京洛御伽草子(きょうらくおとぎそうし) 或る夜、荒れたる寺に宿りし武士、鬼境を越ゆることありけり
なんだか、後半、猟奇的なような、BLのような。
厭な方は回れ右で。
「申し、申し、」
柔らかく背後から声をかけられて青年は振り向いた。綾絹をめぐらした市女笠を被った女であった。咄嗟に影を確認して、正しい向き正しい形で落ちていることを見取った。
「わたしに御用でしょうか。」
「はい。」
申し訳なさそうに首を傾けながら、
「母の具合が悪く難儀をしております。手をお貸しいただけないでしょうか?」
「それはお困りでしょう。」
青年は頷いた。
「しかし、わたしは今連れを待っております故、ここを離れることは難しい。御母堂はいずれに?」
「はい。道端は日差しがきつく、向こうの木陰で休んでおります。ここからでも姿が見えます。」
腕をもって示された木立の中に目を凝らせば、道沿いから少し入った木の根元にうずくまるような影が見えた。
「連れが今馬に水を飲ませに行っているから、お乗せしよう。」
「まあ、なんてご親切な。お武家様、ありがとうございます。」
女は胸の前で合掌し、
「では、母に声をかけてまいります。」
と、身を返した。地面の僅かな窪みに足を取られたのだろうか。あ、とよろめいて平衡を崩した。反射的に伸ばした青年の手を、差し込まれた扇がピタリと止めた。
「はい、そこまで。」
十代半ば。まだ成長の余地のある少年は、今は頭一つ高い青年を
「ちょっと目を離せば・・まったく。」
と、まるで保護者が悪戯をした子どもを見るような目つきで見上げた。
「困っている女性を、院にお仕えする武士として無碍にはできぬ。」
「ご立派だがね?」
少年はあしらうように言って、転倒せずに踏みとどまった傾いだ姿勢で、肩越しにこちらを見て、固まっている市女笠の女へ顎をしゃくった。
「これはやらん。他をあたれ。」
ぽ、と炎が開いた扇の山の部分を走り、一呼吸後には身の丈ほどの炎が空へと吹きあがった。
炎の壁の向こうで市女笠の女の輪郭が歪み、小さく崩れながら林の暗がりへと駆け込んでいくのが見えて、青年は目を丸くした。
脚絆を巻いた旅支度の足は太く短く、ふさふさの白と灰色の毛に覆われて、尻の部分が丸く膨れたのは、尻尾?
「雑な化け方をしやがって、」
呆れたように呟いた後、
「あなたはちゃんと疑えよ!? あんな見え見えの誘いにのるか!?」
「いや、だって、・・真昼間だぞ?」
「関係あるかよ。それくらい、自分がうまそうなにおいをばらまいているっていい加減気づけよ!?」
「におい・・って、」
自分では分からないから困ったように眉を寄せるしかない。
「君には分かるのかい?」
「俺は人の肉なんか喰わない。」
鬼市に属しても人なのだから、成程あたりまえである。ああ、と納得した顔を不快そうに見上げた。
「・・・支払い滞ったら、あんたは立派な担保になるだろうさ。きっと、列を為すと保証する。」
頬を引きつらせる青年に、少年は厳しく言い渡した。
「もう京洛内じゃない。あなたに声をかけてくるようなのは、あなたを腹の中に収めたい、涎を飲み込んでいるヤツらばっかりだ!」
初対面からして、あやかしに喰われかける寸前で救出され、ここまでの数日の旅路でもう何回守られたか。地下の、十五、六の少年と、十以上年上である五位の殿上人として、初めの頃は少しはあった丁寧な物言いはもうきれいに消えている。いや、まだ、あなたと呼びかけてはいるが。
無礼な、と咎め立てするのは容易いが、少年が青年の安全に心を砕いている-----仕事に誠実なのはよく分かるし、ここは御所ではない。
「心する。」
素直に頷いた。
「・・頑張ってくれ、」
だといいな、と顔に書いた少年は、馬を引いて来た。
「----君は馬に乗れるのだな?」
「ん、まあ。」
きちんと習ったと分かる姿勢で、少年は手綱を捌いている。
「急ぎの仕事の時には重宝するから。」
太刀は帯びず、括り袴に萎え烏帽子という庶民の服装だが、武家の子のように板についていた。
「あやかし、モノノ怪というものは何もないところから現れて、何もないところに消えるわけだから、何か特別な移動方法などはないのか?」
「鬼市にいるのは全部モノノ怪じゃねぇっていうの!」
身のこなしや些細な仕草から育ちは悪くないのかもしれないと、同行数日の端々に感じてはいる。
「そんな道があったとしても、あなたが入り込んだら、もうそれで人生の終わりに違いないから。」
やはり口は悪い。事あるごとに脅し文句になるのはどうかとは思う。
「わたしも好き好んでこのような身ではないのだが。」
「ああ、お疲れさまだ。世が世なら生き神として祀られて、真綿にくるまれた一生を送れたかも知れないのに。」
表情をみるに、褒めている・・ように見えた。
「効能あらたかな人柱一直線だったかも知れない。」
いや、やっぱり違う。
「麻・・守が言うには、依頼にきたあなたの兄上はただの人だったそうだし、弟どのも同様。家系として巫覡の血筋が入っているわけでもないというし、」
さらりと明かされたが、調査はしっかり行われているようで、やはり鬼市は侮れない。
「子どもの時から?」
「---多分。それで、幼い頃にあやかしにさらわれたことがあって、」
「・・成程、」
「その後、酷くなった気はしている。」
「・・ふぅん?」
少年が扇をひらひらとさせているのは、雅を気取っているのではなく、あやかしやそれらが仕掛ける糸を払っている----とのこと。
「あなたの屋敷や実家は能く結界が結ばれていたし、出入りする御所などは陰陽寮による護りが展開されている。あなたはそこで暮らしていくのが、誰のためにも正しい選択だと思う。」
とても真面目な口調だった。
「俺の身内にも・・あなたのような子がいるが、かわいそうに見えても決して外には出さない。間違いなく、もっとかわいそうなことになると分かっているからだ。」
だから、と。
「あなたは今すぐに京へ引き返すべきだ。」
勿論、青年が肯んじることはなかった。
凄まじきは宮仕え、と思いつつ、少年は今夜の宿の四隅に扇を掲げて、糸で結んで印を調えた。
結界の専門家ではないから、大物がきたら自信はない。ので、結局は不寝番になる。体力に自信はあるが、昼も移動かつ祓いのこれではさすがに身が持たない。泣き言を言うのは癪だが、任務遂行に差し障りがあるのは本末転倒だから、率直に応援を要請した。
「・・あんたか、」
飛首のその男(の首)は、少年の目の高さでぴたりと止まった。
「哨戒いたします。」
端からみれば、切り離された首が浮いているのだからただ異様なのだが、少年は心強そうに表情を緩めた。
「夜明け前には引き上げさせてもらうので一晩中とはいきませんし、対応はできないのですが、わたしが一番速かったので。」
「ああ、感謝する。」
昼間、青年と応対している時とは違う言葉遣いだ。
すぐさま床に丸くなって寝息を立て始めた少年の上を暫しふわふわと漂った後、飛首は闇の中を気ままに飛んでいく。たまに丁度現れた虫や蝙蝠、小さなあやかしを咥えて、飲んでいく。首から下はここにはないのだけれど、いったいどういう仕組みなのか。けれど、それを訝しく問う者もいない。
----そんなこんなで更に二日。
「・・こっちだ。」
淡々としているが、目の下の隈が濃くなっている少年は街道を外れることを告げた。
古くから多くの人に踏み固められてきた街道には護りがあり、道の外は、ことわりの外に通じるから誘い出されるな口を酸っぱくして言っていた少年の思わぬ急変に青年は首を傾げた。
「大丈夫なのか?」
「今日はどうやっても次の宿には着けないから。」
というのは、一日中化生の鳥にまとわりつかれたせいだ。やはり自分のせいだから、青年の言葉は止まる。
「あなたをそのあたりで野宿させたら地の底に引き込まれそうだし、」
そんなことが起こるはずが、とはもはや言えるはずもない。
「少し先に無人の寺がある。廃寺でも幾許かの結界は残っているだろうし、どんなあばら家でも野ざらしよりはましだ。」
ということでたどり着いたのは、荒れ果てて無人の村落の中にある寺だった。
「この村は・・?」
「恐らく源平の戦乱に巻き込まれて消滅した村のひとつだと思う。」
互いに世代ではない。
「大変だったんだろうなあ。」
打ち棄てられた、辛うじて形を残す家々の間を抜けていく。途中、風もないのに木々の枝葉が揺れたり、陰が濃かったり、・・見られているような気がしたり。前を行く馬上の少年の背だけ見て、反応を堪えた。
伽藍は思ったよりも大きかった。平家方の所領だったのかも知れないと考えつつ、板が残っている部分の縁から内に上がった。
室内には何もなかった。持って逃げたのではなく、後から野盗が入って持ち去ったのだろう。二人、本尊があっただろう正面に一礼した。それから伽藍内を検分し、辛うじて壁と屋根が残っている端の端に、少年は青年を導いた。
座り込んでぼんやりしていると、少年が半分朽ちた桶に水を入れて運んできた。
「顔とか拭って。でも、服装は解かないように。」
と、言いおいて、すぐ出て行こうとする。
闇が濃くなる夜の忙しさは昼の比ではない、・・らしい。宿に泊まっていても、少年はずっと外にいる。雇った地下人とはいえ、申し訳ない気持ちが込み上げて、肩をすぼめた。
「少し、休憩してからにしては?」
「いま休むと、絶対休んだよりも長く動き回ることになる。」
何とかうんざりを隠した無表情だ。行ってしまった、誰もいない空間に青年は呟く。
「----でも、戻ることはあり得ない。」
院直々の下命だ。何としても壇ノ浦に行かねばならない。
----見つかる保証はないが、青年がこうして赴いている間は、院は希望を持たれて心安らかに過ごす時間を持てるはず。
だから、この無理には意味がある。
少年が運んできた水は、井戸が手入れされていないせいか濁っていたが、濡らした手拭いで顔や手足を拭うと気持ちも少しさっぱりとした。使った水は外に撒き、干し飯を水筒の水でもどして食んだ後は、もうすることはなかった。一日馬に揺られた体はまだ落ち着かず、瞼が降りる気配はない。歌、と思いはしたが、言の葉は振ってこず、やはり疲れているのだな、と息を吐いた。
空の仏座に、青年は体の正面を向けた。懐に収めていた数珠を手に唱え始めたのは、障害を打ち破り給えという祈りの不動の呪であった。
----随分長く没入していた。
ひんやりとした風が首元に触れた。集中から還るときの、意識と体が分かれているあの感覚だ。口はまだ呪を唱え続けているが、意識は周囲を認識しはじめた。
暗い、がらんとしたお堂。
外から、ざわざわと近づいてくる気配。
それも一人や二人のものではない。燭を各々持ちながら、堂の中へと入ってくる。
廃村だったはず。いや、それとも何か特別な祭りがあって参集したのか。
----いや。
人では、ない。
村人でも旅人でも野盗でもなく。
鬼灯の手燭を掲げて堂に入ってくるのは。
おに。もののけ。異界のもの。
目が一つ。あるいは複数。一本以上の角があるもの。耳がやたら大きいもの。鼻が高く長いもの。肌の色も赤かったり黒かったり灰色だったり。
人間に似たかたちではあるものの、化生----人ならず。
「今宵は良いにおいがするのぉ?」
慄く青年には目をくれず、けれど鼻をくんくんとさせながら、堂の前の方から順次詰めて座っていく。
「まことじゃ。来がけにいっぴき頭から喰ってまいったというのに、何だか腹がなりそうじゃ。」
まさか自分のことではあるまいな、と生きた心地はせず、ただ人すら呪を唱えていた。
少年は、戻ってこない。
いやたった一人で百人はいそうな鬼の群れを相手取れるはずもない。
前方を埋め尽くし、いよいよ青年の近くまで列はせまってきた。鼻をうごめかせ、舌なめずりをし、よだれをすする。鬼の列はとうとう青年の近くに迫ってきた。
「おや、わたしは席がない。」
最後に堂に入ってきた額に三つの角を生やし、総髪で、もとは白糸の大鎧だろうが血とも泥ともつかぬ液体をこびりつかせ、大太刀を背負ったおにが、青年の前に立ちしげしげと見下ろしてきた。
「こちらの新しい御不動様でこざいますかな?」
とか、言う。恐ろし気な外見のわりに、口から出た言葉は穏やかだ。
「しかし、今宵は朝までわたしに席を譲られよ。」
と言ったと思うと、片手で青年の襟首をつかみ、吊り上げた。そして端座したままの状態の青年を堂の外、縁の下に置いたのだ。
空に月も星もない夜だった。堂の中は、会合なのか酒宴なのか、賑やかな音が聞こえてくる。生きた心地はしなかった。必死に真言を唱えていたのだが、ある瞬間、ふ、と真言の代わりに和歌が唇から落ちていった。
吹く風の色こそ見えね秋の夜の月におどろく萩の上風
縮んでいた心がふ、と軽くなった。自分が戻ってくる。
下にのみむせぶ思いもあるものをあらはにもえてゆく蛍かな
これまでに詠んだ和歌や本歌たる古歌、当代の歌詠みの心振るわせられた和歌が、数珠つながりにでてきて、青年はまるで花を咲かせる木のように、空気に溶けていた。
「暁じゃ!」
「おう、夜が終わる!」
堂の会合は終わる時間になったようだった。わずかに闇色は薄くなったが、まだまだ手燭の炎は鮮やかに映える。かれらは縁をおりると、三々五々闇の中をいずこかへと遠ざかっていく。
青年を縁の下に入れたおには、律儀にも縁の下を覗き込み、不動明王の像を引っ張り出そうと手を伸ばしてきた。
「不動明王と見えたが、金剛歌菩薩であられたか。」
鼻をくん、と鳴らした。
「まこと良きにおいのする仏像よ。このような人気のないところに置いておくよりも、みやげにいたそうぞ。」
と、一方的に宣言すると、先の時のようにぐいと青年を持ち上げた。そうして、驚くべき腕の力をもって、左掌の上に端座した状態の青年を載せたのだ。右手で鬼灯の手燭を持ち、左掌の上にまるで猫か兎でも載せている様に軽々と運ばれていく。目の下で揺れる地面に、青年は仏像のふりとかそういう保身も考えられず、実際にただ固まっていた。
それでも真言ならぬ和歌を無意識に繰り返すうちに、ようやく目を動かして護衛である少年はいないかと探すが、深い闇の中に誰の姿も・・何も、見ることはできなかった。
----闇?
いや、夜明けが近かったはずだ。曙光はまだ差してはいなかったが、空は下方から藍が抜けていっていた・・のに?
墨を撒いたような、闇だった。
そして、もう一つ気づいたのは・・・気づいてしまったのは、視界が下がっていくことだ。鬼の手が下がっているわけではない。手の位置は微動だにしない。しかし、視界は下がる。即ち、闇の中に沈んでいっている?
一歩を鬼が踏み出すたびに、沼地に足が沈んでいくように、闇の底に沈んでいると気づいた。
やがて、ねっとりとした濃度の闇の中に浸かっていた。その密度は息苦しさを覚えるほどで、水ではないが、やがて溺れ死にするのではないかと思った。
地獄へと降りていっている、のだろうか。かちかちと鳴る歯の隙間から、和歌と真言が交互に押し出して堪えるのは、
「よく頑張った。」
と、頭を撫ぜて笑ってくれた人の記憶が鮮やかだからだ。
闇の中に囚われて暮らした数か月。惨たらしい音を間近に聞きながら、いっそ自分が喰われたら楽になれると思いながらも、それでも生にしがみついた幼子は----代わりに、他の者を誘いだして喰わせた。
武家に生まれついたが、戦乱の狭間に成長した青年は太刀で人を殺めた経験はない。だが、この身は既に幾多の血を被り、自分の代わりに引き裂かれた肉片を踏みしめて立つ、ひとでなしだ。
「生きようと足掻くのは罪ではない。」
蒼い月光のような、冴え冴えとした雰囲気の少年だった。
「生きたことを誇れ。そして生きていけ。」
地下の身なりではあったけれど、とても年若いひとだったけれど、自然と頭を垂れてしまうようなひと、だった。
自分を囚えていたあやかしを、少年が退治したと分かる光の柱が闇を払い、暁の光を呼んでくれた。
「・・やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、」
尊き先人の、力ある詞。歌人にとって、これほどの誉れある、心を奮うことばが他にあるだろうか。
「猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。」
ひとでなしが生き延びているのは、ひとの世になにかを残すためでなければ・・この手が闇に突き落としたひとたちに申し訳が立たない。
----この世にて和歌を詠うことを、諦めない。
地獄へと降りるのかと思ったが、ざ、という踏みしめる音とむせるような、鼻をつく臭いが押し寄せてきて、灰がかった藍色の空が目に飛び込んできた。
「さて、どこにおまつりしようか?」
青年の目を見て、に、と唇を歪ませたおには----本当に、己を仏像と見ているのだろうか?
「まさか、このような良きものが落ちているとは、」
低い----良い声だ、とこんな時なのに思いながら、前髪の下の、朱褐色の瞳に自分が映っていることを見取って、全身に力を走らせて掌から飛び降りた・・はずが、まるで猫の子を掴むように首を捉えられ、そのまま後ろから抱え込まれた。
首に息がかかった、と認識した瞬間、
「・・あ、っ!?」
項に硬い感触。
「いた・・!? なに!?」
噛まれている!? 歯・・いや、牙が食い込んでくる。
噛み切られるのか、と背筋に恐怖が走ったが、すぐ痛みは去って、代わりにざらりとした感触が項を辿った。別の意味で、背筋に悪寒が走る。
「----これは・・美味い。」
血が出ていく感覚と、すすり上げられる感覚。鬼は感嘆したように言う。
「こんな僅かな量でも、体が火照ってくるわ。」
顎をぐいと掴まれて、上向かされた。爛爛と目が輝き、口元を赤く濡らしている。それは自分の血かと思うと眩暈がした。
「わ・・わたしを、食べるのか?」
「まさか。」
口元の赤を舌でなめとった鬼は、いっそ軽やかに言を継いだ。
「せっかくの糧食を一時で平らげるなど。」
「糧、食?」
鬼の口からでるには不釣り合いな、だからこそ、厭な予感が込み上げた。いま、一息に喰われた方が酷いことにならない、気がした。
「髪も爪も、血も体液も、生きておれば、ずっと喰える。----男なのが少し惜しいが、それならそれで、だ」
更に顎に力が加わって、青年はのけぞるように鬼の顔を見上げた。
「しかし、御山の奥に籠めておくような者がひとり鄙を歩いているとは、これぞ世も末ということか。」
鬼が顔を伏せ、舌を伸ばしてきた。唇のまわりをなぞり(先についた血を舐め取り)、そのまま思いついたとばかりに唇が重ねられ、舌が差し込まれていた。口腔をなめまわし、溢れた唾液をすすり上げる。
余りの息苦しさに、青年は鋼のような腕をかきむしるように上がらっていたが、とうとう精魂がつきてだらりと腕が落ちた。弛緩した体に気づいた鬼は口を離し、ぱくぱくと空気を求める口とぼんやりと涙の滲んだ目に、嬉々と目を輝かせた。支えを必要とする体を抱きなおし、今度は目元に口をよせ、舌で涙をつっついた。
「どれも甘露だ。----大事にしてやろう。」
まるで睦言であるように甘く囁いた鬼の空気が一転硬化した。ギュン、と風を切る鋭い音とともに開いた扇が、鬼の足元の砂に突き立った。そしてドサリと重い音が二回続いた。
鬼の腕から解放されて、砂の上に膝から崩れ倒れ伏した青年は、顔の少し先に落ちたものをぼんやりと見遣り、頭を叩かれたような衝撃で跳び起きた。
腕。
鬼の、左腕。肘から下。
呻くでもなく、痛がるわけでもなく、不快そうに首を傾けて、残った腕を茫然と座り込んでいる青年をに伸ばす鬼と青年の間に、立て続けに扇を打ち込まれる。装束の背中の部分をつよく掴まれて、青年は後ろに倒れ、そこへ護衛の少年が飛び込んできて背にかばった。
「うちの客に何をしやがる!」
「飛首と術師の組み合わせとは。今代の鬼市は新しいなあ。」
扇を構え、油断なく鬼を睨みつけながら少年は青年に向けて言った。
「走れ・・そいつが先導する。」
言われて目を上げれば、知らぬ男と目が合った。
「は・・?」
「怪しいものではない。」
と、首から上だけの----つまり首だけが宙に浮いている----男が律儀な口調で言った。
「こんな夜明けの寸前まで飛首を連れまわすなど、ひどい主人だ。」
「主人ではない。同僚だ。」
少年が手に持つ扇を一振りすると、先に砂浜に突き立てた何面もの扇が、紅蓮の炎を纏って宙に浮かび上がった。
「早く行け!」
つんのめりそうになりながら、青年は走り出した。
追いかけようと踏み出した鬼を止めようと、扇をもって炎の壁を作るが、鬼は残っている右の腕を振って炎を振り払う。
その腕は、どす黒い朱の炎に包まれていた。
結界を突破された少年は後ろに飛びすさって舌打ちした。
「瞋恚の鬼かよ!?」
裡に激しい怨みの炎を抱え、身が燃え尽きても、相手を呪い続ける鬼。最凶の、怨霊。
「おまえの得意も火のようだが。術師よ?」
鬼はくつくつと笑いながら何かを見定めるように目を細めた。
「もしかして、なりそこないか?」
「----一緒にするんじゃねぇよ!」
言いざまに、少年は腰に小太刀のようにさしていた檜扇を抜いた。
奥の林に向けて、砂地に足を取られつつ必死に駆けていた青年は、先を飛ぶ飛首の、その首の後ろがじりと墨を零したように黒くなるのを見た。火をつけた紙が燃えるように黒が広がる。
----夜明けだ。
「一人で行ける!」
振り向いた首は青年に頷き、気がかりそうに少年の方を見やってから、ポーンと蹴鞠が上がるように宙に上がり、見えなくなった。
青年は真っすぐに----ヒイラギが枝を交差しながら囲いのようになっている林に飛び込んだ。魔除けであるヒイラギの緑の中で息を調え、浜辺の様子を窺った。
京の辻でも道中でも、炎を駆使していた少年が、いま扇に纏わせているのは水の気だ。
「----これは、また。」
胸元を深く断たれた鬼は恐れるというよりは、興味深げであった。残っている右の手で、少年が作る水の壁に触れ、ジ、と爛れて崩れ、骨が剥き出しになるのに目を細める。それから、青年が逃げこんだところを正しく見据えて、
「貸しておこう。」
と、堂々たる口調で言った。
「はあ!?」
「約束に我が腕を置いていこうか?」
渡辺綱か。再訪を確定されてはたまらない。
「いらん!」
「つれないことだ。」
水に灼かれて、体のあちこちが白骨化しているのに慌てる様子もなく、鬼は自らの腕を拾い上げて、太い笑みを浮かべた。
「我が恨みのため、やがて迎えに行くぞ。贄たる者よ。」
黒い炎が鬼の足元から吹き上げ、渦を巻き、その姿を飲み込んだ。竜巻のようなかたちとなって、炎は黒く染まった地面に潜るようにして消えたのだ。
「申し訳ないことをいたしました。」
と、少年は膝をつき、言葉遣いを正して頭を垂れた。
「いや、助けてくれて本当にありがとう。まさか鬼が集う寺だったとは予想外だったろうし。」
「・・、」
ぱちぱち、と気まずいとばかりに瞬いた少年の肩には、どういう理由か神妙な顔つきのムササビがとまっている。
「・・あやかしの集会までは織り込み済みで、」
「・・はい?」
「予想外だったのは、あなたが思った以上にやつ等の食い気を刺激することと、・・末席のやつがいつもと違ったことだ。」
もう一度頭をさげたのち、少年は立ち上がり言葉を続ける。
「いつものやつなら十分いなせるはずだったんだ。な?」
こくこく、とムササビが頷いている。
「なんで、そんな・・、」
「一応は善意で、」
恐ろしい一夜を過ごさせることが、と睨めば。
「移動中に襲われ過ぎてあなたも大変だろうと。目的地までは順調でも十日以上だし? 鬼の道を使ってもいいんじゃないか、と?」
ムササビと目が合った。何となく得意げな、感じがした。
「つまり?」
「予定地よりちょっと西に出ちまったけど。」
ここは筑前の国の北端だとの少年の言葉に、ムササビが胸を張ったのである。
*
*
『宇治拾遺物語』(巻1・第17話)修行者、百鬼夜行に逢ふ事 より
今は昔、修行者のありけるが津の国まで行きたりけるに日暮れて龍泉寺とて大なる寺の古りたるが人もなきありけり 。これは人宿らぬ所といへどもその辺にまた宿るべき所なかりければ 、いかがせん と思ひて笈打おろして内に入りてけり
不動の呪を唱へ居たるに 、夜中ばかりにやなりぬらんと思ふほどに人々の声数多して来る音すなり 。見れば手毎に火を灯して百人ばかりこの堂の内に集ひたり 。近くて見れば目一つ着きたるなどさまざまなり 。人にもあらずあさましき物どもなりけり 。あるいは角生ひたり 。頭もえも云はず怖ろしげなる物どもなり。
怖ろしと思へどもすべきやうもなくて居たりければ各皆居ぬ 。一人ぞまだ所もなくてえ居ずして火をうち振りて我をつらつらと見て云ふやう 「我が居るべき座に新しき不動尊こそ居給たれ 。今宵ばかりは外におはせ 」とて片手して我を引きさげて堂の縁の下に据ゑつ。
さるほどに 「暁になりぬ 」とてこの人々ののしりて帰りぬ 。
「誠にあさましく恐ろしかりける所かな 。疾く夜の明けよかし 。往なん 」と思ふに、辛うじて夜明けたり。
うち見まわしたればありし寺もなし 。はるばるとある野の来し方も見えず人の踏み分けたる道も見えず行くべき方もなければ 「あさまし 」と思ひて居たるほどに、まれまれ馬に乗りたる人どもの人数多具して出で来たり 。いとうれしくて 「ここは何処とか申し候ふ 」と問へば 、「などかくは問ひ給ふぞ 。肥前国ぞかし 」と云ふ。(後略)
「ゆふぐれの~」で旅に出て、次は「平家物語後奇譚」へ、とかいってましたが、苦労の多い旅路の様子も書きたいな、と思って書き始めたら、思わぬ大物まで登場しました(笑)。これで、「平家物語後奇譚」の新章に続くはずです(きっと)。
そして少年の苦労に、お助け~と、今までのキャラも出てきたので、宜しければ京洛と平家物語後〜の過去作もお読みください!
*宇治拾遺〜は一部、原文から書き改めています。




