庭に咲く約束_2
「大丈夫ですか、エマ嬢。こちらへ歩けますか」
伯爵に支えられ、エマは近くのベンチに腰を下ろす。隣に座る伯爵からは、なんとも言えない好ましい香りがした。その香りを胸いっぱいに取り込むように深呼吸をする。しばらく繰り返し、ようやくエマは落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます、伯爵様。……落ち着いたようです」
ふと、自分の格好を思い出す。土まみれの作業用の衣服。それにひっつめ髪。とても貴族の令嬢とは思えない。
「あ、この格好は、その……」
「エマ嬢が草花や青果に精通されていることは存じております。何の問題もございません」
「あ……ありがとうございます……」
顔から火が出そうだった。
「本日はお早いお越しでしたのね」
「午前の用事が早く済みましたので、令嬢とのお約束の前に、グランフォード公爵にご挨拶へ伺うところでございました。ご挨拶が遅れた無礼をお許しください」
「そんな、こちらこそ、このような格好で……」
ふたりして頭を下げていると、ザっという音とともに風が吹いた。エマと伯爵は、ふと風の吹く方向に顔を向ける。
そこには一本の梅の木が揺れていた。
「あの木は……梅でしょうか?」
伯爵が尋ねる。
「ええ。ご存じなのですね。雪の降る頃には美しい花が咲くのです。私、その花がとても好きなんです」
――それに、初夏には美味しい梅も成るしね、と心の中でエマは微笑む。
「こどもの頃、父にお願いして取り寄せていただいた、大事な木なんですよ」
「愛されておいでなのですね」
「ええ、父には感謝しています」
梅の木は、前世で清一さんと暮らした家の庭に植えていた思い出の木。ふたりで手入れをし、雪の季節には一緒に眺めた。今でもそれは、エマの宝物だ。
「私も、最後に見たのはもう何十年も前になりますが……とても美しい花が咲いていたことを覚えています」
伯爵が、木を見上げる。
その美しい横顔を見つめながら、エマは思った。
――エマとしての人生はもう長くない。あと数年の人生を、この方と共に歩めたら、きっと幸せだろう。
伯爵様はお困りになるかしら。若い妻を早くに亡くすことになるでしょう。
でも噂が本当であれば、伯爵様には他に想う方がいらっしゃる。絵画に描かれた女性を慈しんでおられるとか。長年お一人なのは、結ばれぬ恋なのかもしれない。
だったら、私がいなくなっても、この方はきっと生きてゆける…
私は、早川百合子の記憶を持つけれど、今世の名はエマ・グランフォード。
エマとして、結婚するなら、この方以外にはいない。
「伯爵様。私を妻にしていただけませんか」
ぽつりと呟いた。リーリエ伯爵は驚いたようにエマを見つめる。エマは視線を外さずに、続けた。
「無理にとは申しません。伯爵様が不都合に思われるのであれば、父には私からお断りしたと申し上げるつもりです」
エマは、断られると思っていた。
――小娘の戯れ言だわ。でも、それで良い。清一さんに似たこの方が、今世の私の人生に現れてくださっただけでも、奇跡のようなもの。ほんのひととき、懐かしさを感じられて、私は嬉しかった。
前世では清一さんに別れ際、愛していると言えなかったのだもの。後悔なく生きたい。
「ご令嬢に先に言わせてしまった非礼を、お詫びいたします」
「え……?」
伯爵はエマの正面に向き直り、膝をついた。
「エマ・グランフォード様。どうか私と、生涯を共にしていただけませんか」
思いがけない言葉だった。これは……つまり、結婚を承諾してくださるということ?
「……願ってもないお言葉です」
「こんな年寄りがお相手で、よろしいのですか?」
「こちらこそ、こんな病弱がお相手で……よろしいのでしょうか?」
ふたりは見つめ合い、ふっと笑い合った。
遠くで医師を引っ張ってくるルーベンの姿が見える。
エマはルーベンに向けて手を掲げ、元気であることを示した。
慎ましい、けれど確かにあたたかな――幸せの瞬間だった。