麗しい婚約者に婚約解消を告げられた私が、だめだめ研究者と幸せになるまで
「マリア。悪いけれど婚約を解消してほしい」
10歳の時からの婚約者、レオンハルト様がそう告げたのは私の18歳の誕生日の間近のことでした。
いつものように急な呼び出しに応じた私の顔もろくに見ず、レオンハルト様は少しも悪いと思っていなさそうな態度です。
「——わかりました」
私の返事に、レオンハルト様はルビーに例えられる美しい目を見開きました。そんなに驚くことでしょうか。私の愛が不変だとでも思っていたのでしょうか。
レオンハルト様の口が何度か開いたり閉じたりを繰り返します。何か言いたそうなレオンハルト様の言葉を待たず、私は応接室のソファから立ち上がってカーテシーをしました。
「ザイオニア卿、今までありがとうございました。あなたの今後に幸がありますことを願っております」
「まっ…………」
レオンハルト様が言いかけた言葉が何だったのか、私にはわかりませんでした。なぜなら、私はもう部屋を出てしまいましたから。
さようなら、愛しかったあの頃のレオンハルトさま。
ずっとずっとお慕いしていました。けれど、愛情というものは擦り切れるものなのですね。今後あなたが不幸になっても、幸せになっても、私にはもう関係も、興味もないことです。
婚約が解消となる時はきっととてもつらいだろうと思っていたのに、何も感じません。レオンハルト様がほかの女性と睦み合うのを見た時には、胸が張り裂けそうなほど痛かったのに。
◇
レオンハルト様のお家と私のお家は、公爵家と伯爵家という身分の差がありますが、領地が隣同士ということもあり幼い頃から交流がありました。幼馴染というものですね。本当によく一緒に遊びました。どちらかのお屋敷でかくれんぼをしたり、一緒に馬に乗ったり。
彼とは同い年ですから、互いの両親たちの私達を結びつけようという思惑もあったのだと思います。
思惑通り、私は彼を好きになりました。だって、格好良くて、私が失敗しても決して笑わない優しい男の子だったのです。そして、その頃は彼も私を特別な存在として見てくれていました。
彼が変わったのは2年前。私達が社交界へデビューしてからのことです。
きらびやかな王都の舞踏会。そこで大好きなレオンハルト様とダンスを踊るのは、幼いときからの夢でした。デビュタントのときに彼が顔を真っ赤にしながら綺麗だと小さな声で褒めてくれたこと、一緒に少しばかりぎこちないダンスを踊って笑い合ったことは、私がこれまで一番大事にしてきた思い出です。
けれど、そのきらきら輝く宝石のような素敵な思い出の後から、彼は少しずつ私への興味を失っていったようです。
彼はとても格好良いです。愛情を失った今でもそう思います。女の子が夢見るおとぎ話の素敵な王子様のような見た目なのです。その美貌に、由緒ある公爵家の身分付き。ご令嬢たちが放っておくわけがなかったのです。
「じゃあマリア。僕は次の約束があるから」
「そんな。もう少し踊らない?」
「わがまま言うなよ。公爵家には付き合いが色々あるんだから」
2人で参加したはずの舞踏会で、義務的に最初の1曲だけ私と踊ったあと、いつも彼はそう言って私をひとり残してほかの女性たちのところへ行くようになりました。私のことを、心底鬱陶しいという目で見るようになったのです。
しばらくの間、彼は多くの女性に囲まれて、その方々と代わる代わるダンスを楽しんでいました。私は壁の花としてぼんやりそれを見つめるか、それを必死で見ないようにほかの方々と歓談に励んでいました。
今は彼が社交デビューで舞い上がっているだけ。そのうち落ち着いて私のもとに戻ってきてくれると、その時の私は信じていたのです。……いえ、そう信じないと、心が耐えられなかったのです。
ある時、恐れていたことが起こりました。
彼がひとりの女性とばかり過ごすようになったのです。
その女性は、モニカ様とおっしゃいます。ソエティス侯爵家のご令嬢です。女神のような美しい方でした。美しい2人が寄り添ってくすくすと笑い合う姿は、悲しいくらいとてもお似合いでした。
社交に慣れた年上の友人たちが言うには、モニカ様はさまざまな男性との恋愛遊戯を楽しむお方だそうです。どうか早くレオンハルト様に飽きていただけますように——という私の祈りも虚しく、2人はどんどん仲を深めていきました。
レオンハルト様は私ととうとう1曲も踊らなくなり、モニカ様に付きっきりとなりました。体をぴたりとくっつけて、互いしか目に入らないというように見つめ合って踊る姿を、私はじくじくと痛む胸を押さえながら見ていることしかできませんでした。
そして——そして、ある日の舞踏会で、彼らはダンスに興じた後、寄り添って夜の庭に姿を消しました。
やめておけばよかったのに、私は衝動的にその背中をこっそりと追いかけました。
そして見てしまったのです。2人が木の陰に隠れて唇を重ねる姿を。
その後のことは、何も覚えていません。
気がついたらタウンハウスに戻っていて、部屋に日が差し込んでいて、私の目は真っ赤に腫れ上がっていました。
何日も泣いて、何日もその光景を夢で見て飛び起きて、次第に私は何も感じなくなりました。
だから、今日、婚約を解消しようとレオンハルト様に告げられても、私の心はもう何も感じませんでした。
小さい頃のレオンハルト様のことは大好きでした。
けれど、そのレオンハルト様はもういないのです。
私の大好きだったレオンハルト様はもう死んでしまったのです。
そう考えると、すっきりしました。
大好きだったあの人はもういないのだから、前に進むしかありません。
帰宅して両親に婚約解消のことを伝えると、悲しそうな、悔しそうな表情で、本当にいいのかと何度も私に確認してきました。
いいのです、と私があっさり答えると、両親は少し寂しそうに、次こそは優しく誠実な人を探すから、と言ってくれました。
お父様も、レオンハルト様のお父様も、レオンハルト様に何度も注意してくださっていたのを知っています。それでも彼はモニカ様に夢中なのですから、仕方のないことです。
お父様は優しく穏やかで誠実そうな男性を何人も見繕っては紹介してくれました。けれど、誰もぴんときません。
両親はゆっくりでいいからお前が好きになれる人を選びなさいと言ってくれますし、私も本心としては少しの間婚約や結婚という話から離れてのんびりしていたい気持ちがありますが、このままでは行き遅れて家族のお荷物になってしまいます。困ってしまいました。
「王宮の研究塔が今忙しくて人手が欲しいってお父様が言っていたわ。研究をなさっている方々は真面目な方が多いし、もし興味があるならいかがかしら?」
お茶会でそう提案してくれたのは友人のサミィです。
「お仕事をする人を探しているのでしょう? 結婚相手を探しに行くだなんて、良くないのではないかしら」
「あら。王宮で雑務をする貴族の娘の募集だなんて、その部署の人たちの結婚相手を募集しているのと同じよ。仕事が気に入ってしまって結婚しない方もいらっしゃるらしいけれど」
なるほど。いいかもしれません。
結婚せず働く道もある、というのは、婚約がなくなって開放感に満ちている今とても魅力的に思えました。
早速お父様にそのことを話すと、お前のしたいようにするといいよと優しい顔で承諾してサミィのお父様に連絡を取ってくれました。
◇
あっさりと働く許可が降りて、出仕初日を迎えました。
王宮に着くと、サミィのお父様が私を待ってくれていました。
「やあ、よく来てくれたね。社交の場にいるような貴公子とはかけ離れたやつらが多いけれど、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、働くのは初めてでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願い致します」
サミィのお父様が言うには、私のお仕事は研究者の方々の食事やお茶を手配したり、おかしなところで寝てしまった人を起こしたりするのがお仕事だそうです。
食事やお茶の手配はわかります。おかしなところで寝る……? ベッド以外のどこで寝るというのでしょう。よくわかりませんでした。
その疑問は働き始めてすぐに解消されました。激務かつ研究に夢中の皆様は寝食を忘れて没頭なさるので、各自の研究室で行き倒れたように寝ていたり、共用の資料室や装置室での作業途中に机に突っ伏していたりするのです。それを叩き起こし、また寝ないように監視しながら仮眠室まで案内するのです。それに、放っておくと食事もろくに取らないので寝不足だけでなく栄養失調で倒れたりもするのです。本当に困った人たちです。
「おーきーてーくださいませーー!! 大事な薬品がこぼれてしまいますよーー!!」
そんな中でもぶっちぎりの不健康問題児がこのお方。ハロルド様です。侯爵家の三男だそうですが、いつも床や机で寝ていらっしゃいます。
今日もさまざまな色の薬品がところ狭しと並べられた机に倒れ込むようにして寝ていました。ぐちゃぐちゃの文字がみっちりつまったノートにはよだれがついています。
「…………え、あぁマリア嬢………おはよう……」
大きな声を出しても起きず、べしべしと何度も背中を叩いたところでようやく黒いもじゃもじゃ頭がのっそり動いてのんびりした声が返ってきます。
「おはようではないのですよ! こんなところで寝てはいけませんと何回言えばよろしいのですか!」
「あぁ……ごめんね、つい夢中になっちゃって……」
へんにゃりと気の抜けた笑みを浮かべ、ハロルド様は申し訳なさそうに頭を掻きました。
ガミガミ言っても全く響いた様子はありません。半年間言い続けても何も変わらないので、これからもこの方はずっとこうなのでしょう。本当に世話が焼けます。
「お食事は取られましたか? 昨日は私が何度言っても今良いところだから後で、とおっしゃっていましたけれど…………」
そこまで言ったところでハロルド様が青い目を左右に泳がせました。
「取ってませんね! お食事と仮眠どっちを先になさいますか!?」
「じゃあ、食事で……」
ハロルド様を隣の事務室に移動させ、食事を手配します。ハロルド様が寝てしまわないように監視しながら食事の到着を待ち、部屋に届けられた食事を彼の前に出しました。食事は手軽にさっと食べられるものを頼みました。研究者の方々はそういうものしか食べないとこの半年で学んだのです。
「いやぁ、マリア嬢がいてくれて助かるよ。すっごく健康になった気がする」
ニコニコ笑顔のハロルド様に勧められて対面に座りながら、私はじとりと彼を見つめました。
「私は大きな声をたくさん出すようになって不健康になった気がいたします」
「おっと、それは困るなぁ。じゃあこれをどうぞ」
そう言ってハロルド様は青い目を細めて微笑み、空のティーカップに紅茶を注いで蜂蜜をたっぷりと入れて私に差し出しました。このやりとりももうここ数ヶ月でお決まりになったものです。
私は遠慮することなくその紅茶をいただきます。甘くておいしくて、喉も潤います。ハロルド様は大変困った人ですが、私はなぜか、この時間がとても気に入っていました。
◇
家に帰ると、執事が困った顔で私に届いた手紙を差し出しました。またですか。
「お昼頃にザイオニア卿がお越しになられまして、お嬢様は不在だとお伝えしたところこの手紙をと」
「追い払うこともできないし困ったものね。対応ご苦労さま」
執事から受け取った手紙はそのまま開封せず暖炉で燃やします。最初の頃は一応きちんと開けて読んでいたのですが、毎回「婚約解消を取り消したいなら今しかないぞ。僕は寛大だから今なら許してあげよう」みたいなことしか書いていないので読むだけ無駄です。
◇
ある日、ハロルド様とは別の研究者の方を叩き起こし、ふらふらする足取りで仮眠室へ入るのを見送った後、その方の実験室の床に水が少しこぼれてしまっていることに気づきました。
いつもなら掃除の担当の方を呼びますが、ほんの少しだったのでこれくらいなら……と近くに置いてあった布でさっと拭き取ろうとしたところ、水に触れた布からもうもうと煙が立ち上がりました。
やってしまいました……! 何か分からない液体には触れてはいけないと言われていたのに……!
後悔するも遅く、指先にじくじくとした痛みが走り始めます。煙も吸ってしまったせいか、なんだか視界がぐるぐると回り始めて動けません。
「だ、だれかーーーーー!!!」
私は渾身の力で叫びました。そのせいでたくさん煙を吸って、視界が暗くなっていきます。
ああ、もうだめかも……。
目の前が真っ暗に染まりゆく中で、青い色が見えた気がしました。そして、なにか温かいものに包まれたような気がしました。
◇
ふ、と目を開けると、視界に黒いもじゃもじゃ頭と青い目が飛び込んできました。
びっくりして起き上がろうとするも、体がうまく動きません。
「あ、起きた……よかった……」
「は、ハロルド様……? どうして……?」
そう問いかけると、ハロルド様は眉を下げて困ったような笑みを浮かべます。
「どうしてって、マリア嬢の叫び声が聞こえたから、大急ぎで向かったんだよ。君は意識を失ってるし、間に合わなかったかと思った」
実験でかさかさに荒れた手が、包帯の巻かれた私の手を包み込みます。申し訳なくて胸がぎゅっと痛みました。
「心配をおかけしてすみません……」
「いつもとは逆だね」
ハロルド様のその言葉に、なんだか力が抜けました。たしかにそうですね、と2人で笑い合います。温かくてほわほわした気分です。変な薬品を吸い込んでしまったせいでしょうか。
「煙をたくさん吸い込んでしまったから少しの間ちょっと体を動かしにくいと思うけど、2週間もすれば麻痺はなくなるって医師が言っていたよ。それまではここに入院だって」
「そうですか……。みなさん、私がいなくてもちゃんと寝たり食事を取ったりしてくれるでしょうか」
一番心配なのはこの人です。私はハロルド様をじっと見つめました。
「わかった、ちゃんとするから。安心して治療に努めて」
ハロルド様はいつも通りへんにゃりと笑いました。信用できません。
◇
絶対にハロルド様がろくでもない生活を送ると思っていた私の予想に反して、ハロルド様の目の下の隈は次第になくなっていきました。どうしてそんなことが分かるのかと言うと、ハロルド様がなんと毎日私のお見舞いに来るからです。研究が命なのではなかったのでしょうか。
体がうまく動かず、ちょくちょく足がもつれて倒れてしまいそうな私を支えるようにハロルド様がエスコートしてくださって、リハビリがてら庭園を散歩します。
「研究をしなくていいのですか」
「いいんだよ。今キリがいいからね」
信じられません。半年間あんなにガミガミ言ってもキリがいいところに来たら……と言ってずっと食事も睡眠もろくに取ろうとしなかっのに。睡眠は大体机での寝落ちで、食事は書き物をしている時に無理やり私が口に押し込んでやっと食べるような人です。研究の方はとっても優秀らしいですが、人としてはだめだめです。
そんな人が、隈が消えて、肌艶も少し良くなって、エスコートしながら庭園のお散歩だなんて……。
「ハロルド様が急に貴族の令息みたいに見えてきました」
「ええ? みたい、じゃなくて本物の貴族の令息だけど?」
「貴公子は床や机で寝ませんし、身だしなみももっと整ってます」
「辛辣だなあ……。まあでも、マリア嬢の隣に立つべき人は、きっとそういう男性だろうね」
「え?」
驚いてハロルド様の横顔を見上げましたが、何を考えているのか読み取れませんでした。
次の日。私の病室にやってきたハロルド様の頭は、なんともじゃもじゃしていませんでした。
「すっきりしたでしょ?」
目を細めて、にっと笑ったハロルド様はどう見ても高位貴族のご令息です。たぶん、格好いいのでしょう、世間一般では。
でもなんだか、私は悲しくなってしまいました。理由はさっぱりわかりません。でも、なぜか悲しくて涙があふれてきて止まらないのです。
「え? え? なんで、どうしたの?」
私が突然泣き出したのを見てハロルド様がおろおろしています。
これです。ハロルド様はこうじゃないとだめなのです。困らせたらいつものハロルド様に戻ってくれるのでしょうか。
私はハロルド様に抱きつきました。ひぇっという情けない声が聞こえて、私は満足しました。
「どうしてもじゃもじゃを切ってしまったのですか」
抱きついたまま私はハロルド様に問いかけます。なぜだか恨みがましい声が出てしまいました。寝てるときにあのくるくるした髪が揺れるのを見るのが楽しかったのに、もう見れないのですね。
「だ、だ、だって……ええ? ここで言うの?」
ハロルド様は庭園でかっこよく決めたかったのに、などとよくわからないことをぶつぶつ言っています。
彼が何を言いたいのかさっぱりわかりませんが、胸に顔を擦り付けると彼の鼓動の音が異様に速いのがよく聞こえて私は満足していました。
「何が言いたいのかわかりませんけれど、ここで言うのですよ」
「わかってるでしょ、絶対わかっててわざとでしょ」
見上げると、もう……と仕方なさそうにへんにゃりと笑ったハロルド様の顔が見えました。
「ええっと、その、マリア嬢、君のことが好きなんだ。だからどうか結婚してほしい。君に甘えっぱなしだったダメなところは、ちゃんと直すから」
ハロルド様の顔は真っ赤で可愛いです。
でも、ざんねん。不合格です。
「私、だめだめなハロルド様がいいのです。でも、長生きしてほしいですから、私が面倒を見てあげます」
「嬉しいけど、でも、よろこんでいいのかなぁ……それ……」
そう言いながらも嬉しそうにハロルド様は私を抱きしめ返してくれました。ハロルド様の鼓動はずっと速いままですが、私の鼓動もきっと同じくらいの速さな気がします。
◇
麻痺がすっかり取れて元通りの体を取り戻した私とハロルド様は両親にかけあってすぐに婚約を整えました。結婚の準備が必要なため、1年間の婚約の後、結婚することとなりました。
お父様もお母様もとても喜んでくれて一安心です。ハロルド様のご両親も、ハロルドは結婚しないと思っていた、と驚きながらも私を歓迎してくださいました。
そして、ハロルド様のお家で婚約披露のパーティを開催することになりました。ハロルド様のお母様に色々と教えていただきながら慌ただしく準備します。ハロルド様は三男で、侯爵様がお持ちの伯爵位を継ぐ予定なので、このような大規模の舞踏会を今後私が主催することはないのでは? と思ったのですが、ハロルド様と研究のお話をしたい方々が国内外問わずたくさんいらっしゃるとのことで、パーティの招待客は普通より多いのだそうです。大変ですが、なんだかちょっぴり誇らしい気もします。
パーティ当日。ばっちり貴公子姿のハロルド様に寄り添って、お客様方に挨拶します。
みなさん貴公子姿のハロルド様のことを褒めます。あのだらしないのがいいのに、と心の中では思っていますが、口には出さず隣でにこやかに微笑み続けました。
挨拶の人の中に、あの人がいました。ザイオニア卿——レオンハルト様です。ずいぶんやつれたようで一瞬誰か分かりませんでした。
ハロルド様にこっそりと彼が元婚約者だと耳打ちすると、少し驚いたように目を見開きました。
「ご婚約おめでとうございます」
そう言うザイオニア卿の目は、私に何かを言いたそうにしています。そういえば、そばにはあの魔性のモニカ・ソエティス様がおられません。
「ありがとうございます。今日はソエティス侯爵令嬢様とご一緒ではないのですね」
私がそう告げると、ザイオニア卿の視線が一瞬左に向かいました。つられてそちらを見ると、モニカ様はどなたか美しい男性と楽しげに連れ添っています。
「ああ、モニカは……その、もういいんだ。マリア……手紙は読んでくれたかな。今まで悪かった……僕が間違っていたよ」
縋り付くようなねっとりとした目で見られて、思わず扇で顔を隠しました。
「私たちの婚約を祝っていただけて感謝いたしますわ、ザイオニア卿。ねぇ?」
にっこりと隣のハロルド様を見上げると、ハロルド様は私を優しく抱き寄せてくれました。
「今日は多くの方に挨拶しないといけませんから、これで失礼致します。お話はどうぞまたの機会に」
ハロルド様がそう言って私をぎゅっと抱き寄せると、ザイオニア卿は傷ついたような顔をして黙って後ろへ下がっていきました。何に傷ついているのかよくわかりませんけれど、私には関係のないことですね。
ザイオニア卿から離れた後、ハロルド様が心配そうに、大丈夫? と言いながら私の顔を覗き込んできました。
「なんのことか分からないですが、だめだめなハロルド様が不足している気がします」
唇をとがらせてそう言うと、ハロルド様はくすくすと笑いました。
「後もう少しの辛抱だよ。パーティの間は格好良くいさせて」
「しかたがないですね」
ハロルド様の腕にきゅうっと抱きつくと、彼の緊張による震えが伝わってきました。今日は幸せでいっぱいですから、特別にこれで我慢してあげましょうね。
fin
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