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刑事の娘、はじめます。~白石美緒と最初の影~  作者: SouForest


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静かな波紋



 朝の9時前。パーソナルジム”BeLLe”のフィットネスフロアの奥にある事務所では、営業前とは思えない気配が漂っていた。デスクの上には、複数のスマートフォンが無造作に置かれ、その隣には分厚いファイルが几帳面に積み重ねられている。


 ファイルの背表紙には、細かく印字されたラベルが貼られており、そこには「管理責任者:佐伯 亮介」の文字がくっきりと浮かび上がっていた。


 さらりとした金髪を見せるかのように、佐伯亮介は手櫛でかき揚げると、差出人のない封筒の束を手に取った。彼は封筒の中身をざっと確認すると、無表情で軽くうなずき、まるで監視塔の番人のように部屋全体をじっと見渡した。


 若い男が、ジムのロゴ入りパーカーを着たまま、淡々と台本を読み上げている。


「……はい、息子さんが……」


 彼の右胸に付いた名札には「トレーナー:田所雄介」と書かれているが、とてもトレーナーの仕事をしているとは思えなかった。ジムは閑古鳥が鳴いていたが、誰も気にしていない。本業は別だからだ。


 佐伯は椅子から立ち上がり、事務所のドアを開けて外に出た。フィットネス器具が並ぶフロアでジム担当の三浦が年配の女性と話している。


「理香子さん、昨日のトレーニング、本当に良かったですよ。理香子さんは努力家ですから」


 三浦の声は柔らかく、時折、女性の肩に軽く触れる仕草もあったが、女性はあまり気にしていないようだ。褒められたことで照れたように笑い、三浦の言葉に熱心に耳を傾けている。


 その様子を一瞥しただけで、佐伯は興味なさそうにフロアを横切り、階段を上がって地上へ出た。外の空気はまだ冷たく、道路には朝の車がまばらに走っている。


 佐伯は周囲を軽く見回し、今日も同じ場所に停めた黒いワンボックスの運転席側のドアを開けた。助手席には、ファーストフードの袋と飲みかけのペットボトルが無造作に転がっている。だが、彼は気にも留めていない。


 後部座席で待機していた若い従業員が慌てたようにスマートフォンを置いた。会釈をしながら、「お疲れ様です」と声をかける。緊張しすぎたのか、かすかに裏返った声になっていた。


 佐伯は返事をすることなく無言のまま、ゆっくりと運転席に腰を下ろし、ドアを閉める動作の流れで、分厚い封筒をひとつーー後ろに渡した。従業員は受け取ると、中身を確認し、後ろのラゲッジスペースに置かれた小さな金庫を開けて封筒をしまった。金庫のそばには、分厚い書類は入ったバッグがいくつか並んでいた。


 必要なものはすべてこの車にある。

 警察が来たら、車だけ逃げればいい。


 佐伯は黒いワンボックスカーから離れーー再び階段を降りて地下へ戻っていった。換気扇の低い唸りだけが、地下の空気をゆっくりと揺らしていた。




 朝の電車の揺れの中で、美緒はスマートフォンを強く握りしめていた。脳裏ではさっきの出来事が反芻している。車のドアとぶつかりそうになった自転車。ほんの数センチの距離をかすめていった風の感触。心臓を掴まれたような嫌な気分は、まだ消えずに彼女の心を掻き乱していた。


 学校に着くと、教室にはまだ半分ほどの生徒しかいなかった。仲のいい友人の燈子が声をかけてくる。


「美緒、なんか顔色悪くない? 大丈夫?」


 美緒は笑おうとしたが、口元がうまく形にならなかった。


「……うん、大丈夫。ちょっと、朝いろいろあって」

「いろいろって何? 言ってくれればいいのに」


 美緒は視線を机に落とした。言葉が浮かんでこない。モヤモヤの粒が身体からにじみ出ているような感覚だった。燈子は心配そうに眉を寄せたが、それ以上は踏み込まなかった。


 チャイムが鳴り、教室のざわめきが少しずつ静まっていく。美緒は机の上に置いたスマートフォンを見つめ、ほんの一瞬だけ迷ったような仕草をしたあと、画面をそっと伏せた。


 その時、教室の窓の外で、遠くから聞こえてきたサイレンの音が、静かな朝の空気を切り裂いた。ただの偶然ではないことを告げるかのようにーー。



お読みいただき、ありがとうございます。

表と裏、それぞれの動きが少しずつ重なり始めました。

次の章で、その距離がもう一歩だけ近づきます。

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