プロローグ
白石美緒がその黒い車に気づいたのは、2月の終わりだった。落ち着いた住宅街の朝は、いつもと変わらず柔らかい。パンの匂い、小学生の声、通勤の自転車。美緒はいつものように明治通り沿いを歩いていた。
外壁工事中のビルの前に差しかかったとき、ふと足が止まった。清掃車スペースを、真っ黒なワンボックスカーがふさぐように停まっている。
最初は気にしなかった。だが通学のときだけじゃなく、愛犬の散歩の帰りでも、夜にコンビニへ向かう途中でも、変わらずそこに黒い車があることに、美緒は違和感を覚え始めていた。
自転車レーンは塞がれ、歩道に自転車が流れ込み、小学生の列のすぐ脇を、通勤の自転車が風のように抜けていく。近くの交差点にある和菓子屋の店主が、その様子を見て眉をひそめ、母親たちは歩道の端へ寄った。
ちょうどその横で、バスが黒い車を避けるようにゆっくりと車線変更していた。大きな車体が揺れ、後続の車が一斉にブレーキを踏む。
その光景を見たとき、美緒の脳裏の片隅に小さなざわつきが生まれた。
制服警察官が車の横で何かを注意しているのが目に映る。窓が少し開き、誰かがうなずくのが見えた。美緒の視線は自然とビルへ向かった。1階は小さな花屋。その地下に、最近できたパーソナルジムが入っている。黒い看板に金色のロゴ──街の色から浮いて見えた。
店の前には、アッシュブラウンの髪を逆立てた男が立っていた。タバコを吸い、吸い殻を指先で弾くように道路へ落とす。
「お姉さん、体験どうですか? 今なら安いですよ」
煙は花屋の前まで流れ、朝の空気を濁らせた。
その横で、黒髪をワックスで固めた細身の男が、ブランドコートの女性に軽い声をかけている。だがその笑顔は、街の音と混ざらない。別の周波数で響いているようだった。道には吸い殻が散らばり、人々は彼らを避けるように歩く。誰も何も言わない。
ただ“関わりたくない”という空気だけが残る。
ビル脇の階段の下から、金髪で左耳に大きな銀のピアスをつけた男が上がってきた。地下の店舗から出てきたのだ。美緒と一瞬、目が合うーー。男は視線をそらし、何事もなかったように歩き去った。
ほんの少し、何かが引っかかるような感覚を覚えた。
停車した黒い車。
塞がれた自転車レーン。
歩道に流れ込む自転車。
散らばる吸い殻。
客引きの声。
階段から上がってくる従業員たちの笑い。
全部が、街の空気から浮いている……。美緒はまだ知らなかった。この小さな不協和音が、やがて彼女の世界を変えていくことを。
お読みいただき、ありがとうございます。
久々に、違うものを書き始めました。
路上駐車で悩まされたノンフィクションの中から生まれたフィクションです('ω')




