第七話 消えた影──首相令嬢失踪事件(5)
シンは車のエンジンをかけた。
外は薄曇りで、昼過ぎだというのにどこか沈んだ光をしている。
奥多摩へ向かう長い道のり。
俺は、シートベルトを締めながら、胸の奥のざわつきを抑えきれずにいた。
それは、誘拐された首相令嬢の命が危険にさらされているということもあるのかもしれない。
俺たちの行動で、何かが動いてしまう可能性がある。
良いふうに解決に向かえばいいけれど、そうではないこともあるだろう。
総裁選が関係しているのだとすれば、首相が不出馬を宣言すれば、令嬢が解放されるという可能性も出てくる。
ただそれは、首相の娘を誘拐するような人間が、次の首相になるということだ。
今の首相が良いのかどうか分からない。
たけど、こんな卑怯なやり方で降ろされるというのは、なんだか違う気もする。
「緊張しているのか?」
ハンドルを握るシンが、横目でさらりと聞いてきた。
視線は前を向いたまま、声だけが柔らかい。
「……うん、少し」
言いかけて、喉に言葉がつかえる。
自分でもよく分からない感情が、胸の奥に重たく沈んでいた。
シンの車が都心を離れ、山に向かって走り始めると、空気がふっと変わった。
ビルが消え、道路の先には濃い緑が広がっていく。
その景色を見ているだけで、心臓が強く脈打ち始める。
山道――。
そう、漣と別れた、あの夜の道と、どこか似ていた。
「凪」
名前を呼ばれると、跳ねるように肩が動いた。
「……怖いか?」
「……ちょっと、思い出しただけ」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「漣が……巻き込まれた時も、こんな道を走ってて……。もしかしたら、同じ匂いの場所だったかもしれないって思うと……」
無意識に、右手が震えていた。
気づかれたくなくて、太ももの上で握り込む。
ところが。
ハンドルから片手を離したシンが、そっと俺の指に触れた。
あまりにも自然な動作で、心臓が跳ね上がる。
俺はシンを見た。
シンは視線を道路から外さず、淡々とした声で言った。
「大丈夫だ。今度は俺がいる」
胸の奥がじわっと温かくなる。
恋愛的な意味じゃない。
でも、確かに守られていると分かる言葉だった。
「……うん」
◆
奥多摩へ向かう山道は、カーブが多い。
横の窓から見える景色は、濃い緑と深い谷ばかりで、都心とは違う世界に来たようだった。
そんな中、シンのスマホに、倉科刑事からの連絡が入った。
シンはイヤホン越しに短くやり取りし、すぐにまとめてくれる。
「白いバンが、湖の北側の道を通っていたという目撃情報があったらしい」
「……北側?」
「人が少なく、監視カメラもほとんどない。警察がまだ手をつけていない地域だ」
「でも、どうして北側に……?」
「“人に見られたくない”からだ」
シンの声は淡々としていたが、その奥には警戒の色があった。
「誘拐犯は慎重だ。監禁場所から移動するとき、必ず人目を避ける。特に今回は、政府中枢に影響するほどの事件だ」
「……首相令嬢、だもんね」
「そうだ」
車のスピードは落ちない。
シンの運転は、いつも冷静で迷いがない。
そのとき、俺の右耳の後ろが、じん……と痛んだ。
「……っ」
思わず手をあてる。
「どうした?」
「……いや……なんでも……」
言い淀む。
説明できない。
でも、確かに“何か”の気配を感じていた。
◆
奥多摩湖に着いたのは、昼下がりだった。
観光客の姿はほとんどなく、風が吹くたびに水面が冷たく揺れる。
「静かだな……」
湖を見下ろしながらつぶやくと、シンが車の鍵を切った。
「静かな分、音はよく響く。監禁するには悪くない」
その言葉を聞いて、背筋がすっと冷えた。
俺たちは湖の北側に入る。
車を降りると、辺りには木々の匂いと湿った土の匂いが広がっていた。
湖畔の道に沿って歩き始める。
「……この匂い……」
鼻の奥に、さっき視た残像の匂いが蘇る。
水しぶき。
鉄の匂い。
ガソリン。
「ここで……視た……気がする」
自分でもうまく説明できない。
でも、確かに身体が反応していた。
「凪、こっちだ」
シンの声に引かれて振り返ると、湖沿いの道の端に、妙なスリップ痕があった。
「……タイヤの跡?」
「雨も降っていない。泥のえぐれ方からして……1〜2日前だな」
シンは跪き、指で泥を軽くすくった。
「軽ワゴンタイプ。白いバンだ」
呼吸が止まりそうになる。
その瞬間、俺の指先に“何か”が走った。
(ざぱん……)
(光……)
(金属音……)
不意に襲ってくる断片。
ヘッドホンで視えたときよりは弱いが、確かに残留思念があった。
「……ここに、いた?」
俺のつぶやきに、シンも小さく息を飲む。
「凪。どういう意味だ」
「……分からない。強くはないけど……残ってる気がして……」
「行こう」
シンは即座に立ち上がり、地図を手に湖畔の奥へ進んでいく。
「この先に、古い作業小屋がある。地図上では数年前に使用停止になったままの場所だ」
俺は、胸の鼓動が速くなるのを抑えられずについていった。
◆
作業小屋は、木々に隠れるように建っていた。
壁は古び、屋根はところどころ錆びている。
なのに玄関の鍵だけが、新しい。
「……替えられてる」
「だろうな」
シンが鍵穴を覗き込み、軽く触れる。
「最近、誰かが開閉していた跡がある」
「じゃあ……やっぱり……」
中は真っ暗だった。
懐中電灯で照らしながら、中に入る。
そこは――空っぽだった。
しかし。
「……椅子の跡だな」
床に四角く残った色の違い。
壁にはロープが擦れた痕。
そして、かすかに香る芳香剤の匂い。
「ここで、誰かが長時間座らされていた」
「……首相令嬢?」
息が詰まる。
それを肯定するように、シンが無言で頷いた。
俺は、足元に残る小さな土の跡に触れた。
すると、短い残像が流れ込んだ。
(苦しい……歩けない……もう一回、引っ張られて……)
(湖の光……)
「……いた……ここに……」
震える声が出てしまう。
「……でも、もう移動させられてる」
そう言った途端に、背後からシンの低い声が聞こえた。
「凪、こっちを見ろ」
外に出ると、シンが作業小屋の裏側を指していた。
地面には、大小二つの足跡。
「大きい方は男。小さい方は……」
「……女性……?」
「ああ。これが彼女の足跡だろう」
心臓が跳ね上がる。
俺はそっと足跡に触れた。
(走りたい……逃げたい……でも、足が……)
(誰かに引っ張られる……)
(……怖い……)
「……生きてる……まだ、生きてる」
言葉が震える。
シンが静かに俺の肩を支えた。
「凪、落ち着け。お前の感覚は正しい」
そのとき――。
シンのスマホがけたたましく鳴った。
倉科刑事からだった。
「白いバンが、南側の湖畔道路で確認された! 助手席に誰かがいた可能性が高い!」
「……っ!」
全身の血が一気に駆け巡る。
シンは走り出し、俺もその後を必死で追った。
◆
車に戻った瞬間、シンがアクセルを踏み込む。
タイヤが砂利を跳ね、車体が前に飛ぶ。
湖の南側へ向かう山道は狭く、急なカーブばかりだ。
だがシンは全く迷わない。
心臓が痛いほど激しく動く。
もうすぐ――届く。
そんな気がしていた。
視界の端、カーブミラーに何かが映った。
赤い光――。
「……っ! シン!!」
「分かってる!」
シンがさらにアクセルを踏み込む。
見間違いじゃない。
確かに映った。
白いバンの、テールランプだった。
◆
「逃がすな……!」
シンの低い声が、車内に響く。
俺はシートを握りしめ、前方を凝視した。
たった一度映っただけの光なのに、それは確かに“生きている者の存在”を示していた。
首相令嬢は――まだ、この道の先にいる。
その確信だけが全身を駆け巡り、恐怖を押しのけた。
「凪。大丈夫だ。絶対に追いつく。倉科もすぐに合流する」
シンの言葉に、息が震える。
「……うん……!」
湖畔を走る白いバン。
追いかける黒い車。
濃い緑の中、二台の影がうねるように揺れながら走る。
(助けて…)
女性の声が聞こえたような気がした。




