ー天使・K・御使ー
大空を自由に飛ぶ鳥たちを見てうらやましいなと思った人は数多くいると思う。
思うだけならもちろんだが、その思いを胸に、実際に空を飛ぼうと挑戦した人たちがいる。
『ライト兄弟』なんかはみんなでもよく知っている名前だと思う。
当時はおそらくすごい反応だっただろう、まさか人が空を飛ぶなんて、と。
そんな人たちに今のこの世界を見てもらいたい。まさか本当に人間が空を飛ぶなんて…と思うだろう。
飛行機や、ヘリコプター、気球なんかはもちろんウイングスーツも使わない、ジェットエンジンなんてもってのほか、飛行石なんて必要ないし、翼なんて生えていなかったとしても。
そんな事が当たり前に起こる世界。だけどそれってかなり歪で間違った世界だと私は思う。
「じゃあ、今日はここまで。みんな気をつけて帰るように。委員長…っと、そういえばまだ委員長決まってなかったな。とりあえず一之瀬、号令頼む。」
大塚先生の合図でこのクラスで名簿番号が一番早い一之瀬が、はっきりした声で起立、礼、と号令をかける。礼が終わるとざわつきだす教室。
その後退室する先生。部活のためにすぐに教室を出る人、教室で仲のいい人同士で集まり駄弁る人、何もすることがないから真っ直ぐ家に帰る人。いつもの日常、いつもと同じ空気。一つだけ違うとするなら、俺は部活に入っているわけでもないから真っ直ぐ帰るところなんだが、
「うわあぁぁぁぁん。わからないよぅ。助けて元気君」
と、半べそになりながらすがってくる彼女、天使・K・御使が宿題を忘れたペナルティとして今日中にやってから帰る事、と渡された課題の手伝いをするはめになり、こうして帰らず教室に残っている。
「そもそも宿題忘れてくるのがいけないんだろうよ」
「いやーそれはその通りなんだけどね、昨日はほら、元気くんが寝かせてくれなかったから…ね」
ね、のあとに可愛らしくウインク。まるで天使。だが言っていい事と悪いことがある
「おーし、俺帰るな」
鞄を肩に掛け帰ろうとすると必死になって止めてくる。
「わあぁぁ。ごめん冗談冗談、帰んないで。一人じゃ絶対無理だから」
俺はため息をつきながらあげかけた腰をまた下ろした。やれやれ。
「いくら放課後とはいえまだまだ人がいる教室でのろけ話、しかも結構ディープな話するのはどうかと思うな」
「わぁ、飛鳥ちゃん、後ろから急に来られるとビックリするよ」
御使を後ろから抱きしめるような形で俺たちをからかいに来たのは同じクラスの星空飛鳥。
一年の時から同じクラスで天使と仲良くなり、その天使と仲のいい俺ともわりとすぐに仲良くなった。事あるごとに俺と天使とをからかってくるのはかんべんだが。
「あれ、飛鳥ちゃん帰ったんじゃなかったっけ」
「ん、ああ、校門までは行ったんだけど、どこかでラブラブカップルのいちゃいちゃ話が聞こえて来たからな、急いで戻ってきたんよ」
「やだもう、ラブラブカップルだなんて、えへへへ」
星空の言葉に顔を真っ赤にしながらにやけている。可愛い。マジ天使。
「早く課題終わらせないと俺が帰れねえから邪魔しないでくれないか」
「ああ、ごめんごめん可愛い彼女一人占めしたらまずかったね」
「別に彼女じゃねぇけど」…今はまだ。
「あらあら、なら彼女じゃないクラスメイト相手に昨日の夜は何をしてたのかしらぁ。A、それともB?まさか…」
こいつ、絶対わかってて聞いてるな。
「宿題だよ宿題。強いて言うなら『S』だよ。せっかく時間かけて教えてやって、何とか終わらしたのにその宿題を忘れてきやがったから今、またこうして課題手伝わされるはめになったんだよ」
「うっわぁ。ごめーん私の勘違いだったのかぁ。いやーこれは恥ずかしいなぁ」
こいつ、心にもないことを。棒読みが過ぎるっての。
「うわっと、あんたらからかってたらもうこんな時間やん」
教室の時計を見てから星空は焦ったように言った。
からかってた自覚はあるんだな。
「そういえば、今日は珍しく早く教室出てたもんな。なんかあるのか」
「そうそう、店の手伝いがね。今日は店番しなあかんくて。それじゃあお先」
と言い残すと自分の机から何かのプリントを引っこ抜いて、3階の教室の窓から勢いよく飛び降りた。さっきから右手で靴を持っていたのはそういう事か。
ともかく、これでようやく邪魔もなく課題に取り組めると思ったら、まだ一人の世界に旅立ったままのやつがいた。
俺は今だに顔を赤くにやにやしているバカのほっぺを思いっきり引っ張って現実に戻してやった。
「痛い、痛いよ元気くん。乙女の顔に傷をつけるなんてさ」
「どこが乙女なんですかー。ずっと『うへへへ』なんて言ってるやつ乙女でもなんでもないだろ」
「あーそういうこと言う。…そういえば飛鳥ちゃんは?」
「ああ、おまえが『うははは』って言ってる間にそこの窓から飛び降りて行った」
「うはははじゃないもん、うへへへだもん。って、そうじゃなくて帰っちゃったんだ飛鳥ちゃん」
「なんか家の手伝いがあるとかなんか言ってな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、今日お店に行ったら飛鳥ちゃんが接客してくれるね。帰りに寄って行こうかな」
「今日中に課題が終わればな」
「終わるよ!終わるよ多分。…終わるよねぇ」
諦めるの早すぎるだろ。
「終わらせるためにこうして手伝ってやってるんだからほら、さっさと手を動かせよ」
ちらほらと教室に残っていたクラスメイトが帰り、教室には俺と天使の二人、遠くで運動部の声がするのと、天使がプリントにシャーペンを走らせる音が聞こえる。昨日の宿題とほとんど同じ内容だからか、質問も少なくなってきて少し退屈だったせいか、ふぁぁとあくびが出た。
「あ、やっぱり元気君も眠たいんだね。私授業中も眠くて眠くて、元気君そんな風に見えなかったからすごいなーって思ってたんだ」
課題を進める手を止めてにっこりとほほ笑みを向けながら言ってくる。可愛い。まじ天使。
「まあ、名前の通り元気な事だけが取り柄だからさ」
「うん、…そうだね」
そう言ってまたプリントの方に視線をやり、問題を解きはじめる。
「…ねぇ、元気君はもっと違う名前がよかった?」
先ほどとはうって変ってプリントの方を向きながら、およそ笑顔ではない声色でもっともな質問をしてきた。
「それは…まぁ、もっと違う名前だったらなぁと思う事もあるよ。そんなことないってどれだけ口で言ってもやっぱりうらやましいし」
返事はない。先ほどまでと同じ様に運動部の声と彼女がシャーペンを走らせる音だけが聞こえる。
天使がこの手の質問をしてくるのは珍しい。普段天使はそういう話題に自分からかかわらないようにしているから。
まあ、そうしておくのが一番安全なんだろうし、わざわざ首を突っ込む話題でもないと思うし。
俺はおそらく今の質問の原因の1つであろう教室の窓を見ながら沈黙の時を過ごした。
「よし、終わった!ごめんねずっと待ってもらってて。お詫びに帰りに何かおごってあげる」
帰りの支度をしながら天使は申し訳なさそうに提案してきた。
「別にいいよこれぐらい。他にやることもないし」
「でもそれじゃあ、私の気がすまないの。せっかく教えてもらって終わらした宿題忘れちゃったわけだし」
俺は落ち込んでいる天使の頭をポンと叩いた。
「それじゃあコンビニの期間限定桜餡まん奢ってくれ」
先ほどまでの落ち込みが嘘かのような笑顔で敬礼をしながら言った。
「了解でーす!」
天使が職員室の先生に課題のプリントを渡しに行っている間に、一足先に靴を履き替え校門の前で待っていた。
思っていたよりも長い間学校にいたようで、外は日が陰り始めていた。
後ろから音がしたので振り返りながら呼びかけた。
「えらく遅かったな天使」
だがそこにいたのは天使ではなかった。
「あら、ごめんなさいね。残念ながら私は天使さんじゃないわ」
そこにいたのはどこか儚げで、長い黒い髪を風になびかせたたずむ様に見えた女がいた。
「あ、いや、申し訳ない」
「なるほど、そういう事ね。いいんですよ別に、まさかこんな中途半端な時間に他の生徒が帰るなんて思ってもみなかったんでしょう」
その通りです。図星です。
「確かにこんな時間に帰る人は少ないかもしれないけれど、生徒も先生もまだ学校にいるのだから、気をつけた方がいいとは思うけど戸隠元気さん」
「何で俺の名前を…」
「あら、あなた自分がこの学園でどれだけ有名なのか知らないとは言わせないわ。何の役にも立たない名前として有名ではないですか、あなたの彼女さんと共に」
…彼女じゃないんだけどな。
「ああ、勘違いしないでくださいね。他の人は知りませんが私は別にバカにしているつもりはないんです。ただこんな世界になったのに、親御さんがよくそんな名前を付けたなと思っているだけです」
いやいやいや、それでも十分バカにしてるんじゃないのか。
「まぁ似たような境遇同士、仲良く恋人ごっこでもしていればいいんじゃないですか。可愛らしい彼女でよかったですね」
言いたい放題言ってくれちゃってまあ。
「まあ俺、あんたの名前は知らないけどさ、えーと、確か3組の松ヶ崎だっけか。あんたがどれだけ大層な名前かは知らないけどさ、別に境遇が似てるから天使と仲がいいわけじゃないし、名前だけですべてが決まるってわけじゃないんだからさ」
すると彼女は押っ被せるように、今までの落ち着いた話し方とは打って変って怒鳴るように続けた。
「いいえ、違います!今のこの世の中は名前がすべてです。名前一つで何にでもなれるんです。あなたや、天使さんのような何の意味も持たない名前の人にはわからないでしょうけどねぇ!」
言い切ると彼女は一呼吸したのちおもむろに近づいてきて、俺の耳元で「ごめんなさい、少し言い過ぎました」と言うだけ言ってそのまま校門から出て行った。
唖然として彼女の小さくなる背中を見ていると後ろから目をふさがれた。
「だーれだ!」
小さくて柔らかい手が俺の神経のすべてを持って行った。やる事なすこと可愛い。ほんとうに天使。
「んー誰だろう。わからないのですが、誰かわからない人に後ろから目をふさがれているのは怖いのでやめて頂けませんか」
もちろん声で丸わかりなのだが、待たせた罰として少しからかってみることにした
「え!あの、その、私!私だよ?」
「すみません私と言われましてもちょっと想像つかないので…本当に迷惑なので辞めて頂けませんか」
「な、なんで敬語なの。本当はわかってるんだよね。ね?」
やばい、ちょっとからかい過ぎたみたいで涙声になってる。
「冗談冗談、天使だろ」
答えを言うともちろんだが正解だったので、ふさがれていた手が離れた。振り返ると目に涙を蓄えながら顔を膨らませている天使がいた。
「もーばかばかばか。あんな言い方されたから本当に誰かわかってもらえてないのか心配になったんだよ!」
「ごめんごめんって。帰って来るの遅かったから暇だったんだよ」
「確かに遅くなったのは謝るけどさ、やっていい事と悪い事があるんだよ!」
尚も顔を真っ赤にさせながら怒ってる。そんな顔も可愛い天使のよう。
「ところでさ」
俺は話題を変えるために違う話を振った
「さっきの話聞いてた」
「さっきっていつ?」
思ってもみなかった質問だったからか頭に?マークをうかべながら返事をしてくる。
「いや、わからないんだったらいい」
最後の方なんて結構大きい声だったから松ヶ崎との話を聞かれていたのではないか心配だったけど、これだけあほ面出来るんだったら問題はないだろう。俺にとっても、天使にとってもあまり楽しい話ではなかったから聞いていないのだったらそれでいい。
「何の話か分からないけどさ、早く行こっ。私小腹がすいてきちゃった」
「そうだな、俺も小腹がすいてきたし、早く桜餡まん奢ってもらわないといけないしな」
「そうだよ」
二人で微笑みながら並んで桜並木を歩く。ほら、やっぱり名前なんて関係ない。
今だってこんなに幸せなんだから。
約束通り桜餡まんを奢ってもらった後、天使は飛鳥ちゃんのお店に行ってくると言って家とは反対方向にある商店街へ向かって行った。
星空の家は近所でも評判の焼き鳥屋で、最近は雑誌なんかにも載って大忙しらしい。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのお店と言えるだろう。そのため、最近じゃあ星空もよく手伝っているみたいだ。
俺もよくお世話になっているお店でもある。あの店のねぎまは最高に美味しい。
家の前に着いた時に不意に声を掛けられた。
「やあ、元気君お帰り」
「あ、ただいまっす」
俺の家と天使の家は隣合っている。俺が転校してきた形だからそれほど幼いころからの付き合いというわけではないが、とてもよくしてもらっている。
「今から出かけるんですか」
「あぁ、教会に忘れ物をしてしまってね」
教会と言うのはここから少し離れたところにある。天使の父親はそこや、他の結婚式場に行って仕事をしているらしい。確か牧師だったっけ。
「それじゃあ」と言うと天使の親父さんは颯爽と去って行った。
二メートルを越す大柄な体型なのに威圧感を感じさせないその空気感は職業も相まってなのか。
完全にそれを受け継いだ天使は小柄なのもあり、ただの小動物って感じだけどな。
さて、俺もさっさと家に入るか。
「ただいま」
と玄関を開けながら言うと奥からお帰りの声が聞こえる。
玄関のすぐ近くにある階段を上って自分の部屋へ。鞄を投げてベッドにダイブする。部屋にはベッドと勉強机、本棚くらいしかないシンプルな部屋だがそれぐらいが一番落ち着く。
部屋には窓が二つ。一つは家の玄関の方角、もう一つは机の横に小さな窓がある。その窓はこの家をどういうつもりで作ったのか不思議に思うが、隣の家との間にあり、向こうも窓を開ければ顔を合わせる事ができる。その気になれば相手の部屋に入れるくらいに近い。
ちょうどその窓がある部屋が天使の部屋で、よく顔を合わせて話をしたりもする。
「すぐご飯出来るから降りて来てねー」
下から叔母さんの声がする。
俺は「はーい」と返事をすると制から部屋着へ着替え始めた。
優しい叔父さん叔母さんに好きな人、事ある毎にからかってくる奴もいるけど、友達と楽しい高校生活。
そんな穏やかな日常が終わろうとしているとはこの時は微塵たりとも感じていなかった。