そして受け入れる。
「プライド。」
振り返れば、本を瞬間移動してくれたステイルがじっと真剣な眼差しで私を見つめていた。
どうしたのとステイルに向き直って尋ねれば、一度口を噤んだ後、私から目を逸らす。「その……」と零し、部屋の時計へ一瞬だけ振り返った。
「……例年通り、プライドの誕生日祝いは贈らせて頂きました。ですが、正しくはまだ貴方の誕生日ではありません。」
突然、改まるように言うステイルに自分でも目が丸くなっていくのがわかる。
ええそうね、と返しながら視線を感じて振り向けばとティアラもきょとんとした様子だった。けれど、その横に並ぶアーサーは、唇を硬く引き結ぶように顔に力を入れてこちらを見ている。
「なので、……それでも無礼だとは思うのですが、俺からも一つお願いがあります。」
お願い?ステイルから⁇
いつも自分のことには遠慮がちなステイルにしては珍しい。
私が頷いて一言で返せば、「ありがとうございます」と一度笑んでからまた顔が引き締まった。喉を鳴らし、頬に汗が一筋滴り落ちているのが小さな灯りに照らされて見える。そのまま、どこか何かに急かされているかのようにだんだんと彼の語りが早まっていく。
「先日の奪還戦に関して。……プライドは、貢献した近衛騎士達や騎士団、ヴァルにも褒美を与えられました。ですが、おっ俺は、……貰って、いません。」
ティアラやジルベールもですが、と小さく零したステイルは一瞬だけ声が裏返る。
真っ直ぐに私へ向けられた漆黒の瞳が地震のように揺れ、また一度下唇を噛んでから彼は続けた。
「俺っ、も、……今回の奪還戦では健闘したと、思います……!貴方を取り戻すことに貢献できたという自負も、あります……‼︎こういうことをっ……ッこういうことを自分で言うのは恥ずべき行為だとわかっています。ですが……。」
何度も言葉を詰まらせ、一生懸命紡いでくれるステイルに私は口が開いたまま動かない。
ステイルの、言う通りだ。
城関係者だから王族だからと、気付かない内に彼らを数えていなかった。
ステイルもティアラもジルベール宰相も褒美を与えられる側だという発想がなかった。三人だってとても私の所為で辛い思いをして、それでも助けてくれた。ステイルとジルベール宰相なんて、私の所為で奪還戦前から酷い想いを沢山したのに。
身内だからってお礼をする相手に数えなかった自分が恥ずかしい。むしろ一番たくさん被害を受けていて、お礼もお詫びもたくさんするべき相手だったのに。
ごめんなさいと、慌てて目の前にいるステイルに伝えようとしたその時
「ほ、褒美をっ……下さい……‼︎」
絞り出すような声が、放たれた。
耐えきれないように目を逸らすどころかぎゅっと瞑り、両手の拳が降ろされたまま震えるほどに込められ、肩も上がり、強張っている。俯き気味のまま、顔の中心に力が入ったせいで小さく眼鏡もずれた。
「近衛騎士やっ……ヴァルに与えたように!プライドに一つだけ、許可を下さい……!一つだけ、今だけ、……お願いしますっ……‼︎」
……今まで、私におねだりなんてしたことがなかったステイルが、初めて甘えてくれたような気がした。
自分の浅はかさへの反省よりも、今は胸がぽかりと温かくなって擽られる。
それからステイルは、もうそれ以上言えないように唇を絞って私の返事を待ってくれた。部屋を明るくしなくても今の彼が真っ赤なのが分かる。こんなに恥ずかしいと思いながら、それでも言葉にしてくれたことが嬉しい。
目を閉じたままな彼の髪にそっと手を伸ばし、細くさらりとした黒髪を表面だけ撫でる。
「勿論よ。遅くなってしまってごめんなさい。ステイルになら、何だってあげちゃうわ。」
あんなに沢山苦しんで、……苦しみ続けて、それでも最後には私を引き止めてくれたステイルになら。
そう思って、もう一度旋毛から彼の髪を撫でる。私の言葉を聞いてくれたステイルは目を皿のように見開き、驚愕一色へと変えていく。
それに笑みだけで応えれば、彼の顔が一瞬だけ泣きそうに歪み、何かを飲み込んだ。「ありがとうございます……っ」と早口で返してくれたステイルは、震える手で
「……もう、取り消せませんから。」
私の手を絡め、握った。
彼の髪を撫でていたのと反対の手を、突然。
予想外のことに彼の髪を撫でる手も止まり、パタリと降りた。
目を向けてみれば指を絡めて握り取られた手はしっかりステイルと繋がり、捕まった。震えたその手がそれでも意思を持って私の手を捕らえ続けている。
どうしたのだろう、と繋がった手から至近距離に立つステイルを見上げれば、私ではない方向に首だけを向けていた。私も彼の視線を追うように目を向ければ、今度はアーサーがステイルの視線に応えるように真っ直ぐこちらへ歩み寄ってきている。
真剣な表情で前に出るアーサーに、ティアラは何も言わずに目を丸くして立ち位置だけをちょこちょこと移動し始める。
アーサーまで、と私が意図を尋ねようとすれば、途中で彼の言葉と重なった。
「プライド様、今日で十二日目経ちました。……褒美、俺も頂きます。」
ギラッ、とアーサーの真剣な眼差しが青白く光る。
…………え、え?え⁇何⁈
早歩きで近づいてくるアーサーから、うっすらと覇気まで放たれて反射的に逃げ腰になる。目をきょろきょろしながら後ずさろうとしたけれど、ステイルにしっかりと捕まっている左手に縫いとめられる。逃げられない。
褒美。
それは私もちゃんと覚えている。
二週間ほど前に近衛騎士から望みの褒美を聞いた際、アーサーだけが「十二日後に」と後回しを希望していた。そしてたしかに言われてみれば今日でちょうどその十二日目だ。でもどうしていきなりこのタイミングで⁇
もともと大して距離も離れていなかったアーサーはすぐにステイルと並び、私の眼前で止まる。どうしよう、今だけは凄く怖い。
ティアラから小さく「に、兄様……アーサー……⁈」と戸惑いの色を浮かばせたか細い声が聞こえる。なんかよくわからないけど助けて‼︎
二人のことはこの上なく信頼しているし、まさかここで殺されるとか暴力を振るわれるわけなんて無いと頭ではわかっているけれど、私の中の危機回避本能が警報を鳴らしている。深夜の薄暗い明りの中、自分より背も高ければ力も強い男性に詰め寄られれば流石に私も怖い。しかもステイルにはしっかりと左手が捕まったまま。前世のテレビだったら完全に殺人直前のワンシーンだ。
何のつもりかはわからないけれど、取り敢えずここで悲鳴をあげたら部屋の前にいる衛兵に勘違いされることだけは確信できる。
眉を寄せ、強張った顔で黒縁眼鏡の向こうから私を見つめるステイルと、そして隣に並ぶアーサーもまるで表彰式の時くらい真剣な表情だった。さっきまでの緊張の色合いが薄れ、今はもう覚悟を決めたみたいに綺麗な顔色だった。むしろ今度はステイルの方が顔が強く染まっている気がする。
意図もわからず、何度も瞬きを繰り返しながら二人を交互に見返せば、今度はアーサーがゆっくりと貴重品でも持つかのように私の右手に触れ、捕まえた。
私よりもずっと大きくてしっかりとしたアーサーの手はすごく温かくて、お陰で少しだけ肩の緊張が解ける。優しく四指を横から挟むようにして握ってくれるアーサーは、そこで一度だけ喉を鳴らした。……よく考えると、結果として両手を二人に捕らえられたことに気がつく。
ますます逃げられない。その事実に緊張がぶり返し、今度は私の手が震えてきた。強張った顔で何とか笑みを保ちながら、二人を目だけで見上げる。
「あの……こ、これは……?」
「俺とステイルで褒美を貰います。……こんな不意打ちで、すみません。」
「ええと……、それは一体どういう……」
「大丈夫です。痛くはしません。」
どうしよう、全く掴めない。
どうしてはっきり言ってくれないのか。ただただステイルからの圧とアーサーからの並々ならぬ覇気にとうとう膝まで震え出してしまう。
くらっ、と力が変に抜け、横にふらつけば本棚に肩がぶつかった。ドンと軽く鈍い音がした直後、二人が少しだけ慌てるようにして反対の手で私を支えてくれた。
そこで私の膝が震え出しているのに気付いたらしく、手はしっかりと握ったまま、私が本棚へ背を預けられるようにと位置を変えさせてくれた。お陰で膝がちょっと笑っても何とか立てる。でも、やっぱり逃してくれるつもりはないらしい。
「すみません、なるべくすぐに終わらせますから。」
アーサーが今度は少し申し訳なさそうに小さく私へ頭を下げた。
続けて応じるようにステイルが「そうだな、時間もない」と短く返す。もう二人の言葉一つひとつが殺す前の台詞に聞こえて凄く怖い。
最初に、アーサーが大きく動く。
さっきまで佇んでいた体勢から、音もなくその場に跪いた。視界が開け、彼の後方の壁にかかっていた時計が姿を表した。頭の上に括った長い銀髪の結び目まで見える位置まで腰を落としたアーサーは、それでも私から手を離さない。
そして彼に応じるように、ステイルもまた動き出す。
アーサーのように小さくならず、むしろ更に一歩私に距離を詰めてきた。顔を真っ直ぐ正面にすると私より背が高いステイルの首が目に入る。見上げれば、ステイルが見開いた目の奥を揺らしながら、震える唇を絞っていた。すごく緊張しているのが、よくわかる。 ……なのに。
「先に言っておきます、プライド。」
抑えた声だけは、覚悟を決めたみたいに低く響く。
必死に冷静を取り繕おうとしながら、漆黒の瞳だけは正直だった。
視線をずらせば、片膝をついたままこちらを見上げるアーサーは、澄み切った蒼い瞳を真っ直ぐとステイルに向けていた。こっちは表情も目も正真正銘の冷静だ。私の手を取る温度だけが陽の光のように今は熱い。
すると、私が話途中で目を逸らしたことがいけなかったのか、指を絡めたステイルの握る力が少しだけ強まった。気付き、視線を戻そうとすれば、それよりも先にぐっと自分の手が更に彼の元へと引き寄せられる。
「声を出さないで下さい。外の衛兵に気付かれますから。」
その、直後。
私が言葉の意味を理解するよりも前に二人は同時に動いた。
見上げた視線の先で薄明かりに照らされたステイルが、引き込んだ私の手を返すようにして指ごと反らす。痛くはない、伸ばす程度の気持ちのいい反らしだと頭が呑気に思った瞬間。
開いた唇が、剥き出しにされた私の手首に触れた。
「っっっっっっっ⁈」
息を呑み、それ以上は息が止まる。
目を見張り疑ったけれど、間違いなくステイルが私の手首に口付けを落としている。
しかも、軽く当てるようなものではない。歯は立てずとも小さく開いた唇がしっかりと私の手首を挟み、口に含んでいる。じんわりと湿り気を帯びた温かさと、ちらちらと舌のやわらかな感触まで時々擽ってきて指先から肩まで強張った。……しかも、その感触が左手だけじゃ、ない。
「〜〜〜〜〜〜〜っっ……。」
声が、出そう。
捕まった手の所為で口を押さえつけることもできないまま唇を縛り、それでも足りずに噛み締める。
カクカクと小刻みに震える首ごと、視線を斜め下へと向ける。
ステイルと同じタイミングで与えられたもう一つの感触の正体を確認し、見た瞬間に心臓がバクリと爆発するかのように跳ね上がった。
視線の先で、アーサーまでもがやっぱり私の手首に口付けを落としている。
思い切ったように大きく開いた口が、ぱっくりと私の手首を殆ど咥えていた。まるで食べられちゃっているんじゃないかと錯覚するくらいに咥えられた範囲が広く、……温かさも柔らかさも襲ってくる感触も、全てが倍以上だった。
こちらも痛くはない。ただ、ひたすら熱を注ぐかのようにぴったりと口で覆われた部分が更に熱を帯びていった。深く咥えているせいか、ステイルよりも舌の感覚がはっきりとして、擽ったさよりも不意に擦れた時の生き物のような感触に悲鳴が出かかった。
何故、二人が、しかもよりによってここの箇所に、どうして、と。疑問がぐるぐると頭の中に回って降ってまた回って脳を芯まで揺らす。もう本当に心臓の音が煩くて二人に聞こえそうなのが恥ずかしい。
─ 〝欲望〟の誓い。
証としても長すぎるそれは、間違いなく〝誓い〟だった。
視線の先で、静かに目を閉じたままじっとりと私の手首を咥え続けているアーサーは、上から見ると銀色の獣のようだった。凄く綺麗で凄く心臓に悪い。本当に食べられる。
耐えきれずにぎゅっと目を瞑ってしまえば、まるで見計らったかのように今度はステイルの方から新しい感触が与えられた。
薄く皮膚が引っ張られながら、彼の唇の形がわかるようにゆっくりと離される。不意打ちとそして終わったのかという安堵感に顔を上げれば、……すぐにまた別の角度から二度目の口付けが落とされた。また唇が触れる感触と、真新しいぬめりと温かさを受け入れた肌が指の先まで強張った。
まさか二度目があるとは思わずに茫然としていると、その間にもステイルは何度も柔く吸いつけては離し、また別の角度にと口付けを繰り返していた。
薄く開かれたまま、私の手首だけに落とされた漆黒の眼差しが夜よりも怪しく光っていて妖艶にすら見える。まるで何かを〝上塗り〟しているかのように何度も、何度も何度も誓いに相応する時間を掛けて口付けては離し、また口付けを落としてくる。もう一回でも死にそうなのに何回もとか心臓に悪過ぎるし、もう内側からの音が大き過ぎてそれしか聞こえない。煩くてバクバクして胸が苦しくて一体何の拷問だろうとまで考えてしまう。
そしてステイルがちょうど手首の半分ほどの範囲まで口付けを落とし終わった頃、今度は右手からの感触に襲われる。
ゆっくりと味わうかのように包まれた手首が彼の口内から解放され、冷えた夜の外気に晒される。温まり切った手首が一気に冷えて思わず肩がビクビク上下した。
私の手首の向きを掴んだ状態に固定したまま、アーサーは自らの首の位置を変える。さっきまで手の甲側を上から咥えるような体勢だったアーサーが、今度は反対に下からかぶりつくようにまた大口で私の手首を咥えてきた。
今度はばっちりと彼が私の手首をその口で覆う瞬間を見てしまって、目眩がするほど熱が上がる。
しかも下からの角度の所為でさっきよりもはっきりアーサーの顔が見えた。本人は口付けを落とした時から目を閉じているから見えないだろうけれど、私は逆に見開いてしまったから当然だ。
全く微塵の躊躇いもなく私の手首が彼の口に咥えられ、その唇に挟まれていく瞬間を見て、呼吸が止まるどころか息の仕方もわからなくなる。
さっきの口付けではほっそりと彼の口に入りきらなかった部分が、今度は真正面から彼の口内で温められて信じられないほどに熱を帯びていく。一度の口付けが大口だったから、二度連続で咥えられた部分が彼の熱と湿り気でじわじわとふやけていくのが感じる。
下から咥えられたから今度は舌の感触はそこまで擦れなかったけれど、今度は彼の整った白い歯の一本一本が柔らかく肌を撫で、擽った。湿り気のお陰で歯も滑ったのか、噛まれた感触はないけれどさっきよりも口の中という実感がすごい。ここでアーサーと目が合ったら本気で羞恥で死んでしまう。
もう下を見ても上をみても目の行き場がなくて、絶対情けない顔をしている自分をみられるのも恥ずかしくて、最終的に顔を正面に向け、後頭部を本棚に押し付ける。
ぎゅうっ、と目の中が瞬くくらい力一杯目を瞑り、閉じた口の中で歯を食い縛る。見ない、見せない、考えないと、訳もわからず何と戦っているのかもわからず時間が過ぎるのだけを待つ。
けれど目を閉じると余計に他の伝達情報が過敏になって、左手の方からは何度も唇が離れる時の弾ける音が微かに聞こえるし、ステイルの香水の香りまでいつもよりはっきり香ってくるし、右手の方からはアーサーの口の中の温度や歯の輪郭や湿り気が目に浮かぶくらいにはっきりと感じるし、五感の半分以上が二人に持っていかれてしまう。
時間で言えば本当に五分もなかったのだろうけれど、体感だけで言えば五時間はゆうに超えていた。窒息か心臓発作で死ぬと何度も思った。
アーサーがゆっくりと咥えていた手首を口から離すのに合わせるように、ステイルも二桁以上の口付けをゆっくりと締め括る。二人とも、文字通り余すところなく私の手首全てに〝誓い〟を残してしまった。
明日のドレスのことを考えてか痕までは残らなかったけれど、その分じっくりと時間をかけられた感じだ。
二人が唇を離してくれた後も目を開ける勇気がなくて、正面に顔を向けて強く瞼を閉じたまま開けなかった。暫く手を取ったまま何も言わなかっただ二人だけれど、数十秒ほど経ってから、囁くような声で「プライド」「プライド様」と順番に私を呼んだ。
恥ずかしくて。本当に恥ずかしくて恥ずかしくて、どんな顔をすれば良いのかも、目を開いたらどこに向ければ良いのかもわからない。ぎゅっと瞑って顔の筋肉にひたすら力を込め続け、絞った唇から言葉も発せない。
そうすると、また暫くの間を置いてから、今度はさっきよりもずっと落ちた音で探るようにアーサーの声が掛けられた。
「…………怒って、ますか?」
違う。
なのにアーサーの声を皮切りに私の手を取ったステイルの手まで震え出すから、慌てて首を左右に振った。
怒ってるわけじゃ、ない。
ただ、ただただただただ本当に恥ずかしくて。
二人がよりにもよって〝欲望〟なんて意味深な場所に誓いをくれた理由もわからないし、どうしてそれを褒美として望んだのかとか、もう仮説すら考える余裕がない。
足や髪や唇とかと違って箇所だけで言えば全然恥ずかしい所じゃないのに、凄く凄く恥ずかしくて。
二人から解放された後も何度も息を止めた所為で息も荒い。こんな状態でどんな顔をすれば良いかもわからない私は、力を抜いたら薄暗い中でもわかるくらいに絶対に不細工だし、目を開けたら緊張が解けて涙目になる自信しかない。
本当に本当に薄暗くて良かった。そうじゃなかったら顔が真っ赤なのも絶対にバレていた。
そんな事を考えれば考えるほど言葉も出ない。
こんな思考も顔もぐちゃぐちゃで情けない姿を誰かに見られたくなかった。もう穴どころか埋まりたい。
けれど、私の返事を待つように二人はその後も終始無言で、今度は罪悪感が重くなる。
まだ二人がどういうつもりで誓ってくれたのかもわからないのに、まるでこれでは二人を責めているかのようだ。
ちゃんと、私は二人に褒美にと許可をした。ステイルになんて何でも許しちゃう発言までしたのに、ここで何も言わなくなるのは酷過ぎる。二人が自分勝手な理由でわざわざ誓いたなんて立てるわけがない。もしこれが私の為だったら、こんな反応は絶対傷つけてしまう。
顎を引く程度に顔をうつ向け、意識的に無理やり口を動かす。
自分の口なのに、まるでボンドで塗り固めた後みたいに硬くて重くて、震える喉で言葉を発せば、細くて震えてしまう。
「……っ、……少し、恥ずかしい……だけ、です……。…………失礼な態度で、ごめんなさい……っ。」
雨音よりも弱い音を視界を閉ざしたまま放てば、直後に二人分の息を吐く音が耳まで届いた。
やっぱり私が怒っていると心配させてしまっていたらしい。小さく「良かった」とどちらからともなく聞こえてきて、さっきよりも空気が柔らかくなった気がした。
沈黙が耳鳴りのようで、きっとティアラまで息を殺している。この上なく静かで、これでは私の息の荒さや心臓の音までティアラに聞こえるんじゃないかと心配になる。
さっきまで持ち上げられていた左手がステイルに掴まれた感触のまま、ゆっくりとアーサーと同じ位置まで下げられた。
二人で並んでいるのだろうかと、頭の隅で考える余裕ができた頃また「プライド」と今度はステイルに呼ばれる。
声が出なくて目も開けられなくて、彼らに取られた手を握り返すだけで返すと、また柔らかくステイルが言葉を続けてくれる。
「先ず第一に、突然こんなことをして申し訳ありませんでした。これは俺とアーサーで決めた貴方への誓いです。……きっと、話せば貴方は首を縦には振ってくれないと思ったので。」
言葉の途中から柔らかさの中に沈むように悲しげな色が混じった。
やっぱり二人で決めてたのねと思いながら、まだ言葉は飲み込んでしまう。
たしかに、どんな理由であっても〝欲望〟の口付けなんて言われても私は遠慮するか怖気付いただろう。〝証〟や〝誓い〟は決してお遊びでも冗談でもない。特に〝誓い〟であればその重さは段違いだ。王族のステイルだって、騎士のアーサーだって当然それは知っている。
「ですが、どうしてもここに誓いたかった。……もう、二度と今回のような事態を起こさない為に。そして、貴方にも改めて俺達の覚悟を知って貰いたかった。」
ステイルの言葉は一音一音が真剣で、〝今回のような事態〟が何かは、……聞かなくてもすぐにわかった。
硬く閉じた目を、ゆっくり開ける。薄暗い世界がぼやけて余計見えにくくて、それでもゆらゆらと輪郭が少しずつはっきりしてくれば、私の手を取った二人がそこに居た。
アーサーと同じように片膝をついて私を見上げてくれていたステイルは、目が合った途端にほっとしたように顔を緩めてくれた。アーサーも強張った肩の力を目に見えて抜いてくれて、……こんなにも優しい二人を、あの時に私はどれだけ苦しめたのだろうとまた思う。
狂気に堕ちた私が、どれだけ安易に大事な人達の気持ちを踏み躙ったか。何度も何度も私を助けようと、手を差し伸べようとしてくれた彼らに私がどんな酷い言葉を浴びせたか。殺して、殺したいのでしょう、憎いでしょう、……もう、数えきれない。
「……プライド様。もう俺らは、絶対に貴方から離れません。貴方がこの先どう変わろうとどンだけの連中が貴方を狙おうと、俺らが絶対に本当の意味で貴方を護ります。」
アーサーの切り開く声に息を飲む。
迷いのない声は、刃より強い眼差しと共に差し出された。
今回の一件で、誰よりも真っ直ぐに私に立ち向かって何度も何度も止めてくれた彼の言葉は間違いなく信じられた。気が付けばあんなに中央に寄った顔の筋肉からも力が抜け、目も普通に開いていた。けれどまだ、口だけが上手く開かない。
何も言えない私にアーサーは躊躇いなく続きの言葉を紡いでくれる。
「俺達は、この場で誓った今の貴方を〝欲し〟ます。たとえこの先貴方がどう変わろうと今の貴方を俺達は〝望み〟ます。……これがたった今貴方に誓った、俺達の覚悟です。」
意思そのものの色をした目は、羨ましいくらいに透き通っていて。
隣に並ぶステイルの真剣な眼差しと揃って、どちらからも逸らせない。目を開けてしまったことを後悔したくなるくらい、二人に縫いとめられた。
アーサーの言葉が、心臓を裂くように突き刺して音まで止まる。彼らが私に誓ってくれた誓いの意味を正しく理解した途端、喉が渇いて引き攣った。目の奥がじんわりと熱を帯びてきて、込み上げそうなものを何度も口の中を飲み込んで堪える。
『俺らが、また止めます……!もし、ンなことがあっても……何度でも何度でもっ…………止めますから……‼︎』
『俺達が居ます、俺達が一生かけて護り続けます……‼︎』
二人が誓ってくれたのは、あの時の言葉そのままだ。
また狂気に堕ちてしまっても、たとえ私がどんなに変わり果ててしまっても、二人は今の私をずっと見てくれる。たとえ何処まで堕ちて、堕ちて堕ちて沈みきって指先まで見えなくなっても今の私を必ず探し、見つけ出してくれる。
今の私が本物でも偽物でも、間違いなく彼らはこの私を選んでくれる。……今、選んでくれたのだと。
あんな過ちを犯して、情けなくて弱い私を彼らは欲してくれた、望んでくれた。そして
「傍に、居ます。たとえ貴方に何があろうと何処へ行こうとも、誰を選ぼうと国を離れようと立場や権力を失おうとも絶対に。……俺達は永遠に貴方を欲し、望み続けます。」
ステイルの言葉が、噛み締めるように紡がれる。
〝傍にいる〟という言葉が、途方もなく嬉しい。
また感情に流されて込み上げそうなものを抑える為に息を止めれば、顔が強張った。二人に手を取られたままで顔も隠せなくて、みっともない顔になってしまっていると顔を真横に背けて隠す。足元に跪いてくれている二人にこんな顔は見せられない。
だけど私の反応に、また二人から戸惑いの声が上がった。プライド、プライド様と呼ばれてからやっと、またやってしまったのだと気がつく。今の言葉に顔を背ければ拒んでいるかのようだ。そんなことない。二人の気持ちも、誓いも、今は本当に泣きたいくらい嬉しいのに。
口を開けば本当に糸が切れてしまいそうで、代わりにまた私から力一杯二人の手を握り返した。痛いかもしれないと思うくらい強く握れば、私よりも力強い二人の手が優しくそれを握り返してくれた。
アーサーが落ち着けた低い声で私を呼び、小さく手を引いてくれる。
「……顔、見せて下さい。もし許されるなら、もう一度今度は正面から貴方に誓いたいです。」
情けない、格好悪い、恥ずかしい、見せられない。優しいアーサーの言葉を上書きするように感情の羅列が頭を埋め尽くす。
あんなにも大勢の人を傷付けて苦しめて迷惑かけて、その上二人にまだこんなに優しくしてもらって、誓いまで与えてもらって。なのに何一つ二人に返せないでただただ貰ってお礼か謝ることしかできない自分が嫌になる。
それでも、優しい二人に縋るように再び顔を向ける。
目を向けた途端、もう耐え切れなくて顔が自分でもわかるくらいに泣く手前まで歪んでしまった。きっと目も赤いし力が入り過ぎた顔はあちこちに皺が寄って酷く不細工だ。それでも、私を見上げる二人の表情は気にしないどころか、本当に嬉しそうに微笑んでくれていた。
強張った私の手がそれぞれ包むように握り返される。そして互いに目での合図すら無しに、ゆっくりとその口を開き出す。
「プライド。俺は、清廉な今の貴方を欲します。補佐でなくても俺として、貴方の傍を望み続けます。」
「プライド様。俺は、誰よりも強くて弱い今の貴方を欲します。全てを失っても構いません。貴方の騎士であることを望み続けます。」
もう耐えられない。
嬉しくて、苦しいくらいの幸福感に視界が滲む。
ぼやけて何も見えなくなる寸前、二人がまた同時に私の手首へ口付けを落としてくれるのが目に入った。
柔らかな二つの感触はやっぱりとても優しくて、そっと触れられたそれは唇が離れたのかまだ触れているのかもわからない。塔の上の時と同じ溺れるくらいの安堵に包まれる。
喉が渇いて痙攣して、ひっくと詰まった音しかでない。ボロボロ溢れる涙も拭えなくて、ぐちゃぐちゃの顔を二人の前に晒してしまう。もう立っていることだけでやっとだった。
〝今の〟私を望んでくれる、見つけてくれる。
酷い罪を犯して情けなくて弱い私でも、二人が誓いを残してまで欲しがってくれるほどの〝価値〟がある。
塔の上で抱き締めて貰えた時と同じ安堵に満たされる。そしてきっと、何度でもこの先も思い出させてくれる。
本当にもう、何があっても大丈夫だとそう思えた。たとえ全てを失っても絶対傍にいると誓ってくれた。世界中全てに見捨てられても弾かれても、一人にはしないと約束してくれた。
身体が芯の奥まで震えて、涙でありがとうの一言すら口が動くだけで声も出なかった。喉がヒリヒリするのにひっくひっくと痙攣するから余計に苦しい。
目を強く瞑りまた開くけれど、止めどなく流れる涙はただただ私の顔を濡らすだけだった。
カチリ、と。
……はっきりと針の音が聞こえた。
その途端、また二人の声が優しく放たれた。
プライド、プライド様とさっきと同じ優しい声色で呼ばれて、それだけで余計に込み上げ噎せて苦しくなる。
視界が閉じても開いても滲んで塞がっていた世界ではっきりと二人の声が合わさった。
〝御誕生日おめでとうございます〟
その言葉に、私はカタカタと震えた膝から崩れ落ちる。
今までの人生で、こんなにも嬉しくて泣いた誕生日はきっとない。こんなにも嬉しい誕生日プレゼントなんて世界中探してもあり得ない。
二人に握られた手を震わせながら、力を込める。へたり込んだ私を反対の手でそれぞれ抱き締めてくれた二人の温度は私よりもずっと温かかった。
二人に挟まれ、包まれ、嗚咽を漏らす私に変わらずいつものような話し方で言葉をくれる。
「もう俺達が誓いを残しましたから。ジルベールやヴァルと同じように、二度とこの手首にも証も誓いも許さないで下さい。」
「どっちも上塗ったンで。……もう、俺達だけの誓いです。」
うん、うん、と返しながら、今まで気にしていなかった筈の手首が不思議と心が洗われたような気がした。
二人の声は意思も硬ければ、何よりも強くて。言葉のままにそうしよう、そうなったのだと心から思えた。
アダムに残された痕よりもずっと、ずっと深くて優しい誓いに心が埋められる。
─ 『姉君の手首へ口付けと共に誓う。プライド・ロイヤル・アイビーを生涯欲し、望み続けると』
─ 『お前も共に誓わないか?お前が右で俺が左。〝剣〟と〝盾〟でアダムの痕跡ごと、あの人の間違いを打ち消したい』
─ 『どォせやンなら絶ッッ対誕生日の境目だ。それだけは譲らねぇ』
─ 『一番しんどかった十八も、あの人が〝ない未来〟と思ってた十九も。その最後と最初、どっちも俺らで傍に居てやりてぇ。……あの人は強ぇけど、弱ぇから』
初めての十九歳。
私の人生が、始まった。
630-2
439
472-2.586-1
625-2.
630-1




