【短編】誕生の記1
眩い夏の日。
リーリエ伯爵邸の庭園は、日差しを浴びて百合の花が風に揺れていた。
臨月を迎えたエマは、重たげなお腹を腕で支えながら、セイルと並んでゆっくり歩いている。
「苦しくありませんか?」
隣で手を取る夫の声は、張り詰めた糸のように細やかだった。
「大丈夫よ。少し歩いた方がいいって雪ちゃんも言っていたから。頑張らないと」
エマは安心させるように微笑む。
予定日を過ぎて、もう二日。お腹はまるで張り裂けそうなほどに丸く大きく、今にも誕生の瞬間が訪れそうだった。
セイルは毎日が落ち着かず、片時も妻の傍を離れようとしない。エマはそんな夫の不安さえも慈しむように受け止めていた。
「あ、今動いたわ」
「本当ですか?」
エマが驚き混じりに声をあげると、セイルはすぐに彼女の腹に手のひらを添える。
しかし、しんと静かなまま。
セイルは眉尻を下げて苦笑する。
「……僕が触れると、いつもこうです。嫌われているのかもしれません」
「そんなことないわ。……あ、また動いた」
彼が再び手を添えても、やはり動かない。小さな落胆の色を浮かべる夫に、エマは穏やかな笑みを向ける。
ふと、セイルの視線がじっと彼女の腹に注がれた。
「どうかしたの?」
「いえ……こんなにも張っているものなのですね」
真剣に見つめる彼の横顔に、エマは胸が温かく満たされる。
セイルにとって臨月の妊婦を間近で見守るのは初めての経験。特にここひと月で、彼女の身体は目に見えて変わった。その姿が、やがてくるその時を告げているようで、彼の心は落ち着かない。
「……もうすぐですね」
エマはお腹に添えられた夫の手の上から、そっと自分の手を重ねた。
不安げだった彼の表情も、その温もりに少しずつ和らいでいく。
それにしても、確かにいつもより張っている気がする。
エマがそう感じた瞬間。
それは突然響き渡った。
──パチン
確かに聞こえた、弾けるような音。
二人が見合わしたのも束の間、エマの足を温かな水が流れ落ちていく。
「あ……大変」
「百合子さん……!」
足元に広がる水溜まり。
──破水
狼狽える間もなく、セイルはエマをぐっと抱き上げる。
「……清一さんっ!」
「歩いてはいけません。このまま寝室へ向かいます」
低い声は落ち着いていながらも、力強い。
夫は丁寧に、しかし確かな急ぎ足で邸内へと進んでいく。
「痛みはありますか」
「いいえ、まだ」
「すぐに雪を呼びましょう」
エマが口にするより先に、的確に手を打ってくれる夫。その存在が、不安を和らげてくれる。
異変に気づいたローラが駆け出し、邸内へ知らせを伝える。
モーリスは医療者への手配を。ルーナは全力で雪を呼びに走る。
リーリエ伯爵邸は一気に慌ただしさに包まれた。
──新しい命の誕生を迎える、その瞬間に備えて。