第三話 消えた影──首相令嬢失踪事件(1)
倉科刑事は、分厚い封筒を机の上に置いた。
その仕草には、張り詰めた空気が纏わりついている。
資料を広げようとした瞬間、隣のシンが小さく指を鳴らす。
「凪。こっちへ」
ソファの端を軽く叩く。
そこはシンの“真横”の席だった。
少し迷った。
けれど、シンの視線は“座れ”と静かに命じている。
俺が隣に腰をおろすと、倉科さんが目を丸くした。
「おい神宮寺……お前、最近趣味変わったか?
かわいい助手なんて連れてよ」
からかうような声。
その言葉に、一瞬耳が熱くなる。
「……かわいく、ないです」
小さく反論すると、シンが即座に言った。
「かわいいかどうかはいい。
心強い助手だ」
「へぇ……お前がそんなこと言う日がくるとはな」
倉科さんはにやっと笑い、ソファに深く腰を沈めた。
◆
封筒の中から、数枚の写真が取り出される。
写っているのは、若い女性。
二十代前半。髪はダークブラウンで肩までの長さ。笑っている写真もあれば、証明写真のように真面目に撮ったものもある。
「この女性が、三日前に行方不明になった。
深夜にコンビニを出て、そのあと足取りが完全に途絶えた」
倉科さんの声は硬い。
事件としてはよくある──はずなのに、資料の扱いがどこか慎重すぎる。
シンが短く言った。
「倉科。何でもいい、今持っているものを貸してくれ」
「……あ? 何だよ急に」
「早く」
わずかに眉をひそめながら、倉科はポケットに手を入れる。
「ほらよ。車のキーだ。これでいいだろ」
金属の束が、シンの手に収まる。
彼は迷いなく、それを俺の方へ差し出した。
「凪」
その一言で、何をすべきか理解する。
俺はキーを両手で受け取り、そっと握り締めた。
◆
ひやりとした金属の感触が、指先から腕へと伝わる。
視界の端で、淡い色の影のようなものが揺れた。
断片が、流れ込んでくる。
すべては、ふわりと立ち上る程度の薄い残像。
ふと目を閉じると、霧のように散って消えていく。
俺はそっと息を吐いた。
「倒れたマグカップ…空っぽの冷蔵庫…壊れたドライヤー…」
「げっ」
倉科さんが目を見開く。
「つまり、こういうことだろう。今朝、おまえはコーヒーか何かをマグカップで飲もうとしてこぼした。冷蔵庫には食材が何も入っていなかったから、朝食はとっていない。その右側の髪に少し寝癖が残っているのは、ドライヤーが壊れていたからだ」
「……神宮寺。こいつ……何者だ?」
倉科さんがシンを見る。
シンは当然のように答えた。
「俺の助手だ。
優秀だろう?」
「いや優秀すぎだろ……
お前、あれだろ……湖の遺体を当てた外国人……」
「ジェラール・クロワゼのことだ」
「そうそれ! あれ思い出したわ!」
倉科さんは完全に興奮している。
「ジェラールって…何ですか?」
シンは「ああ」と気づいたように言い、俺に説明してくれた。
「オランダの超能力者だ。俺もおまえも生まれていないような時代に活躍していた。1970年代に来日し、行方不明の女児の居所を捜索した。結果、遺体を発見した。その始終をテレビカメラが映していたから、今でもネット動画などで話題になることがある」
「なるほど…超能力者なんですね…」
「おまえも似たようなものじゃないか」
倉科さんの言葉に、俺は慌てて首を振った。
「そ、そんな……すごいものじゃないです。
触れたものから、ほんの少し“ヒント”が見えるだけで……」
「いや、それで十分助かるんだよ!」
倉科さんが身を乗り出してくる。
「警察なんてよ、証拠がなけりゃ何もできねぇ!
でもお前、今の数秒で俺の朝全部当てたじゃねぇか!」
シンがわずかに眉を寄せる。
「倉科。落ち着け。
彼は俺の助手だ。
勝手に連れて行くなよ」
「分かってるって! 冗談だよ!」
倉科さんは手を上げて苦笑いした。
◆
笑いが少し収まると、倉科さんは深い息を吐いた。
「……まあ、こんだけ優秀なら助かる……
正直、今回の事件、手詰まりだったからな」
声の調子が変わる。
空気が重くなっていく。
「行方不明のこの女性──」
写真を軽く叩きながら、倉科さんが低く告げる。
「首相の娘だ」
室内の温度が一瞬で変わったように感じた。
「…………え」
声が喉にひっかかる。
失踪事件だと思っていたものが、
国家レベルの誘拐事件へ跳ね上がる。
倉科さんは続けた。
「報道はまだされてない。
パニックになるのを避けるため、極秘で動いてる」
「犯人の要求は?」
「まだ何も来てない。
だからこそ……嫌な予感がする」
倉科さんの眉間に深い皺が刻まれた。
「もし身代金目的なら、もっと早く何か言ってくるはずだ。
沈黙が一番……不気味なんだ」
俺の背中に冷たい汗が流れた。
シンが静かに言った。
「……倉科。依頼内容を整理して話せ」
「ああ」
倉科さんは姿勢を正し、改めて資料を広げる。
「神宮寺。
お前の嗅覚と……彼(凪)の力が必要だ」
俺は息を呑んだ。
そんな大きな事件に、俺が関わるなんて──。
シンはそっと、俺の手首に触れた。
強引でも優しすぎるでもなく、
“支えている”と分かる絶妙な力加減で。
「大丈夫だ。
お前はヒントをくれるだけでいい。
あとは俺が繋げる」
その声だけを頼りに、
俺はぎゅっと拳を握った。
(……漣のために働くつもりだったのに……
こんな大きな事件まで……)
でも──胸の奥で
シンの手の温度だけが
やけに心強く響いた。




