消えたぬくもり
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気がゆっくりほどけていくような和やかな雰囲気に変わった。美緒は顔を上げ、和やかに話すクラスメイトたちを見渡し、緊張がほぐれたような笑みがこぼした。そんな美緒の左袖を、燈子がちょんちょんと引っ張っている。
「ねえ、美緒。駅前に新しくできたカフェ、行ってみない?」
美緒は小さく息を吸い、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「そっか。最近、放課後どこか行ってるよね」
燈子は首をかしげながら、美緒の顔をのぞき込む。
「うん、まあ……ちょっとね」
「ふーん。なんか楽しそうな顔してるから、いいけどさ」
燈子はそう言って、にこっと笑った。追及するでもなく、軽く受け止めるような笑い方だった。
「また今度、絶対行こ。あのカフェ、パンケーキがやばいらしいから」
「うん。行こう、絶対」
美緒がそう答えると、燈子は満足そうに手を振った。
教室のざわめきが背中のほうへ遠ざかっていく。美緒はバッグの持ち手を握り直し、軽く深呼吸をした。ふと、燈子の笑顔が頭に浮かぶ。柔道の稽古に向かうときは、いつも笑顔で応援してくれる。でも、編み物のことだけはまだ話していない。胸の奥にそっとしまっている、小さな秘密だ。
校門を出ると、夕方の光が学校の周りの住宅街を淡く照らしていた。美緒は駅とは反対方向へ歩き出す。向かう先は、石田のおばあちゃんの家。毎週月曜日に編み物を教えてもらう約束をしている。
おばあちゃんといっても血のつながった祖母ではない。道端で転がった毛糸玉を拾ってくれたことがきっかけで知り合った、石田光子さんという人だ。美緒は親しみを込めて「石田のおばあちゃん」と呼んでいる。
美緒はバッグの中を覗き込んだ。お日様のような色の毛糸と編み棒が顔を覗かせる。
「今日はあみぐるみに挑戦しようって言ってたんだよね」
上手にできるかどうか不安はあるが、楽しみでもある。さらに、お礼を兼ねたお土産もバッグに入っている。
「『いすゞやの羊羹』、石田のおばあちゃん、喜ぶかな」
嬉しそうに笑うおばあちゃんの顔をほわんと思い浮かべながら、角を曲がった。小さな庭のある古い家屋が見えた。 学校から歩いて数分の、石田のおばあちゃんの家。玄関の前に立ち、美緒はインターホンを押した。しばらく待ったが……返事がない。
もう 1 度押してみる。 やはり静かだ。
「……おばあちゃん? 」
美緒はそっとドアノブに触れた。 鍵はかかっていない。不思議に思うのと同時に、胸の奥がざらりとするのを感じた。 ゆっくりと扉を開ける……。
家の中は、不自然なほど静まり返っていた。いつもなら聞こえるテレビの音も、台所の湯気の匂いもない。美緒は靴を脱ぎ、玄関に揃えて置いた。
「どこにいるの……? 」
声は吸い込まれるように消えていく……。廊下を少し進んだところでバッグが、指先からこぼれた。毛糸玉が床を転がり、沈黙と共に廊下の奥へゆっくりと転がっていった。
これは夢だ。もしくは別次元か、パラレルワールドに違いない。美緒の心は必死に現実逃避をしていた。だが薄暗い台所の床で、老婆が倒れているという事実は変わらなかった。
美緒はそっと近づき、震える手で深いしわが刻まれた頬に触れた。冷たい感触に、胸は締め付けられた。
瞳からとめどなく涙があふれ、美緒は嗚咽した。外の夕暮れが、窓から差し込む光を赤く染めていた。静かな家の中に、悲しみの波紋が広がっていくようだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
美緒にとっての“当たり前”が崩れた瞬間でした。
この出来事が、彼女の歩く道を少しずつ変えていきます。




