第二話 隠すなら森の中
朝の光が、窓から静かに差し込んでいた。
ベッドにはもう、シンの姿はなかった。
いつの間にかちゃんとパジャマを着ていて驚いたが、自分で着たのかシンが着せてくれたのかは記憶にない。
新しい家、新しい生活。
そして──新しい関係。
胸の中に残るかすかな痛みと、何とも言えない温もりを思い出すたび、鼓動が変に跳ねた。
◆
朝の光が差し込む洋室のベッドで眠る漣の布団をそっとめくる。
寝癖のついた髪が、子どもみたいで可愛い。
呼吸は穏やかだ。
その横で、中年のお手伝い・春川志乃さんがシーツを整えていた。
「凪くん、おはよう。今日から初出勤ね。緊張してるでしょう?」
「……まあ、ちょっとだけ」
志乃さんは柔らかい笑みを浮かべた。
昨日の夕食のときもそうだったが、この人の存在は、家の空気をふわりと和らげる。
廊下の方から、低い声が聞こえた。
「漣くんの朝ごはん、用意しておいたからな」
父親の秘書を務めていたという、初老の男性──時任省吾さんだ。
威圧感のある見た目とは裏腹に、声は驚くほど落ち着いて優しい。
漣も、時任さんには昨日のうちにすっかり懐いていた。
振り返ると、漣が眠そうに目をこすりながら起き上がっていた。
昨日は引っ越しだったし、きっと疲れているんだろう。
「漣、もう少し寝ていたら?疲れてるだろ?」
「……うん」
眠たげに目をこする漣の頭を撫でる。
志乃さんがそっと漣の手を取り、「心配しないで」と目で合図してくれる。
少し、胸が軽くなった。
◆
玄関へ向かうと、ガラス越しに黒い車が見えた。
神宮寺真也──シンが、いつもの無表情でハンドルを握っている。
「行ってきます」
二人に頭を下げ、玄関を出た。
助手席に乗り込むと、シンがこちらを一度だけ見た。
「体調は問題ないか?」
体調…というのは、引っ越しの疲れを気にしてくれているのか、それとも昨夜の行為のことを気にしているのか。
とりあえず、無難に返事をしておいた。
「……大丈夫です」
「それなら安心だ」
車が静かに住宅街を抜けていく。
「何か不足している物はないか?」
「いえ。十分すぎるくらいです」
昨夜あてがわれた部屋も、衣類も、何もかも整っていた。
漣のために用意された環境だと分かっていても、それでもありがたかった。
「……あの、運転が必要なときは言ってください。俺、できますから」
「そういえば、君は免許を持っているんだったな」
「はい。施設の補助で取りました。
あと、役に立つかどうか分かりませんが、調理師免許も持ってます」
「すごいな」
褒められたというより、感心したような声だった。
数秒の沈黙。
「……シンさん」
「シンでいいよ」
そう言われるだろうとは思っていたが、
呼び捨てにするのは、思った以上に難しい。
「……シン」
かすれた声になった。
シンは、わずかに目を細めた。
それは微笑ではないが、拒絶でもない。
たぶん、肯定の色。
「聞きたいことがあります」
「何でも聞いていい」
シンは道路から目を離さず、そのまま答えた。
「Nシステムのこと……
シンが知ってるなら、当然警察も知っていますよね?」
「そうだな」
俺は拳を握る。
ずっと喉に刺さっていた疑問。
「警察が……漣を疑う可能性は?」
「それは大丈夫だ」
即答だった。
あまりに迷いがなさすぎて、むしろ不安になる。
「……どうしてそんなことが言えるんですか?」
「管轄の中野中央署は今、別件で手一杯だ。
前科六犯の男の件に割ける人員はない。
四方八方から恨みを買っていた人物だ。
“誰が殺してもおかしくない”と考えられている」
シンの声は、淡々としていた。
「でも……いつか捜査が再開されたら」
「心配ない。
君たちが捜査対象にならないようにできる」
「どうやって……?」
「実は今日、その事件の担当署の刑事が事務所に来る。
そこで君を紹介する。
“俺は警察からこの事件の調査依頼を受けていた。
その過程で君たちに出会い、事情を知って保護した──”という形にする」
「……それで、通るんですか?」
「隠すなら森の中、という言葉があるだろう」
「意味が……分からなくて」
「犯人が警察関係者の懐にいるなんて、誰も思わない。
それだけのことだ」
その言葉で、背中に冷たいものが走った。
「……シンって、元警察官なんですね」
「ああ」
「探偵をするために辞めたんですか?」
そう聞いた瞬間、シンは珍しく笑った。
嘲りでも皮肉でもない、くすっとした笑い。
「違うよ。
さすがに探偵のために警察は辞めない」
「じゃあ……どうして?」
「ちょっとやらかしたんだ。
犯人を取り逃がしてな。
世間の注目を浴びていた事件だった」
「世間の…」
「中野の資産家夫婦殺人事件。知ってるだろ?」
車内の空気が少しだけ変わった。
飲食店のテレビでも、バイト仲間の会話でも、あの事件の話題は出ていた。
「……シンが、捜査担当だったんですね」
「まあな。
今日来る刑事もそのときの同僚だよ」
俺はゆっくり息を吸い込んだ。
何となく、いろんなことが腑に落ちた。
(……だから、堂々と警察を欺けるのか)
車線変更のときのミラー確認が、妙に正確で無駄がない。
“ああ、元警察官なんだな”と改めて納得した。
◆
車は大通りを抜け、少し奥まった住宅エリアへ入った。
静かなマンションの前で停まる。
「ここが、事務所だ」
エントランスを抜け、エレベーターで五階へ。
落ち着いた内装の廊下。
シンが扉を開けると、少し広めのワンルームのような空間が広がった。
「……綺麗ですね」
「父から受け継いだ場所だからな。
好きに使ってくれていい」
俺は小さくうなずいた。
机の上にはノートパソコン。
壁には書類棚。
奥に、簡易的だが応接スペース。
“働く”という実感がようやく湧いてきた。
◆
扉のチャイムが鳴った。
シンが立ち上がる。
「来たな」
ドアを開けると、がっしりとした体格の男が立っていた。
三十代前半。シンと同世代のように見える。スーツもヨレていない。
「おい神宮寺、生きてたか」
「お前こそな、倉科」
軽口を叩き合うように見えるが、どこか互いを値踏みしている空気がある。
目つきは鋭いが、シンを見るときだけわずかに眉がゆるむ。
倉科は俺を見る。
「……新人か?」
「俺の助手だ。少し事情があってな。
今は保護している」
「お前が“保護”なんて言葉を使うとはな」
倉科の視線が俺を探る。
しかし、シンのそばにいるというだけで、その警戒心はじわりと薄れていく。
(これが……シンの言う“森の中”か……)
警察内部の人間が、一度正式に“確認した人物”として扱う。
その時点で、俺も漣も“容疑者リストの外”へ押し出される
倉科は椅子に座り、深く息を吐いた。
「ところで神宮寺、
また奇妙な失踪があってな。お前に頼みたい」
「失踪?」
「若い女性だ。
三日前に突然行方が分からなくなった」
思わず眉間に力が入った。
(また、事件……)
「捜査協力は正式に依頼する。
……いつものように頼む」
「分かった」
どうやらこうして刑事がシンに事件の捜査協力を依頼するのは、そう珍しいことではなさそうだった。
昨夜シンが言った言葉が蘇る。
“君の能力は、俺の事務所で役に立つ”
(役に立たないと…それが漣の居場所を守ることになるから)




