~回り出した運命~
妙な人物が去ったあと、アイオンは不可思議なものを見たせいなのか、未練がましく何度も森を見返しながら帰宅した。
「遅かったな、アイオン。今日も剣術の稽古かい?」
「う、うん、もうお腹ペコペコだよ」
父であるダインは笑い、そして居間の中心にある少々無骨なテーブルに着くように促した。アイオンは丸い切り株状の椅子に腰かける。すると奥から、母アメリアが、木製の器を持ってきて、それをテーブルに置いた。
芋と豆、そして鳥とおぼしき肉が入っており、いい香りが部屋一杯に広がる。アイオンは料理を見て悶々とした思いが吹き飛んだのか、笑顔で食事を始める。
アメリアはアイオンの隣に座り、ダインはその向かいに座る。談笑しながらの食事という、家族だんらんの一時を過ごした。
「ダンカード様の言う通り、過度な練習は体を壊すぞ、アイオン。ウェイド君にも注意してあげなさい」
「はい、父さん」
アメリアは二人の会話を楽しげに聴いていたが、少しばかり苦しげな表情になると、突然咳き込んだ。それを見て、ダインとアイオンが不安そうな顔になる。
「母さん、また苦しいの?」
「平気よ、私は何ともないわアイオン。ただ、ちょっとむせただけ。ほら、あなたまでそんな顔しないで」
「大事ないなら、良かったよ。アメリアは体が弱いからなあ、俺は心配で心配で……」
「あなたったら、心配しすぎです! でも、ありがとう」
「愛してるよアメリア」
「私も愛してるわ」
テーブルの上で手を握りあい、見つめ合うアメリアとダイン。それを見つめるアイオンは、苦笑する。愛の言葉を重ね合う、親の熱々な様子を見せられたからだ。何となく居心地が悪そうで、足を細かく動かして、席から立つかその場から動かぬべきかを悩んでいる。
「あら、いけないわ。アイオン、ごめんね。もちろんアイオンも愛しているわ」
アメリアがアイオンを優しく抱き締める。アメリアの白金の長髪がアイオンに触れ、アイオンは少し照れ臭そうに顔を赤くするが、アメリアを抱き締め返した。
ダインは本当に微笑ましげに、温かい目と笑顔を二人に送る。
暖かい夜は更けて、森には獣の鳴き声が、村には静寂が訪れた。アイオンは自分のベッドの上で、窓から射し込む月明かりで手元を照らしながら一冊の本を読んでいた。
それは過去にいた、バフェル・ユーリソンという男の軌跡を描いた物語。バフェルは勇者として名高く、冒険者として世界を巡った男だ。彼の物語を読んで、アイオンは胸踊らせる。
アイオンは母であるアメリアから、文字や読み書きといったことを学んでいたため、書物も簡単な内容ならば理解することができた。
その書物の中でも、アイオンはバフェルの冒険譚に夢中になっていた。この半年ほど、少しずつ少しずつ読み続けたバフェルの本は、残り僅かな厚みしか残っていない。
物語は佳境に入っていた。
『おお、我は伝説に出会った。その生き物は魔族が造り出したが、しかしてその存在は魔族を霞めるほど尊大である。雄々しく、気高く、何より心を奮わせた。そして、我と対峙せしその生き物と互いの誇りをかけた戦いを始めた』
「格好いいなぁ、僕もいつか、この人みたいに……」
冒険がしたい、と言いかけたところで、アイオンは隣のベッドに寝ていたダインに叱られる。
「こら、アイオン。もう遅いんだから早く寝なさい 。夜更けには悪魔が出るからね、起きているところを見付かったら連れ去られてしまうぞ」
わざと脅かすように、声色を不気味な低さに変えて話すダイン。アイオンはその言葉に、ごめんなさい、と言って毛布に潜り込んだ。
必死に寝ようと目を瞑るアイオン。そんな彼のベッドに、アメリアが腰掛ける。
母に気付き、アイオンは毛布から頭を出した。その頭を、アメリアは優しく撫でる。そうすると少し落ち着いたのか、アイオンは少しずつ寝息を立てて眠り始めた。
「駄目よ、あなた。アイオンを怖がらせたら」
「すまんすまん。でも、躾の一環だよ」
アメリアは、開いたままのバフェルの冒険譚に視線を移す。
「やっぱり、貴方の子ね。きっといつか、この子は旅に出るわ」
「そうだな。いや、俺の子じゃなくてもいつかはそういうものに憧れるものさ。男の子だからな」
「……幸せね、私達は。こうして平和に、そして夢を持った、こんなに可愛い子供を授かった。でも、これはいつまで続くのかしら? 怖いの。幸せ過ぎて、私……」
「ずっと続くよ、アメリア。……大丈夫、君は俺が守るから。たとえ、その相手があのダンカードさんでも、神様だろうと、絶対に俺が守る。もちろん、アイオンも」
アイオンは、その父の真面目で優しい声を聴いて、微かに開けていた目を閉じた。
月明かりに照らされ、抱き合うダインとアメリア。アメリアはダインの肩に頭を乗せ、涙を流す。
「いつの日か、必ず誰かが気付くだろう。でも、終わらせない。この幸福を、この、俺達の日々は絶対に守るよ、アメリア」
幸せを願うダインとアメリア、そして傍らで眠るアイオン。三人の横で、バフェルの本を月の光が照らす。アイオンが開いたままにした本には、バフェルと伝説の生物との戦いが紡がれていた。その最後の文が、弱々しい輝きにより浮かび上がっている。
『おお、我が剣は彼の者には届かない。伝説と呼ぶにふさわしきその者に、勝てるはずもないのだ。あの生物は親である魔族にも従わず、高い知性と力を有している孤高の存在として、この世に君臨する。怪物と対峙し、そして我は理解した――人間は、ドラゴンには敵わない』
その文を照らしながら空に浮かぶ月には、雲一つ掛かっていない。遮るものなどない美しい金色の光の中に、突如として黒い影が重なった。
平和を崩す使者が、静かに、そして誰にも気付かれずに訪れた。