22.オレの兄貴の名前は――。
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迷惑かけてしもたなぁって思う。
っていうか、オレはヘタ打つことが多いさかい、兄貴の世話になってばっかや。
このたびも、気ぃ遣わせてしもた。
そのつもりはなかったんやけど、結果的に、迷惑かけた。
かんにん、兄貴。
ホンマに余計な手間、強いてしもた。
なんの件やって、さっちんを泣かせてしもた件や。
うまく立ち回れへんかった。
あるいは察知のしようがない、仕方のないことやったんかもしれへんねやけど、女のコを泣かせてしもた時点で、男は阿呆のあかんたれや。
ガッコからの帰路。
左手でアキラっちの右手を握りながら、前に進む。
「会ってみたいぞ、イクミ」
「いきなり誰の話やぁ?」
「おまえの兄貴だ。大人物なんだろ?」
「そこまでは言わんけど」
「でも、いろいろうまく動いてくれてるくらいは見当がつくぞ」
「まあ、そうやな。そうとしか言えへんな」
「会わせろよ」
うきうきしたような顔で言うもんやから、「まあええぞ」と首を縦に振った。
「兄貴はなぁ、それこそ大したニンゲンなんやけど、さりとて変わり者であるわけでやなぁ」
「時間、とってもらえないか?」
「たぶん大丈夫や」
「ホ、ホントか?」
「しっかりしたヒトやさかいな」
「だったら、会わせてくれ。興味があるんだ」
せやったらまぁ、調整やな。
引き合わせたろうやないか。
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兄貴ぃ、オレの思い人が兄貴に会いたい言うてる。
電話口でそないなふうに打ち明けたところ、「いいぞ」と気持ちのええ返事があった。
「どうせおまえにとってヘヴィなニンゲン――いや、大切な女性なんだろう?」
「そないや言うたぞぅ。で、ホンマにおうてくれる?」
「土曜日にそちらに行く。待っておいてもらえ」
「はいな」
まったくウチの兄貴は物分かりがええ、良すぎるくらいや。
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コーヒーメーカーでコーヒー淹れて、ダイニングに戻ったところ、まぁるいちゃぶ台挟んでアキラと兄貴が向かい合ってた。
アキラは正座したまま俯いて恐縮してる格好、兄貴はというと、腕ぇ組んで難しい顔して、アキラのこと睨みつけてやる。
オレはちゃぶ台にコーヒーカップを並べつつ、「そない怖い顔しなや、兄貴」と釘を刺すようにして注意した。
「俺は何もしていない。黙っているだけだ」
「黙ってるだけでも、じつは兄貴は怖いんやって」
「そうか? ――って、ほんとうは頻繁に言われることではある」
「改める気は?」
「あるさ。だからなんとかする」
「おおきに」
「おまえのためじゃない。従って、礼には及ばん」
コ、コーヒー、もらっていいか?
アキラがそないなふうに、つんのめり加減に口ぃ利きやった。
アキラのとなりであぐらかいてるオレは、「どうぞぉ」と促した。
先に口にした兄貴が「相変わらずおまえの淹れるコーヒーはまずいな」とか憎まれ口、叩きやった。
余計なお世話や、気に入らんねやったら自分で淹れろって話や、そも文句はコーヒーメーカーに言えいう話や。
「こ、こないだの件」アキラが言う、やっぱつんのめりかげん――。「イクミの停学が一週間で済んだ件、お兄様がお力添えしてくださったおかげだと伺いました。ありがとうございます」
「こないだの件」、阿呆どもにさっちんが監禁されたことにまつわる諸々の件、オレが派手に動いたこともあってオレは退学扱いになってもおかしくなかったんやけど、兄貴が手ぇ尽くしてくれたさかい、めちゃくちゃ大事になったっちゅうわけやなかった。兄貴のおかげで穏便に済ませることができたっちゅうても過言やない。そのへん、アキラは兄貴に感謝してるっちゅうわけや。兄貴は兄貴でアキラのこと、悪くおもてるわけやないらしい。むしろかわいらしく感じてるんやろう、「いいんだよ」と言う表情は優しいもんやった。途端、ポッと顔を赤くしたアキラはすでに兄貴に骨抜きにされたんかもしれへんな。女っちゅう生き物なんやから無理もない。それほどまでに、男として、兄貴は魅力的や。
「おぉっ、お兄様」派手にどもったアキラっち。「お、お名前をお伺いしても、よろしいですか……?」
「ああ、イクミ、おまえは俺の名前すら教えていなかったのか?」なかば呆れたように、兄貴。
「べつにええやろ? そのうちこういう場面もあったんやろうし」
「俺はシャルだ。犀川シャルだ」
「……へっ?」アキラは心底戸惑ったような顔をして。「しゃる? って、平仮名ですか?」
「残念、カタカナだ」兄貴は悪戯っぽく肩をすくめてみせた。
へ、へっ?
とか、アキラは目を白黒させやる。
「驚かれても仕方ないが、俺はシャルなんだよ」と、も一度、兄貴は言うた。「どうしてシャルなのか知りたいか?」
目をぱちくりさせていたアキラは前のめりに、「ええ、ぜひっ」と訊ねた。
「アキラ嬢、ウチの実家のことはご存知かな?」
「北海道の、日高なんですよね?」
「そのとおり。実家は馬に子を産ませている。競走馬だ」
「そこまでは伺っていませんでした。スゴいですねっ」
「べつにスゴくはないんだよ。スゴいニンゲンがいるとするなら、それは俺の両親と牧場のスタッフだ」
兄貴はいつも正しいことをカッコよく言う。
「結論を言おう。シャルは死んでしまった仔馬の名だ」
「えっ」アキラっちが驚くのも無理はない。「どういうことですか?」
兄貴は「正確には死産だった」と言い――。
「死産……?」心許ない表情の、アキラ。
「シャルとは、次に産まれてくる子に付けられる名だったんだよ」兄貴はまるで懐かしむように言う。「その名に特に意味はないそうだ。いい響きだから選んだ……そんな名だ」
「死んでしまったんですか……」
「そう言ったぞ、アキラ嬢」
どうして、またなんで死んでしまったのか。
そのへん問うのは無意味だし、野暮だと悟ったらしい。
アキラっちは深く下を向き、物悲しそうに、呻くように「かわいそう……」とか呟いた。
「競馬は『ブラッドスポーツ』だというが、ウチは金持ちの牧場じゃあない。ゆえに、かな、血統的には劣っていても、どこの誰よりも自ららの馬を大切にする。あいだを端折ってしまうが、だからこそ、俺は自らの『シャル』という名を誇らしく思っている」
「立派です」勢いよく顔を上げると、アキラは勢い込んで言った。「シャルって、素敵ですっ!」
「保育園に幼稚園くらいまでは、『なんだ、その名前』って、馬鹿にされたものだったんだがな」
アキラはまた沈んだ顔をして――。
「シャル……シャルは、ほんとうに生まれてすぐに……?」
「そう言った」兄貴は言う。「そういうこともある。特段、珍しい事例ではないだろうさ」
じゃあ、お兄さんはシャルの分もしっかり生きなきゃ――ですね!」
――と、アキラっちは明るい顔で声で言った。
すると珍しいことに、あの兄貴がきょとんとなって。
それからすぐに、にこりと柔和な顔をして――。
「ああ、アキラ嬢、そのとおりだ。生まれた時から、俺は一つの命を背負い込んでいるんだ」
「素敵な考え方だと思います。とっても素敵な」
「ああ、そうだ。俺は素敵な男なんだ」
調子のええこと言うて、兄貴はわろた、鷹揚に。
それから唐突に、「お兄さんは、あたしに何か、心配なことはありますか?」って訊きやった。
何を言わんとしてるんか、一瞬ではピンとこぉへんかったんやろう、兄貴は目ぇ丸くしやった。
「えっと、その……」いかにも言いにくそうにアキラ。「あ、あのっ、あなたの弟さんとあたしがお付き合いさせていただくにあたっての、注意点を伺いたいんですっ」
すると兄貴はまるで破顔と言っていいくらい表情を緩めて。
「それはヒトに訊くことじゃあない。自ら悟り、実行すべきことだ」
今度はアキラ、大きく頷き、「確かにそうですね」と、もう一度うなずき――。
「良かったです。気に入った男の、っていうか男性のお兄様が、あなたみたいに素敵なヒトで」
「気に入った? 『好きになった』の間違いじゃなのか?」
「そそっ、それは――」
「照れてかわいいのは女性だけだ。その概念、大切にしたほうがいい」
兄貴がすっくと立ち上がった。
「送るわ、シャル兄」
「要らん」
「そう言わんといてよ」
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シャル兄のことを、JR蒲田駅で見送ったる。
みやげはこっちが寄越したらなあかんところなんやけど、兄貴は駅構内の「ベーグル&ベーグル」で大量に商品こうて、それを持たせてくれた。
「LINEにメール、論理的にはおまえたちのそばにいるわけだが物理的にはそうでもない。だからこそ、こういう場は大切にしたい」
大仰なふうにそない言うと、兄貴はアキラに握手を求めやった。
アキラは慌てたように急いた様子でしっかりその右手を両手で包んだ。
兄貴は二度三度とゆっくり頷きやると、至極にっこり笑んでみせやった。
おまえは生意気だし、弟としては、かわいくない部類なのかもしれないな。
そない言うてから、「ほんとうに、困ったときはいつでも呼んでくれてかまわない」とまた微笑んでくれた。
柄にもなく、嬉しくて嬉しくて、俺は泣きそうになってしもた。
実際、泣き顔みたいな感じやったことやろう。
せやからこそ、兄貴はオレに、デコピンかましてくれたんや。
「元気でな」
兄貴こそ、ずっと元気であってほしい。




