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百合子の回想_清一の出征1(百合子視点)

 清一さんが早川家の婿となって、早いもので二年が経ちました。

 清一さんは、初めこそ父の事業を手伝っていたけれど、戦時色が濃くなるにつれ、今では近隣の軍事工場で軍需供給の一端を担い、夜には地域防衛の持ち場に立つようになっていました。


 私はというと、身重の身。まだつわりが完全には抜けきらず、夕餉(ゆうげ)の匂いを嗅ぐたびに胸の奥が波立つこともありました。しかし、それでも畑に出て、土に手をかけることを日課としていました。おなかの子に、せめてひと匙でも多くの栄養をと思えば、じっとしてなんていられません。


 世間では、近所の若い男衆(おとこし)が次々と徴兵されてゆきました。

 誰もはっきりと口にしないけれど、悪くなる一方の戦況を、皆どこかで感じておりました。


 ーーーーーーー


 ある晩のことです。

 土間の戸が開き、夜風とともに清一さんが帰宅しました。

 額にはうっすらと汗をにじませ、薄暗い灯りの中、疲れたような、それでもどこかほっとした顔をしていました。


「おかえりなさい。お味噌汁、まだ温かいわ」


 そう声をかけると、清一さんは「ありがとう」と優しく笑って、私の隣に座りました。


 食卓には、味の薄い芋の煮付けと漬け物、それにお湯のようなお味噌汁。

 いつものように、質素で、どこか申し訳ないような献立。


「……毎日こんな食事ばかりで、ごめんなさい」

 思わずぽつりと漏らした私に、清一さんはお箸を置いて、ふっと目を細めました。


「謝らないで。……僕は、百合子さんとこうして食卓を囲めるだけで、幸せです」


 その言葉に、胸がじんと熱くなります。

 私はお腹をそっと撫でながら、ふいに口を閉じました。


 すると、清一さんが言ったのです。


「……雪が咲いたら、白いご飯を食べませんか」


 私は驚いて顔を上げました。

 けれど彼は、ただ穏やかに笑っていました。


 “雪が咲いたら”。

 それは、私たちふたりの小さな合言葉でした。


 雪が咲く――つまり、庭の梅が花をつける頃。

 この子が生まれるであろう、早春のとき。


 白いご飯。

 それは今となっては贅沢の極み。けれどその言葉には、祝いの気持ちと、未来への希望が込められていました。


「ええそうね…………この子の生まれたお祝いに」


 そう言って笑うと、清一さんは私のお腹にそっと耳を寄せ、冗談めかしてこう囁きました。


「安心して生まれておいで」


 ――生活は苦しかったけれど、ささやかで、幸せなひとときでした。



 *



 しかしその願いを、容赦なく引き裂くものが届いたのは、それから数日後のことでした。


 その晩、玄関で靴を脱いだままの清一さんが、何かを手にじっと立ち尽くしていました。


「……清一さん?」


 問いかけた私の声に、彼はゆっくりと顔を上げました。


 その手に握られていたのは、一枚の封書。


 ――赤紙。


 私の胸に、冷たい風が吹き抜けたようでした。


 ああ、ついに。

 そう思った瞬間、口から漏れたのは、まるで他人事のような言葉でした。


「……おめでとうございます」


 それは、誰もが口にする定型の言葉。

 でも、言いながら、止めようもなく、涙が頬を伝って零れてゆきました。


 清一さんは、そっと私の手を握ってくれました。


「百合子さん……写真を撮りませんか?」


 私は涙を拭いながら顔を上げる。


「でもこの時分、そんな贅沢……」


「こんなときだから、です。……お願いです」


 その言葉に、私は頷くしかありませんでした。

 断れるはずがなかった。




 となり町にある、松林の傍の小さな写真館。

 灯りも控えめで、昔ながらの看板が残るその場所は、まだ頼めば写真を撮ってくださると聞いていました。


 私たちはひっそりと訪れ、ふたり並んで、店主の老紳士に写真を撮っていただきました。


 椅子に座る私の隣に、清一さんがぴたりと寄り添って立ってくれる。

 少し緊張した面持ちの私の手を、そっと彼が握ってくれました。


 それだけで、心があたたかくなったのでした。


 出来上がった写真は二枚。

 お互い、どちらの写真を取るとも言わず、自然に一枚ずつ分け合いました。


「肌身離さず、持っています」


「……ええ、私も」


 それが、私たちの小さな約束でした。

 まるで、その一枚に、未来への祈りを込めるかのように――。

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