちの何人かとは離れられる嬉しさはあるが、そんな事どうでもよかった。どうせ何一つ変わらないのだから。私の名前が『美人』と言うのは変わらない。だったらどこへ行っても同じだ。卒業したら家を出て、遠く離れたどこかへ行って適当に野垂れ死にでもしようかなんてぼーっと考えていた。それでもかまわないなと。
一つ心残りがあるとするなら両親を悲しませてしまう事だ。
私は両親を憎んではいたが嫌いではなかった。私が学校でどんなことをされているか何も気づいてくれていない事は悲しかったし、そもそもの原因となるこんな名前を付けたことについては恨んでいたのは確かだけど、それでも私は両親の事は好きだった。母のご飯は美味しいし、父も休みの日には遊びに連れて行ってくれたり。何より日々の生活の中で、私の事を愛していてくれるのがひしひしと伝わってくるから。
だから私は今まで死のうとは考えなかったんだと思う。
けれどもう限界だった。中学三年まで頑張ったんだ。だからもういいや、そうしよう。もうこの世界とはお別れしよう。
そう考えると楽になった。重かった足取りも少しだけ軽くなった。
だけど、学校に着くとその気分はまた落ち込んだ。下駄箱に手紙が入っていたのだ。
ああ、またか、と思った。
最近はもうこの手の嫌がらせには飽きたのか少なくなっていたが、昔はよくあった。
罰ゲームとして私に告白をするのだ。初めての時は本気にした。ただ単純に嬉しかったし、何よりこれで見返せると思ったからだ。だがそうではなかった。私が告白の返事をしたところで陰から他の男女が出てきて
「本気にした?もしかして本気にしちゃった?」「あんたにそんなミラクル起きるわけないじゃない」
なんて罵声を浴びせられた。
それからはそういう事が何回もあった。もはや私が告白を受けようが、断ろうがどっちでもいいらしい。断ったら断ったで
「なになに、この程度の男いつでもものに出来るから断ったのかなぁー?流石だねー。美人な人はいう事が違うねー。私だったらこんなイケメンに告白されたらすぐにOKしちゃうけどなー」
「本当に残念だわー、俺、こんな美人と付き合いたかったのになー。ホント残念だー」
なんて言いたい放題だった。だから今回もそれだろうと思った。
手紙を開くとそこには『放課後体育館横の倉庫裏で待ってます』と、可愛らしい文字で書いてあった。せめて男が書いているのならまだしもこんな可愛らしく書いてある手紙なんて嫌がらせ以外の何でもない。
かといって行かなかったら行かなかったで数日は面倒くさい事になった事があるので、行かないわけにはいかなかった。その場で笑いものになるのならそれ一回で済むのだから。
授業中はただ無心に過ごしていた。放課後に嫌な事が起きるのがわかっているから、出来るだけ考えないようにしたかったからだ。
今日は放課後に嫌がらせを仕込んでいるからなのかいつもよりは楽だった。仲間内で集まって明らかに私の方を見ながらくすくすと笑う、それぐらいなものだった。
あっという間に放課後になってしまった。私はせめてもの抵抗のために、意味もなく図書館で少し時間をつぶしていた。グラウンドからは部活動をしている人の声が聞こえる。ちらほらと雪が舞い散る中ご苦労な事だ。
私は重い腰を上げ図書室を出た。この時間になるともう部活動の人以外はほとんどいない。
体育館横の倉庫は校門からも遠いし、部活の始まりと終わりぐらいしか使われることもないので誰も来ないと言えば来ないのだが、少しでも他の人に私のみじめな姿を見られないようこの時間まで待っていた。ダンダンとボールの音が響く体育館を通り過ぎ倉庫まで来た。
誰もいなければいいなと思いながらも、私は一度深呼吸をしてから裏へと回った。
残念ながら誰もいないなんてことはなかった。
そこにいたのは鼻の先を真っ赤にし、両手に息を吐きながら少し震えている男の子だった。
いつもの見知った男のうちの誰でもない事に少し安堵するとともに愕然とした。ついに下級生にまでこんなことをされるようになったのかと。
気が弱そうな男の子である。何か弱みでも握られてこの役をさせられているのか、顔を真っ赤にして震えているのは脅された事におびえているからか、したくもない事そしないといけなくて恥ずかしいからだろうか。
この子には悪いことをしたと思う。ただのあいつらの娯楽のための道具として使われるはめになっているのだから。
けれど私のすべきことは決まっている。無理やりやらされている彼には申し訳ないが、何をいわれても断って他の奴らが出てきても出来るだけ無視して帰る。これが私の経験上一番楽で、一番正しいやり方だ。
私は心にも思っていないが「遅くなってごめんなさいね」と声をかけてから彼に近づいた。
「い、いえ。あんな手紙で来て下さるだけでも嬉しいです」
彼は震える声でそういった。
ここまで台本通りだろうか、好きな女でもない相手に告白するなんて可愛そうなので止めてあげたいところだけど、下手に止めるよりもすぐに終わらせた方がお互いに傷が少ないはずだから、私はそのままこの茶番を続けた。
「それで、ここに呼び出して何の用かしら」
「えっと、その、用事の前に一つ質問なんですが。僕の事知っていますか?」
思いもよらない質問だった。
私は今まで出来るだけ人と交流しないようにしていた。とは言うものの、さすがに同じ学年であればだいたいの人の顔ぐらいはわかるつもりでいるが、彼は知らない。それに見るからに幼い姿はおそらく一年、もしくはそう見える二年。少なくとも三年ではない彼を知っているはずがなかった
「ごめんなさい。わからないわ」
私の解答に彼は一度悲しそうに目を伏せたのち私の顔を、目を見ながら言葉を紡いだ
「そ、そうですよね、わからないですよね。変な質問をしてしまってすいません。僕は一年の萩村勇気です」
名乗られた。どうやら今回は手が込んでいるらしい。私をすぐに返さないためかすぐに告白をしてこない。
いつもと違うパターンに少しびっくりはしたが最終的には同じだろう。
内容はこうだ。入学した時に一目惚れしました。先輩がこの三月で卒業してしまうので、それまでに僕の気持ちを伝えたかったのでこうして呼び出しました。と。
そこまでいけば後はいつもの通り。断れば
「可哀そうな一年生だねー。頑張ってー告白してくれたのに振るんだぁーひどぉい」とか。
OKしたらしたで
「なになに、本気にしちゃった、あんたなんかに一目惚れする人がいるとでも思ってんのぉ。あんたが美人なのは名前だけだってわかってんのぉ?」
なんてどこかから出てきて言うにきまっている。
「あ、あの。松ヶ崎先輩。ぼ、僕」
そんなに顔を真っ赤にしちゃってまあ。
「僕、そんなに男らしくもないですし、スポーツもそんなに得意じゃないです。勉強は少しはできますけど、それほど賢くないです。そ、そんな僕です。まだまだ時間は掛かるかもしれませんが先輩に釣り合うように精一杯努力します。なので、その。…先輩の事が好きです。僕と付き合って下さい」
ほら概ね予想通り。今までの時間を掛けずに『好きです付き合ってください』の一言だけとは違って少し余計な言葉で飾ってあったけれど、言ってる事は同じだ。だから私も今まで通り返事した。
「ごめんね、私誰とも付き合うないんだ。だからね…」
私は言うだけ言ってすぐに帰るつもりだった。ただ、彼のあまりにも悲しそうな顔が、今にも泣きだしそうな顔が、私の帰ろうとする足を止めた。
「そ、そうですか…そうです、よね。僕なんかが先輩みたいな綺麗な人と付き合えるなんて、そ、そんな事ないですよね。でも…ありがとうございます。本当は来てもらえないかと思ってたんですよ。僕、書く字が女の子見みたいだし、悪戯だなんて思われるんじゃないかなって」
半べそをかきながら続ける彼をよそに私の頭は一時停止をしていた。
「それに、ちゃんと返事してもらえて嬉しいです。その、先輩は覚えていないみたいですけれど、僕入学したての頃先輩に助けてもらった事があるんです。第二美術室がどこにあるのかわからなくて困っていたら先輩が声をかけてくれて、道を教えてくれて。僕本当に嬉しくて。一目惚れでした。残念でしたけど、先輩が卒業する前にちゃんと自分の気持ちを伝えられて、勇気をもって告白してよかったです…」
言い終わると我慢の限界だったのか、たまっていた涙が流れ彼の頬を濡らしていった。
私の頭はやっと機能したようで、思わず彼の手を握った。彼の冷たく凍えきった手が一瞬で熱を持ったように感じた。
「え、せせせせせ先輩」
「ごめん、私がなんだって」
「え?えっと、先輩に助けてもらったって」
「そうじゃなくてもうちょっと前」
「来てもらえないかなって」
「もっと前」
「えっと…その…先輩が綺麗…だって…」
そんなこと言われたのは初めてだった。いや、今まで嫌味で言われたことはたくさんあったけれど、こんな、こんな風に顔を真っ赤にしながら今にも涙をこぼしそうなのを我慢しながら言われたことなんて、今まで一度たりともなかった。
思わず私は彼にお礼を言っていた。
「私の事綺麗だなんて言ってくれてありがとう」
いつの間にか私も泣きそうになっていた。
「そ、そんな。僕は本当の事を言っただけです。先輩綺麗ですし、その、美人だと思いますし…えっと、そのあの。あ、あり、ありがとうございました」
彼は私が握ったままだった手を振りほどくようにして離すと、涙を流していたはずの顔を、驚いたような恥ずかしいような嬉しようなそんな表情で、顔を真っ赤にしながら走って行ってしまった。
もちろんだがその後誰かがからかいに出てくるなんて事はなかった。
今になってようやく気が付いた。彼は本気で私の事を好きだと言ってくれたのだと。
本気で好きだと言ってくれて、本心で綺麗だと、美人だと言ってくれたのだと。私は嬉しかった。ただ嬉しかった。嬉しくて泣いた。いくら他に人がいないとはいえ不細工に顔をくしゃくしゃにしながら声を上げてわんわん泣いた。
その日から私は、両親を、世界を憎まなくなった。