黒い影の訪れ
家にいても、胸の奥がずっとざわついていた。昨日の光景が、まぶたの裏に焼き付いたまま離れない。学校はしばらく休むことになったけれど、静かにしているほど、悲しみの波がゆっくり押し寄せてくる。時間だけが、やけに重たく刻まれていった。
塞ぎ込む美緒を救ったのは柴犬のロミだった。散歩をねだる姿はとても愛くるしい。そのロミと今、夕暮れの赤い日差しを浴びている。
「ロミ、ありがと。少し元気になったよ」
幹線道路沿いの歩道は、帰宅する人たちの足音と車の音が、どこか遠くで混ざり合っているように聞こえる。
前方に、黒いワンボックスカーが停まっているのが見えた。いつも同じ場所に路上駐車している車だ。その横で、黒髪をワックスで固めた細身の若い男が電話をしていた。彼は苛立ったような声で、誰かにまくし立てていた。
「で、どの鴨ネギ? 石田? あぁ……あのばぁさんか……くっそ500万が……」
風にちぎれた言葉が、美緒の耳に触れた。”石田”という言葉だけが、杭になって胸を突き刺した。ほがらかに笑う石田のおばあちゃんの顔が、ふっと浮かぶ。膝の上の毛糸。 ゆっくりと動く手。
そして—— 倒れていた姿。
風船がしぼんで落ちていくような……そんな感覚を覚え、視界がにじむ。ぼやけた景色の中で、 美緒は愛犬のロミと、スマートフォンの画面を力強く叩く男の横を通り過ぎた。
「はぁ? 三浦が? どういうことだよ! ……あぁ、うん。うん……」
しばらく歩いた後、立ち止まったロミをぼんやり見つめながら、美緒は軽く首を傾げた。「三浦」という名前に聞き覚えがある。あのビルの前をいつも掃除していた男性──その人の名前が三浦だった。清潔感のある短髪で、トレーナーらしく体格が良かった。
風に飛ばされたゴミ袋を追いかけていた三浦に、美緒は足元に転がってきた袋をそっと差し出したことがある。それが、彼と言葉を交わすようになったきっかけだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。助かるよ」
「いつもこの辺りを掃除してますよね?」
「え? あ、うん。店の前を掃除するのは俺の仕事だから。それに、綺麗になると気持ちいいじゃん?」
その時の彼の笑顔が、今も美緒の心に残っている。それからは、そこを通るたびに短い挨拶を交わすようになっていた。
ーーあの電話……。三浦さんのことかな? なんか気になる……。
水がたっぷり入ったマナーボトルで道路を掃除しながら、ちらりと目を向けた。歩道でいつも勧誘しているパーソナルジム”BeLLe”の従業員だと、すぐに分かった。目が合いそうになり、慌てて背けた直後、怒りに満ちた低い声が響いた。
「……あの裏切者……海に沈めてやる……」
この出来事の数日前、パーソナルジム”BeLLe”のトレーナーとして働いている三浦は、呼ばれた理由がよくわからないまま、フロア奥のドアの前に立っていた。いつもは「アルバイトは入るな」と言われていた場所だ。ノックをする前に、オーナーの佐伯が内側からドアを開けた。
「いいから入れよ。時間ないから」
軽く言われたその一言で、三浦は“特別扱い”されたような気がした。だが足を踏み入れた瞬間、自分自身の何かが崩れた。
机の上に並んだスマホ。
封筒の束。
数字が書き込まれたホワイトボード。
無言で作業する見知らぬ男たち。
ジムのバックヤードではなかった。立ち止まった三浦の背中に汗がにじむ。
「……ここ、何すか」
声が震えたのを自分でもわかった。佐伯は振り返らないまま、淡々と空の封筒を一つ取り上げる。
「見たからには、お前も同じムジナだよ」
その言い方が、冗談じゃないとすぐにわかった。
「ちゃんとやってこい。逃げたら……わかってるよな? 」
三浦は返事ができなかった。ただ、封筒を受け取る手だけが、自分の意思とは関係なく動いた。そのまま地上へ向かう階段を上がる。地下の湿った空気から、外の冷たい風に変わる瞬間、涙が出そうになった。頭をガツンと殴られたような衝撃と混乱。
それでも三浦は封筒をポケットに押し込み、駅へ向かった。いつも通っている道なのに、今日はやけに遠く感じる。
改札を抜け、電車に乗る……。吊り革を握る手が汗ばんできた。車内がやけに静かに思えた。学生、サラリーマン、買い物帰りの主婦。誰も三浦のことなんて見ていない。
それなのに、自分だけが“別の世界”に足を踏み入れてしまったような気がした。さっき見た事務所の光景が、まぶたの裏に貼りついて離れない。電車の揺れが、心臓の鼓動と同じリズムで響いた。
「……荷物を受け取るだけだって」
小さくつぶやいた声は震えていた。電車が揺れるたびに、不安と恐怖が身体中を駆け巡り……胃がキリキリと痛む。
駅に着くと、三浦は深呼吸をして改札を抜けた。外の冷たい風が彼の頬を刺し、現実の重さを改めて感じさせる。途中、黒いワンボックスカーが静かに路肩に停まっているのを見た。何かを象徴しているように感じて、三浦はポケットの封筒を握りしめた。
背後から低く響いた車のエンジン音が、今なら引き返せると言っているように聞こえる。だが逃げることは許されない。前だけを見て、歩みを進めるしかないのだと、三浦は自分に言い聞かせた。
読んでくださり、ありがとうございます。
深い悲しみの中で、美緒を支えたのはロミの温もりでした。
そして、彼女のそばをかすめた“三浦”という人物。
二人の線はまだ遠いままですが、ゆっくりと交わる準備を始めています。




