百合子の回想_青年期1(百合子視点)
季節は秋から冬へと移ろう頃。
このころ私は女学校を卒業し、父の勧めで華道と茶道の教室に通うようになっておりました。
家の庭に風が抜けるたび、縁側から見える木々の枯葉がちらちらと舞い、美しくて、そしてどこか寂しい。
「……今日は寒いですね」
後ろから聞こえてきたのは、少し低くなった清一さんの声。
「百合子さん。お茶を持ってきました」
振り返ると、湯気の立つ湯呑を盆に乗せた清一さんが、静かに立っています。
あのとき川で助けてから、彼は一変しました。言葉少なではあるけれど、逃げるようなことはなくなり、私のそばにそっと寄り添ってくれるようになったのです。
それでも、彼は私を「お姉さん」とは呼ばず、「百合子さん」と呼びました。
その響きがなんだか他人行儀で、私は少し寂しく感じておりました。
「ありがとう、清一さん。ちょうど欲しいと思っていたところなの」
「どうぞ」
彼は私の向かいに正座し、じっと私の表情を見つめます。
私は見られていることが落ち着かず、静かにお茶をすすってみました。
いつからだったでしょう。
清一さんの背丈はとうに私を追い越し、声も低く、落ち着いたものに変わっていました。
細かった腕にはしなやかな筋肉がつき、衣服の下から覗く首元も、どこか逞しさを帯びています。
私が清一さんばかりずるいわと言うと、
「最近、身体を鍛えているのです。お父様のすすめで」
そう笑った清一さんは、もう少年ではなく、しっかりと“男性”の顔をしていました。
「……最近、軍に志願する級友が増えてきました」
ふいに、彼が言いました。
「誰かが行かなければ、いけない。でも、自分が行ったら、百合子さんが悲しむんじゃないかって……そう考えると、どうしても決断がつかないんです」
「清一さん……」
「百合子さん」
急に名前を呼ばれて、私は少し驚きます。
「はい」
「……百合子さんは、僕の気持ちにもうお気づきでしょう」
さらりとした口調ではありませんでした。
まるで、体の奥底から掘り出したような声だったのです。
私は思わず息を呑みました。
ずっと弟のように思っていました。あの細い背を守らなければと、姉のような気持ちで。
でも、いつからか彼の視線に――静かで、けれど熱のある眼差しに、私は気づかないふりをしていたのです。
「……清一さん」
私が名を呼ぶと、彼はまっすぐこちらを見ました。
少年の頃のような不安げな目ではない。
ただ、真剣に、私というひとりの女性を見つめて。
「私、年上なのよ。あなたよりも、二つも」
「それでも、僕は……百合子さんが好きです。昔も今も、ずっと……」
静かで、けれど確かに響く言葉。
風が庭の葉を揺らす音。
私は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめました。
胸が、苦しい。
これはたぶん――とても嬉しくて、そして、少しだけ怖い気持ち。
どう返事をすればよいのか分からない。
けれど、ただひとつ言えることは、目の前にいるこの人は――もう、私の知っている“弟”ではありませんでした。
「……百合子さんは、僕のこと……子どもに見えますか?」
彼は不意に、そんなことを聞いてきました。
「そんなことないわ……」
取り繕おうとするけれど、言葉が追いつかない。
清一さんは、ゆっくりと立ち上がり、そっと私の前に膝をつきます。
「あの日……川で助けてくださったあのときから、僕は百合子さんのことをずっと……」
息が止まりそうでした。
近くで見る清一さんの顔は、どこまでもまっすぐで美しい。
目をそらそうとしても、引き込まれてしまいそう。
唇が動いた。けれど声にならない、小さな言葉。
「……だめよ」
「どうしてですか」
「だって、あなたは……」
――まだ若いもの。
――私なんかより、きっともっと似合う人が。
言葉にならない想いが胸の奥で渦巻く。
それを押し込めて、私は顔を背けました。
そのとき。
そっと、私の手が取られたのです。
「僕は……百合子さんじゃないと、だめなんです」
手のひらから伝わる熱が、心をじんわりと溶かしていきます。
大きくなったその手が、私の手を優しく包み込んでおりました。
思えば――あの川の日から、私たちの関係は、少しずつ、でも確かに変わってゆきました。
それが、今ここで、言葉になっただけ。
私はそっと息を吐いて、彼の手を見下ろします。
しっかりとした骨格。日に焼けた指先。
ああ、こんなにも男の人の手になったのね、清一さん。
「……もう少し、考えさせてください」
やっとの思いで、そう口にした私に、彼は静かに頷きました。
「はい。待ちます。何年でも」
その言葉に、私の胸がまたきゅっと痛んだのです。