~意図~
ドラゴンはアイオンの発動した魔術を恐れていた。闇色の気を纏う姿は恐怖の体現であり、征伐戦の参加者は口々になぜ魔族が、と疑問の声を上げていた。静まり返り、殺気だけが満ちる空間の中を、誰しも動くことが出来ずにいた。
「破滅の使者とか言ったな。確かにそんな姿をしてる」
「魔族として堕ちてしまうとは、なんということだ。これも運命だというの?」
「……ヴィンタスだったか。お前の正体が掴めてきたぞ。お前、神族だろう」
頭を抱えたヴィンタスが、バグラへ伏せていた顔を上げる。
「神族の存在を知っているとは、博識だな。人は見立てによらない」
「ボクは魔族だし、見立てじゃなく見かけ、だろう。こんなところでボケたこと言ってんじゃないよ」
「すまない。人の言葉は慣れないものね」
ヨハンは目を丸くして事態を呑み込めず、バグラは今までの言葉の誤りや妙な口調に納得した様子だ。
「状況が状況だ。簡潔に言えよ? なにをしに、わざわざ地上に来たんだい」
「運命の女神と人の子に呼ばれる存在が、彼こそ世に混沌をもたらしたギルヴァネアを葬ると告げたんだ。ただ、呪われし王子の道には死がいくつも待ち構えている。彼の運命を閉ざさないためにも、助力が必要だったのよ。だから俺がきた」
「お前一人でか」
「魔族の王が深領域からこの世界に侵入したとき、魔族はどれだけいたと思う? 我々は同じ世界にいながら、干渉しあわない領域にいる。我ら神族は神領域、人の住む新領域。領域の移動は我らでも容易ではない。俺一人が外からの助力を得て領域を越えるのに、数年かかったのだ。数が増えれば何十年、何百年とかかるだろう。それでは遅すぎる」
「キキキ、だからといって、お前一人でどうする気だったんだい」
「彼を陰から誘導するつもりだった。何度か干渉もして様子を窺っていたのだが、こんなことになるなんて」
闇色を纏うアイオンを眺め、ヴィンタスは項垂れた。
アイオンの姿を魔族として捉えた傭兵達は誰一人、彼に挑もうとはしなかった。ドラゴンを前にして、彼らが恐れているのはアイオンであったからだ。その場にいる全てが感じ取っている。今のアイオンは、なによりも危険な存在である、と。
一歩前に出るだけ、一つの動作だけで傭兵達は後ずさった。ドラゴンもまた同様だ。アイオンは攻めてこぬと判断するやと、一気に前に出てドラゴンに襲いかかった。ドラゴンは炎で対処しようと試みるも、アイオンは意に反さない。
炎がドラゴンの口から漏れたのを見るや、アイオンは身を低くしてなお速度を落とさない。屍を踏み締め、足に力を込めて前に飛び出た。
『覚醒』を発動しているアイオンの速度は人の範疇になく、加速し続けるアイオンを捉えきれず、ドラゴンの炎が誰もいない道を焼いた。なおも狙う炎がアイオンの背を追うが、火の粉が僅かに届くばかりで、息が続かずにドラゴンの炎が弱まる。
その隙に懐まで踏み込んだアイオンの凶刃がドラゴンの前足を斬り払う。反応こそしたがドラゴンは避けきれずに剣が振り切られるが、ドラゴンの足には外傷がない。血も出ず、斬られたドラゴン自身がが不思議そうな眼を自分の足に向けている。
強靭な鱗に弾かれた、皮膚の上を刃が滑った。見ていたもの達はそう口にした。しかし、平然としていたはずのドラゴンは、突如として目を見開くと、もがき苦しみながら叫んだ。
ドラゴンの右前足からは血の一滴も流れていない。しかし、時間が経つにつれ、青白い火傷のような傷痕が浮かび上がってきた。ドラゴンは右前足を痙攣させ、呻くような鳴き声をあげる。
なにが起きたのか、その場にいる誰しもが理解できていなかった。唯一、バグラを除いて。
「魔術の同時使用に、あの魔術……!」
「い、一体彼はなにをしたのだね?」
ヨハンが困惑した様子で問うと、バグラは目を細めて目を伏せる。
「肉体に攻撃する魔術じゃない。あの『冒涜』って魔術は、魂に直接攻撃する魔術なのさ」
「ええと、魂に?」
「意味が分からなそうな面じゃないか。全く、人間ってのは知識があるのかないのか。分かりやすく言ってやろうか? 胸を殴られているが、痛みは心臓に伝わる。外の傷が内に付く、そう言えば少しは想像できるだろう?
……もっとも、魂という存在を汚せるってことは、例えたことより質が悪いがね。脆弱な魂は一つの傷でも致命傷だ。治癒も難しい。神であれ、魔王すら殺せる力をあいつは得たんだよ」
想像がついたのか、ヨハンは顔色を青くし息をのんだ。ヴィンタスは神であれ、とバグラが述べた際、悔しそうに拳を握り、アイオンへと目を向けた。
「神すら殺す術、その代価が魔力だけのはずはない」
ヴィンタスは剣を振るってアイオンの元へ走ろうとするも、バグラがそれを手で制した。焦る眼でバグラを睨むが、バグラは首を横に振り、ただ一言、死ぬぞと告げた。
アイオンの剣が再び鈍く輝く。しかし、今度はその剣がドラゴンの足を切る前に、ドラゴンが翼を広げて空へと飛び立て難を逃れる。甲高い声を上げて、ドラゴンはそのまま大空の向こうへと飛び去っていった。逃亡したのだと時間を置いてその場の全員が理解する。
誇り高いドラゴンが、アイオンを恐れて逃げた。この出来事を目撃した傭兵達は、畏怖を抱いてアイオンを眺める。ただ、魔族であるアイオンを賛美するわけにもいかず、その場の人間たちはどうしようもない困惑の渦中にいた。
焦ったのはバグラだった。ドラゴンという脅威があったからこそ今まで傍観できたのであって、それがなくなった今、アイオンの目が向くのは戸惑う傭兵達、あるいは己自身だ。
静まり返った旧王都の中で、アイオンが魔術を解除して踵を返した。一斉に道を空けた傭兵らを横目に、アイオンは剣を手にしたまま門へと歩いていく。一触即発の空気の中で、しかしアイオンは無差別に人を襲うことはなく、その様子に安堵したバグラはその後に続き、ヨハンとヴィンタスもそれに付き従った。
「さっきの話だけど」
「なんだ?」
「半端ものの道は逸れたのだろう? だが、可能性があるからお前はまだ諦めていない」
「そうだ」
「お前はその可能性を――歪んだ道を正すためにあいつの仲間を連れて来い。きっとそれがお前の望むことに繋がるだろうよ」
「魔族の言うことなど信用できんな」
「信じろ、とは言わないよ。ただ、お前も見てきたんだろ。あいつのことを想ってるやつらの方が、あいつを人に戻せる力があるんじゃないの?」
ヴィンタスは言葉に詰まり悩んだが、歩きながらその言に頷いた。
「様子を見ていたなら、あいつの仲間がどこにいるか分かるな?」
「トーリア村だ。心配は必要ないわ」
「……女口調になるのやめないか?」
パンデノンの外に出ると、アイオンは未だ外で揉めている傭兵らに目を止めた。中でなにが起きたかなど露知らず、互いに罵倒しあって熱を上げていく。彼らがアイオンの道を遮ったとき、冷徹な瞳が彼らを射抜いた。剣が僅かに動こうとした瞬間、アイオンの背後から現れたバグラが傭兵を蹴り飛ばしてその気を削いだ。突然の介入に、アイオンは上げていた剣先を下ろす。
「キキキ、いつまでくだらない論争してんのさ。ドラゴンなんてとっくに追い払われてるよ。このアイオンってお方になあ」
ざわめきが起きる。しかし直後にバグラに追いついたヨハンが本当だと叫ぶと、傭兵達は勝鬨を上げた。知らぬこととはいえ、パンデノンの惨状やアイオンの正体を知らないもの達の歓喜は、それを知るもの達にとっては滑稽に見えた。ヨハンはぎこちなく笑い、バグラはその様子を鼻で笑う。
騒ぐ傭兵の中を、アイオンは剣を納めて歩みだした。バグラはヨハンとヴィンタスに目を向けると、ヨハンらはバグラの言わんとしたことを理解したのか頷く。
アイオンの現状を、彼の仲間に知らせる。そう取り決めた約束を守るため、ヨハンはまず傭兵らを纏めて騒ぎの沈静化を、ヴィンタスは何度かアイオンの方を振り返りながらも、一足先にトーリア村を目指して移動を始めた。
バグラはといえば、アイオンの後をついて回る。ついてくる彼女が気になっているアイオンは、何度か視線をバグラに移した。
「着いてくる気?」
「ああ、お前の道行きに興味がある」
「駄目だと言ったら?」
「無理矢理にでも」
アイオンが殺気を放った。手は剣にかかり、バグラに鋭い視線を送っているものの、バグラは動じない。冷静に真っ直ぐアイオンを見つめる彼女の様子に、アイオンは剣から手を引き殺意を向けるのを止めた。
「バグラ、僕は君を殺してしまうかもしれない。それでもいいの?」
「ああ」
「理不尽に命を奪われるかもしれない」
「覚悟の上さ。一々訊くな」
「……ありがとう」
背を向けながら、アイオンは礼を述べた。その言葉と姿を眺めながら、バグラは驚いたように目を見開いた。確かめるように自分の口元を指でなぞって、また驚いていた。
「なんで笑ってるんだ、ボクは。気持ち悪い」
自分に悪態を吐きながら、笑みを浮かべる彼女はアイオンの背を追った。
一方で、ヴィンタスは草原を駆けていた。彼の仲間に会うために。だが先ほどに比べれば落ち着いた彼は、時折振り向きパンデノンを眺めながら思い耽っていた。
「しかし、ドラゴンはなぜパンデノンにいたのだろうか。城に住んでいるという話だったが、街中に住み着いていたように見えた。いやいや、違う、むしろ住んでいるというよりは、ただ飛来しただけのようにも思えた。なにかにおびき寄せられたのか? ドラゴンが? まさか。しかし、アイオンが挑みたいと思うような敵だった。因縁ある相手と、まるで戦わせたいかのような巡り合せだ。今までも、行く先々で魔族と――」
ヴィンタスは眉根を顰めた。駆ける足が止まり、ゆっくりと振り向く。シアンデルカ城は未だ聳え立つ山のような威厳を放っている。
「これは偶然か? 出来すぎてはいないか。それとも」
誰かの意図か。言いかけて、ヴィンタスは口を噤んだ。再び草原を駆け始めた彼の背を、シアンデルカ城の窓辺から見つめるものがいたことなど、彼は気付かない。
「神に魔族、か。奇異な存在が味方する。アイオンは力に呑まれているようだが、正気と狂気、どちらを真なる己とするか」
朽ち果てたシアンデルカ城の窓辺から離れ、玉座に手を掛けた男は獅子の如き貫禄ある金髪と赤いマント靡かせ、玉座を睨みつけた。
「今少し、か」
城内にいた男――ダンカードは、噛み締めるように呟いた。彼の眼の先にあるものを、今は誰も知る由はない。




