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百合子の回想_清一の出征2(百合子視点)

 その朝は、重たい雲が空を覆っておりました。


 出征の日、清一さんはきちんと詰襟の軍服を着て、玄関に立っていました。

 見慣れたはずの背中が、いつもよりずっと遠く感じられる。

 胸の奥がぎゅっと痛むのを感じました。


 駅までの道のり、私たちはほとんど言葉を交わせませんでした。

 隣を歩く清一さんの歩幅はゆっくりで、まるで少しでも一緒にいようとしてくれているようでした。


 ――雪が咲いたら、白いご飯を食べよう。


 その約束を思い出して、私は唇を噛んだ。

 清一さんは、それに気づいたのか、そっと私の手を握りました。


 「大丈夫。僕は死にません」


 静かな声だったけれど、強さがありました。

 私はただ、黙ってうなずくだけでした。




 駅のホームには、同じように家族を送り出す人々の姿。

 笑って見送る人、泣いてすがる人、遠くから黙って見守る人……。


 汽笛が、遠くから響く。


 その音に、心がざわめきました。

 まるで、自分の体の奥底で、何かが千切れる音のようでした。


 心が張り裂けそう。

 けれど、言えない。


 「行かないで」

 「お願い」

 「ずっと、そばにいて」


 でも、口にすれば、誰かに咎められる。

 “はしたない”と、“非国民”と、睨まれる時代でした。


 私は唇をかみしめて、目をそらしました。

 清一さんの顔が、滲んでよく見えません。


 それでも、せめて、何か言葉を――。


 震える唇から、やっとの思いで出たのは、気持ちとは違う言葉でした。


「……どうぞ、お国のためにご健闘くださいませ……」


 自分が、嫌になる。

 本当の気持ちを押し殺し、誰かの目を恐れて、誰かが望む言葉だけを口にして――。

 それでも、私の胸の内はすべて、清一さんに届いてしまったのでしょう。


 彼は、ほんの少しだけ微笑んで、そっと耳元に顔を寄せました。


 「百合子さん……必ず、生き抜いて」


 低く、けれどはっきりとした声。

 命の重さを知る人の声でした。


 泣いてはいけないと分かっていた。

 でも、その言葉で、どうしても涙がこぼれてしまった。


 「清一さんも、お願い、生きて」


 私が唯一絞り出せた言葉はそれだけでした。


 清一さんは何も言わず、そっと私の手をとり、今まで感じたことのないほど力強く握りました。

 そうして、ゆっくりと彼の手は離れてゆきました。




 動き出す車両。白い煙。風の中の機械油の匂い。


 私は、手を振った。何も言えず、ただ、懸命に。


 遠ざかる窓の中で、清一さんが最後に笑った気がしました。

 それは、現実味がなく、まるで夢の中のようにぼんやりとしていました。


 やがて汽車は、カーブの向こうへと消えてゆきました。




 残されたホームで、私は静かに立ち尽くしました。

 手の中には、あの日の写真。

 彼と撮った、たった一枚の記念。


 私はそれを胸に抱きしめ、空を見上げました。


 重たい曇り空。梅のつぼみは、まだ固いまま。

 風が吹く。


 生きなければ、と思ったのでした。

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