そして帰る。
馬車が広場に着いたらしい。
まだ扉どころかカーテンすら開けていない内から、扉の向こうから騒めきや黄色い悲鳴が聞こえてくる。
王族の馬車とはいえ、中に誰がいるかはわからない筈なのに。そう思っていると、レオンが「ここ、城下に降りる時によく来るんだ」と教えてくれた。いつもの滑らかな笑みに戻ったレオンにほっと呼吸を整えながら、納得する。
流石レオン、つまりはここがレオンに会える可能性の高い人気スポットということだ。そうなると暇を見つけてはレオンを慕う民がここに憩うのだろう。完全に前世のアイドル……というかもうハリウッドスターレベルだ。
扉が開かれ、近衛騎士二人の後にレオンが降りる。足を段差に降ろした瞬間から黄色い悲鳴が馬車の中まで劈いた。男の人の歓声も聞こえるし、相変わらず老若男女問わずの大人気だ。
レオン様!レオン王子!レオン第一王子殿下と歓声が聞こえて、寧ろここに私が降りたら本気で盛り下がらないかと心配になる。段差を降りるため、近衛騎士達が手を貸してくれようとすると、レオンが「僕が」と言って手を差し伸べてくれた。
段差を降り始めた時から、予想通りに騒めきが静まってしまう。凄く馬車に引き篭りたい気持ちを堪えてレオンの手を取り、降りる。扉の前で近衛騎士が両脇で暖かく迎えてくれる中、最後の段差を降り切れば
歓声が、湧いた。
おおおぉぉっ‼︎と、響めきが空気を震わせて肌にまで届いた。
何処からともなく拍手まで起こって、思わず半歩後ずさってしまう。こんなに暖かな反応をされるとは思わなかった。レオンの客人とはいえ、もう何度もアネモネ王国に定期訪問している私は、アネモネの民にも顔は見慣れられた方の筈なのに。
やはり病床なのを心配してくれた民もいたみたいだ。流石レオンの愛する国、民が皆んな本当に温かい。こうしている今も「プライド様!」「プライド第一王女殿下だぞ!」「もうアネモネに訪問して下さったのか!」「プライド様っ!」といくつも男の人と女の人の声が入り混じる。
既にレオンの登場に興奮したのか頬を上気させた人が熱の篭った眼差しを私に向けてくれた。今までもこうしてアネモネの城下に降りたことはあるけれど、本当にみんな素敵だなと思う。レオンが愛してやまない理由もよくわかる。
「さぁプライド。僕の愛する国へようこそ。」
改まるようにそう言って、レオンが民を示すように両手を広げてみせてくれた。
胸を張っている表情は誰よりも誇らしげで、敢えて城ではなく民を示してそう宣言するのが本当にレオンらしいと思う。今までも何度も足を運んだアネモネ王国。……一度はもう二度と踏むことはないと思い込んだ筈の彼の国。
そう思うと、急に込み上げてきて口の中を噛んだ。
笑みを返しながら、騎士達が一定距離を保たせる為に歩み寄れば彼らの目が明るく光る。
本当に自分で覚悟したのが嘘のように温かく迎えてくれる民に、挨拶の言葉を掛けようと口を動かす。すると、不思議と違う言葉が頭に浮かんだ。違うとは思ったのに妙にしっくりときて、今は言いようもなくその言葉を彼らに向けたいと思う。
決めた途端、自然と頬が緩む。レオンの隣に並び、ドレスの裾を指先で上げる。膝を曲げて礼をすれば、また声が静まった、私の言葉を聞いてくれようとしているのだとわかり、私からも彼らにはっきりと届くように声を張る。
「アネモネ王国の皆様。……ただいま戻りました。」
ただいま、と。その言葉を不思議と言いたくなった。
外にも関わらず声は遠くまで通ったらしく、一瞬の間の後に唸りを上げて歓声が轟いた。
おかえりなさいませ、おかえりなさいとその言葉が民からいくつも重なるほどに返されて嬉しくなる。
胸の前で手を振り、四方に返していると、途中で隣に並ぶレオンと視線がぶつかった。いつから顔を向けてくれていたのか、水晶のように目を丸くしてぽっかりと口が開いたレオンは少し呆然としているようにも見えた。
第一王子を差し置いて図々しかっただろうかと思わず振っていた手も笑顔も固まってしまう。訂正と謝罪をすべきだろうかと考えていると、先にレオンの口が動いた。
「プライド……」と小さな声で呟かれ、怒られるかと肩まで強張れば
「もう一度、……言ってもらってもいいかな……?」
…………。これは、典型的な「もう一度言ってみろコラ」の丁寧語だろうか。
いやでもレオンがそんなことを言うわけがない。唇を閉じ、何度も口の中を飲み込みながら無性に瞬きが多くなる。
するとレオンの表情が段々と緩んできて、柔らかい笑みに変わっていった。民と同じ、温かな表情だ。そのまままるで囁くように「……僕に」と続けてくれて……やっと、気付く。
真っ直ぐ身体の横に降ろされた彼の手を私から取り、両手で包む。彼に、とそれがはっきり伝わるように熱を込めれば、既に私よりも体温の上がっていた彼の手は更に熱を帯びた。真っ直ぐ整った彼の顔を見上げ、口を開く。
「ただいま、レオン。アネモネ王国にまた帰ってこれて嬉しいわ。」
心から気持ちを込めてそう伝えれば、その途端に笑んだままレオンの頬にぽわりと赤みが差した。
照れたように笑むその表情は、まるで花を愛でるかのようで、向けられた私まで指先が擽ったくなった。
アネモネに、帰ってきた。フリージア王国の次に私が最も地を踏んでいる国。レオンとの大事な思い出もたくさんあるこの国にまた戻って来れたのが嬉しい。彼に、そして彼の民にもう一度会えたのがとても幸福だと思えた。
包まれた手を、レオンがそのまま持ち上げる。私の右手を掬うように手に取り、ゆっくりと顔を近づけた。花を愛でるような眼差しのまま、そっと彼の唇が私の手の甲に当てられた。敬愛を示してくれる彼の顔がちょうど目の先に垂れ、そのまま翡翠色の瞳が妖艶に光って私を覗いた。
「……おかえり。愛しき僕らの国へ。」
いつもの柔らかな声とは違う、脳にまで響くような低い声が色香を混じえて放たれた。
頭蓋を打たれたかのような衝撃に、思わず血が上る。熱を堪えようと唇をぎゅうっと絞ろうと力を込めると同時に背後から黄色い悲鳴、……というか断末魔と転倒する音まで聞こえてくる。
レオンの色香に当てられた女性達だと、見なくてもわかる。今までも彼と城下に降りる度にこういう人為的事故は何度もあった。背後で喉の裂けた悲鳴と「しっかり!」と声を掛ける声が錯綜しているけれど、今は私も倒れそうだ。そんな甘い表情をどうしてここで見せるのか!
絞り上げた唇がそれでもぷるぷる震えると、ふふっと悪戯っぽく笑いレオンがそれを優しく指で撫でた。唇の震えが指の腹に伝わっているだろうなと思うと無性に恥ずかしくなる。それからすぐに指も顔も私から離したレオンは、何事もなかったかのように民へと優雅に手を振り始めた。
倒れた女性達は大丈夫かい?と騎士や衛兵に声を掛けながら、滑らかな笑みを周囲に振り撒いている。動作一つ一つが威厳と優雅さを混じえていて、本当に完璧な王子様だなと思う。そしてきっと国王の日も遠くない。
「プライドも良かったら手を取ってあげて欲しいな。皆、とっても素敵な人達ばかりだから。」
そう言ってレオンは手前に並んでいる民から一人一人の手を取り始めた。
お会いできて嬉しいです、プライド様との再会を嬉しく思います、おかえりなさいませ、と口々にレオンへ言葉を掛ける民は皆笑顔だ。
私も頷き、彼に倣って彼らの手を取り始める。私から「この度はレオン王子殿下とアネモネ王国に助けられました」「ご心配をお掛けしました」「心配してくれてありがとう」「ご迷惑をお掛け致しました」と言葉を掛けていけば、次々に民も応えてくれた。とんでもない、ご無事で何よりです、ご回復おめでとうございます、レオン王子殿下もとても心配されておられました、どうかこれからもレオン様と末永く、という言葉に混じって
「レオン王子にいつもの笑顔が見れました。ありがとうございます。」
そう、言われた時には心臓が跳ねた。
彼が愛するアネモネ王国にいても、それでも私のことを心配してくれていたのだなと改めて思い知る。その後も同じような言葉を掛けてくれる人が何人もいて、レオンの方を振り返れば自国の民に向けて心からの笑みを向けて微笑んでいる彼がいた。今までも何度も見た、最も愛する民へ向けた綺麗で優しい横顔だ。
「プライド。そろそろ行こうか。」
暫くしてからそう言って私を馬車へと促してくれるレオンは、本当に晴れ晴れとした眩しい笑顔だった。
私もそれに一声返し、民とお別れを告げる。またいつか、と声を掛ければすぐに、お待ちしていますと合わせるように返してくれた。レオンに手を取られ、馬車に乗り込めば再び彼らの言葉が頭に浮かぶ。
『レオン王子にいつもの笑顔が見れました。ありがとうございます』
民が、そう言った。
レオンの小さな変化にもたくさんの人が気付いて、心配してくれた。彼らの胸を痛めさせた事には棘が刺さったけれど、……それ以上に。
「レオンは本当に皆に愛されているわねっ。」
嬉しさのあまり、思わず声が浮き上がる。
私に続いて馬車に乗り込んだレオンは、きょとんとした顔をする。でもすぐに滑らかな笑顔を向けてくれた彼は、誇らしげに言葉を返してくれた。
「僕だって負けていないけどね。」
彼にしては少し勝気な笑みに、なんだか笑ってしまう。それだけ彼の民への、国への愛は確固たるものなのだろう。
レオンの〝いつもの〟笑顔。そう言われるのは、些細な変化がわかるくらいに距離が近い証拠だ。
民の一人ひとりがレオンのことを心配して、愛して、気にかけて気付いてくれる。そしてレオンも、それに応えている。その姿はまるで、家族や親しい友人、そして恋人のようにも見えた。
パタン、と扉が閉ざされる。
合図の音の後、緩やかに馬車がまた動き出す。馬車の外から民の声が変わらずいくつも掛けられる。レオン様、プライド様、レオン第一王子殿下万歳!プライド様お待ちしております!と、次々と掛けられる言葉はどれも朝の日差しのようだった。
「また帰ってきても良いかしら。」
「何度でも。僕も何度だってフリージアに帰るから。」
その時はおかえりと言ってくれるかい、と投げ掛けるレオンの笑顔は民と同じくらいに温かくて、私も勿論よと言葉を返した。
フリージア王国とアネモネ王国。
いつのまにかどちらも私達の帰る場所になっていて、たとえようもなく幸せだった。胸がダンスを踊るように心地よく鳴って、身体の芯まで温かな血を巡らせる。
買い物を終えてフリージア王国に帰る頃には名残惜しく思えるくらい。
愛しきアネモネ王国に胸を焦がされた。




