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第二話 隠すなら森の中

 朝の光が、窓から静かに差し込んでいた。

 ベッドにはもう、シンの姿はなかった。

 いつの間にかちゃんとパジャマを着ていて驚いたが、自分で着たのかシンが着せてくれたのかは記憶にない。


 新しい家、新しい生活。

 そして──新しい関係。


 胸の中に残るかすかな痛みと、何とも言えない温もりを思い出すたび、鼓動が変に跳ねた。



 朝の光が差し込む洋室のベッドで眠る漣の布団をそっとめくる。

 寝癖のついた髪が、子どもみたいで可愛い。

 呼吸は穏やかだ。


 その横で、中年のお手伝い・春川志乃さんがシーツを整えていた。


「凪くん、おはよう。今日から初出勤ね。緊張してるでしょう?」


「……まあ、ちょっとだけ」


 志乃さんは柔らかい笑みを浮かべた。

 昨日の夕食のときもそうだったが、この人の存在は、家の空気をふわりと和らげる。


 廊下の方から、低い声が聞こえた。


「漣くんの朝ごはん、用意しておいたからな」


 父親の秘書を務めていたという、初老の男性──時任省吾さんだ。


 威圧感のある見た目とは裏腹に、声は驚くほど落ち着いて優しい。

 漣も、時任さんには昨日のうちにすっかり懐いていた。

 振り返ると、漣が眠そうに目をこすりながら起き上がっていた。

 昨日は引っ越しだったし、きっと疲れているんだろう。


「漣、もう少し寝ていたら?疲れてるだろ?」


「……うん」


 眠たげに目をこする漣の頭を撫でる。

 志乃さんがそっと漣の手を取り、「心配しないで」と目で合図してくれる。


 少し、胸が軽くなった。



 玄関へ向かうと、ガラス越しに黒い車が見えた。

 神宮寺真也──シンが、いつもの無表情でハンドルを握っている。


「行ってきます」


 二人に頭を下げ、玄関を出た。


 助手席に乗り込むと、シンがこちらを一度だけ見た。


「体調は問題ないか?」


 体調…というのは、引っ越しの疲れを気にしてくれているのか、それとも昨夜の行為のことを気にしているのか。

 とりあえず、無難に返事をしておいた。


「……大丈夫です」


「それなら安心だ」


 車が静かに住宅街を抜けていく。


「何か不足している物はないか?」


「いえ。十分すぎるくらいです」


 昨夜あてがわれた部屋も、衣類も、何もかも整っていた。

 漣のために用意された環境だと分かっていても、それでもありがたかった。


「……あの、運転が必要なときは言ってください。俺、できますから」


「そういえば、君は免許を持っているんだったな」


「はい。施設の補助で取りました。

 あと、役に立つかどうか分かりませんが、調理師免許も持ってます」


「すごいな」


 褒められたというより、感心したような声だった。


 数秒の沈黙。


「……シンさん」


「シンでいいよ」


 そう言われるだろうとは思っていたが、

 呼び捨てにするのは、思った以上に難しい。


「……シン」


 かすれた声になった。


 シンは、わずかに目を細めた。

 それは微笑ではないが、拒絶でもない。

 たぶん、肯定の色。


「聞きたいことがあります」


「何でも聞いていい」


 シンは道路から目を離さず、そのまま答えた。


「Nシステムのこと……

 シンが知ってるなら、当然警察も知っていますよね?」


「そうだな」


 俺は拳を握る。

 ずっと喉に刺さっていた疑問。


「警察が……漣を疑う可能性は?」


「それは大丈夫だ」


 即答だった。

 あまりに迷いがなさすぎて、むしろ不安になる。


「……どうしてそんなことが言えるんですか?」


「管轄の中野中央署は今、別件で手一杯だ。

 前科六犯の男の件に割ける人員はない。

 四方八方から恨みを買っていた人物だ。

 “誰が殺してもおかしくない”と考えられている」


 シンの声は、淡々としていた。


「でも……いつか捜査が再開されたら」


「心配ない。

 君たちが捜査対象にならないようにできる」


「どうやって……?」


「実は今日、その事件の担当署の刑事が事務所に来る。

 そこで君を紹介する。

 “俺は警察からこの事件の調査依頼を受けていた。

 その過程で君たちに出会い、事情を知って保護した──”という形にする」


「……それで、通るんですか?」


「隠すなら森の中、という言葉があるだろう」


「意味が……分からなくて」


「犯人が警察関係者の懐にいるなんて、誰も思わない。

 それだけのことだ」


 その言葉で、背中に冷たいものが走った。


「……シンって、元警察官なんですね」


「ああ」


「探偵をするために辞めたんですか?」


 そう聞いた瞬間、シンは珍しく笑った。


 嘲りでも皮肉でもない、くすっとした笑い。


「違うよ。

 さすがに探偵のために警察は辞めない」


「じゃあ……どうして?」


「ちょっとやらかしたんだ。

 犯人を取り逃がしてな。

 世間の注目を浴びていた事件だった」


「世間の…」


「中野の資産家夫婦殺人事件。知ってるだろ?」


 車内の空気が少しだけ変わった。


 飲食店のテレビでも、バイト仲間の会話でも、あの事件の話題は出ていた。


「……シンが、捜査担当だったんですね」


「まあな。

 今日来る刑事もそのときの同僚だよ」


 俺はゆっくり息を吸い込んだ。

 何となく、いろんなことが腑に落ちた。


(……だから、堂々と警察を欺けるのか)


 車線変更のときのミラー確認が、妙に正確で無駄がない。

 “ああ、元警察官なんだな”と改めて納得した。



 車は大通りを抜け、少し奥まった住宅エリアへ入った。

 静かなマンションの前で停まる。


「ここが、事務所だ」


 エントランスを抜け、エレベーターで五階へ。

 落ち着いた内装の廊下。

 シンが扉を開けると、少し広めのワンルームのような空間が広がった。


「……綺麗ですね」


「父から受け継いだ場所だからな。

 好きに使ってくれていい」


 俺は小さくうなずいた。


 机の上にはノートパソコン。

 壁には書類棚。

 奥に、簡易的だが応接スペース。


 “働く”という実感がようやく湧いてきた。



 扉のチャイムが鳴った。


 シンが立ち上がる。


「来たな」


 ドアを開けると、がっしりとした体格の男が立っていた。

 三十代前半。シンと同世代のように見える。スーツもヨレていない。


「おい神宮寺、生きてたか」


「お前こそな、倉科」


 軽口を叩き合うように見えるが、どこか互いを値踏みしている空気がある。

 目つきは鋭いが、シンを見るときだけわずかに眉がゆるむ。


 倉科は俺を見る。


「……新人か?」


「俺の助手だ。少し事情があってな。

 今は保護している」


「お前が“保護”なんて言葉を使うとはな」


 倉科の視線が俺を探る。

 しかし、シンのそばにいるというだけで、その警戒心はじわりと薄れていく。


(これが……シンの言う“森の中”か……)


 警察内部の人間が、一度正式に“確認した人物”として扱う。

 その時点で、俺も漣も“容疑者リストの外”へ押し出される


 倉科は椅子に座り、深く息を吐いた。


「ところで神宮寺、

 また奇妙な失踪があってな。お前に頼みたい」


「失踪?」


「若い女性だ。

 三日前に突然行方が分からなくなった」


 思わず眉間に力が入った。


(また、事件……)


「捜査協力は正式に依頼する。

 ……いつものように頼む」


「分かった」


 どうやらこうして刑事がシンに事件の捜査協力を依頼するのは、そう珍しいことではなさそうだった。


 昨夜シンが言った言葉が蘇る。

 “君の能力は、俺の事務所で役に立つ”


(役に立たないと…それが漣の居場所を守ることになるから)

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