揺れる日常
キッチンには、だしの香りがふわりと漂っていた。白石直樹は、慣れた手つきで卵焼きを巻いている。刑事の手とは思えないほど動きが丁寧で、無駄がない。
「お父さん、その卵焼き……また甘いやつ?」
洗面所から顔を出した美緒が言う。
「甘いほうが元気出るだろ。ほら、昨日も言った」
「昨日はしょっぱいのが食べたいって言ったんだけど」
「……そうだったか?」
直樹は少しだけ肩をすくめ、卵焼きを弁当箱に詰めた。忙しい朝なのに、味噌汁まで用意してある。
「ほら、美緒。味噌汁冷めるぞ。今日の出汁はいりこだ」
「え? もしかして、出汁から作ったの!?」
「最近、俺の中で出汁ブームがキテるんだ……。明日は鰹節、いや昆布にするかな」
直樹はぶつぶつとつぶやきながら、口角を上げてニヤニヤしている。美緒は「父親の独り言劇」を聞きながら、味噌汁をすすった。
「もう行くのか?」
「うん。なんとなく……早いほうがいい気がして」
「なんとなくってのが一番危ないんだぞ」
「また刑事みたいなこと言ってる」
「『刑事みたい』ってなんだよ。俺は刑事だぞ」
「そういうとこだよ。なんか“事件の匂いがする”とか言い出しそうで」
「言わないって。……いや、言うかもしれんけど」
「ほら、やっぱり」
美緒は軽く肩をすくめ、ふふっと笑った。その仕草は、どこか直樹によく似ていた。美緒は機嫌よさげに、父親が丹精をこめて作ったお弁当をバッグに入れた。
「お父さん、今日も帰ってこられそう?」
「努力はする。犬養課長にも言われてるしな。“家族は大事にしろ”って」
「それ、いつも言われてるじゃん」
直樹は苦笑しながら、美緒の髪を軽く整えようと手を伸ばす。美緒はひょいと避けた。
「やめてよ。お父さんに触られると、髪が“事件後”みたいになるんだってば」
「どういう意味だ、それは」
「じゃ、行ってきます」
美緒は靴を履き、玄関のドアを開けた。冷たい空気が流れ込む。
「美緒、気をつけろよ。変な車とか、変なやつとかいたらすぐ逃げろ。
あと、母さんのペンダントは……必ず肌身離さず身につけてーー」
直樹が言い終える前に、美緒はもう外へ出ていた。
「分かってるって。誰の娘だと思ってるの」
美緒は軽く手を振り、家の前の坂を下り始めた。胸元に触れて、冷たい金属が指先に伝わる感触を確かめる。そして、小さく息を吐き、歩幅を少しだけ早めた。
青葉通りに出ると、朝の空気はさらにひんやりしていた。通勤ラッシュの手前で、車の流れも自転車の数もまだ少ない。街全体が、ほんの少しだけ眠気を引きずっているようだった。
和菓子屋の角を曲がった瞬間、美緒の足が止まった。黒いワンボックスカーが、今日も同じ場所に停まっている。まるでそこが“自分の定位置”だと言わんばかりに。
車体の黒が、朝の光を吸い込んでいるように見えた。胸の奥に、冷たいものがすっと落ちる。
「……またいる」
美緒は歩く速度を落とし、できるだけ視線を向けないように通り過ぎようとした。だが、車の横に立つ男が目に入った。昨日と同じ、アッシュブラウンの髪を逆立てた男。タバコは吸っていないが、足元には昨日より増えた吸い殻が散らばっていた。
そのとき、ビルの地下へ続く階段のほうから、低い笑い声が聞こえた。昨日の男たちとは違う声。複数の男性が話しているようだった。
「……朝からいるんだ」
美緒は小さくつぶやいた。ジムの営業時間は確か10時からのはずだ。それなのに、こんな早い時間から人が出入りしている。階段の下から、黒いパーカーを着た若い男が上がってきた。フードを深くかぶり、顔はよく見えない。手には大きめの紙袋。
男は美緒の存在に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。その短い静止が、妙に長く感じられた。そして、何も言わずに通り過ぎていく。美緒は息を飲み、肩の力を抜こうとした。
だがその瞬間ーー。
自転車が専用レーンを塞いでいた黒い車を避けようと、車道側に膨らんだタイミングで、黒いワンボックスの運転席のドアが突然、ガバッと開いた。
「きゃっ!」
急ブレーキの音が鳴り響く。乗っていた女性は怒りの表情を見せた。前のカゴには小さなリュック。後ろのチャイルドシートには、まだ眠そうな幼児。自転車は倒れなかったが、女性はハンドルを強く握りしめ、運転席を鋭くにらんだ。
「ちょっと……危ないじゃない! 」
しかし、車の中からは返事がなかった。ただ無言でドアが閉じられただけだった。
その場に立ち尽くした美緒は、身体中を不安が駆け巡るのを感じた。街の空気が、ほんの少しだけ重くなった。
お読みいただき、ありがとうございます。
表と裏、それぞれの動きが少しずつ重なり始めました。
次の章で、その距離がもう一歩だけ近づきます。




