表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/112

百合子の回想_青年期1(百合子視点)

 季節は秋から冬へと移ろう頃。

 このころ私は女学校を卒業し、父の勧めで華道と茶道の教室に通うようになっておりました。

 家の庭に風が抜けるたび、縁側から見える木々の枯葉がちらちらと舞い、美しくて、そしてどこか寂しい。


「……今日は寒いですね」


 後ろから聞こえてきたのは、少し低くなった清一さんの声。


「百合子さん。お茶を持ってきました」


 振り返ると、湯気の立つ湯呑を盆に乗せた清一さんが、静かに立っています。

 あのとき川で助けてから、彼は一変しました。言葉少なではあるけれど、逃げるようなことはなくなり、私のそばにそっと寄り添ってくれるようになったのです。


 それでも、彼は私を「お姉さん」とは呼ばず、「百合子さん」と呼びました。

 その響きがなんだか他人行儀で、私は少し寂しく感じておりました。


「ありがとう、清一さん。ちょうど欲しいと思っていたところなの」


「どうぞ」


 彼は私の向かいに正座し、じっと私の表情を見つめます。

 私は見られていることが落ち着かず、静かにお茶をすすってみました。



 いつからだったでしょう。

 清一さんの背丈はとうに私を追い越し、声も低く、落ち着いたものに変わっていました。

 細かった腕にはしなやかな筋肉がつき、衣服の下から覗く首元も、どこか逞しさを帯びています。

 私が清一さんばかりずるいわと言うと、

「最近、身体を鍛えているのです。お父様のすすめで」

 そう笑った清一さんは、もう少年ではなく、しっかりと“男性”の顔をしていました。



「……最近、軍に志願する級友が増えてきました」


 ふいに、彼が言いました。


「誰かが行かなければ、いけない。でも、自分が行ったら、百合子さんが悲しむんじゃないかって……そう考えると、どうしても決断がつかないんです」


「清一さん……」


「百合子さん」


 急に名前を呼ばれて、私は少し驚きます。


「はい」


「……百合子さんは、僕の気持ちにもうお気づきでしょう」


 さらりとした口調ではありませんでした。

 まるで、体の奥底から掘り出したような声だったのです。


 私は思わず息を呑みました。


 ずっと弟のように思っていました。あの細い背を守らなければと、姉のような気持ちで。

 でも、いつからか彼の視線に――静かで、けれど熱のある眼差しに、私は気づかないふりをしていたのです。


「……清一さん」


 私が名を呼ぶと、彼はまっすぐこちらを見ました。

 少年の頃のような不安げな目ではない。

 ただ、真剣に、私というひとりの女性を見つめて。


「私、年上なのよ。あなたよりも、二つも」


「それでも、僕は……百合子さんが好きです。昔も今も、ずっと……」


 静かで、けれど確かに響く言葉。

 風が庭の葉を揺らす音。


 私は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめました。


 胸が、苦しい。

 これはたぶん――とても嬉しくて、そして、少しだけ怖い気持ち。


 どう返事をすればよいのか分からない。

 けれど、ただひとつ言えることは、目の前にいるこの人は――もう、私の知っている“弟”ではありませんでした。


「……百合子さんは、僕のこと……子どもに見えますか?」


 彼は不意に、そんなことを聞いてきました。


「そんなことないわ……」


 取り繕おうとするけれど、言葉が追いつかない。

 清一さんは、ゆっくりと立ち上がり、そっと私の前に膝をつきます。


「あの日……川で助けてくださったあのときから、僕は百合子さんのことをずっと……」


 息が止まりそうでした。


 近くで見る清一さんの顔は、どこまでもまっすぐで美しい。

 目をそらそうとしても、引き込まれてしまいそう。


 唇が動いた。けれど声にならない、小さな言葉。


「……だめよ」


「どうしてですか」


「だって、あなたは……」


 ――まだ若いもの。

 ――私なんかより、きっともっと似合う人が。


 言葉にならない想いが胸の奥で渦巻く。

 それを押し込めて、私は顔を背けました。


 そのとき。


 そっと、私の手が取られたのです。


「僕は……百合子さんじゃないと、だめなんです」


 手のひらから伝わる熱が、心をじんわりと溶かしていきます。

 大きくなったその手が、私の手を優しく包み込んでおりました。


 思えば――あの川の日から、私たちの関係は、少しずつ、でも確かに変わってゆきました。

 それが、今ここで、言葉になっただけ。


 私はそっと息を吐いて、彼の手を見下ろします。

 しっかりとした骨格。日に焼けた指先。

 ああ、こんなにも男の人の手になったのね、清一さん。


「……もう少し、考えさせてください」


 やっとの思いで、そう口にした私に、彼は静かに頷きました。


「はい。待ちます。何年でも」


 その言葉に、私の胸がまたきゅっと痛んだのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ