671.義弟は沈め、
「……ステイル。何か聞きたい事でもあるのか?」
溜息を吐き、肩を落としてヴェストはステイルへと目を向ける。
「いえ」と短く返したステイルだが、その眼差しは間違いなく多くを訴えていた。仕事の手こそ緩めないが、休息時間から戻ってきてから既に何度もヴェストはステイルの視線が間違いなく自分へ刺さっているのを感じていた。
自分が目を向ければ、すぐに逸らしてしまう。更には時折、黒い覇気まで漂わせれば何もないとは間違っても思えない。
今朝までは夜通しの疲れの所為で疲労の色こそうっすらと見えたものの、機嫌は良かった。むしろ好調と言って良いほどに表情が柔らかくもなったステイルが一変して不機嫌そのものだった。
しかも、睨むとは言わずとも自分を何度も凝視し、結ばれた唇と赤くなり出す顔色は何かを思い出しているかのようだった。
いつもなら、ヴェストから促せばおずおずと話すステイルだが、今日は頑なに口を割らない。何か自分に怒られるようなことでもしたのか、それとも自分かと。思い巡らせるが、少なくとも最近では思い当たらなかった。
書類に再び目を向ければ、再びステイルからの視線が刺さる。手が止まっていれば注意もできたが、それでいて完璧に仕事をこなしてしまうのが今は厄介だとヴェストは思う。もう自分が指示し、注意しなくてもステイルは自ら考え、摂政業務をこなしてしまえるのだから。
じーーーーと今もひたすら刺さるステイルの視線に、ヴェストの方が手が止まる。
まさかステイルにこんなことで頭を悩まされるとは思わなかった。ステイルが怒っているとして、それはどれが理由か。最近ではないとしたら、思い当たるのはたった一つしかない。だが、それを自分からステイルに確認して墓穴を掘るわけにもいかない。あくまで慎重に確認すべく、ヴェストは自分のこめかみを指で押さえてから重い口を開いた。
「……王配業務の方は順調か。」
「…………ええ、勿論です。姉君の為だけでなくティアラの為となると思えば、余計に意欲も湧いてきました。」
そうか、とヴェストは言葉を返しながら、ステイルの返事が少し遅れたことが気になる。
大した沈黙でもない上、返答自体は全く問題ない。だが、ステイルであればこの程度はすんなり切り替えしてしまえるだろうとも思う。勘付かれたら危険だと思いながら、少し今度は踏み込んでみる。
「ティアラも近々、本格的に王配業をアルバートに付いて学ぶことになるだろう。お前もジルベールと共にティアラも、そして未来の王配もちゃんと手助けしてやってくれ。」
「勿論です。」
「……プライドの伴侶が、お前とも気が合えば良いのだがな。」
「そうですね。僕も姉君の補佐としてそうでありたいと願っています。」
今度は殆ど間髪入れず返ってきた。
更にはさっきから感じた黒い覇気も収まり、目を向ければ静かに笑むステイルがそこに居た。問題なく仕事をこなし、落ち着き払った様子と、この上なく次期摂政としての解答を返したステイルが
より一層怪しいと、ヴェストは思う。
以前であれば、こういう話題を投げれば必ずプライドの婚約者候補の存在に影を落とした筈のステイルが今は平静過ぎる。
言葉を詰まらせることも濁らせることもなく、迷いなく最善解答を返すステイルの腹の底は恐ろしく読めない。まるで一時期のジルべールを相手にしているかのような薄い笑みが、ヴェストから見ても若干怖い。返答こそ穏やかなのに、これ以上婚約者候補について突けば、爆発させてしまうのではないかと肌で感じた。
表向きは穏やかで平静なステイルだが、その内側はいつもより更に分厚い壁で覆われている。言葉だけはヴェストからも当たり障りのない返事を返したが、どうにも怪しいと疑惑が深まった。この場にアーサーがいれば間違いなくステイルの笑みから薄気味悪さを感じ取っていた。そして実際、ステイルの心境は
─ どの口がそう仰られるのですかッ……⁈
見事に荒れ狂っていた。
ヴェストに詰め寄りたい、どういうおつもりですかと叫びたい、何故教えてくれなかったのか、何故自分をリストに加えたのか、もしくは何故リストに加えてあることを黙認したのか、アーサーをリストに入れてくれたのは誰なのか、何故教えてくれなかったのか、何故教えてくれなかったのかと。頭の中は疑問と訴えでいっぱいだった。
自分に情報を止めていたのは父親であるアルバートではなく、自分を預かっているヴェストに間違いない。だが、ならば何故教えてくれないのか。つまりは、自分は教えるには値しないと判断されたことになる。
プライドが最後に選ぶ婚約者に自分はどうせ選ばれないからと切られたのか、それとも自分が動揺することを見越されたのか。そしてリストに自分の名を入れたのは誰なのか。プライドの婚約者候補に推薦した人物の名前を入れる権利があるのは女王、王配、摂政のみ。
その誰が選んだとしても、その真意が聴きたくて仕方がない。アーサーを入れてくれたことに関しては、納得もすれば感謝もある。もしヴェストがアーサーの名を入れたなら、ここで心から感謝を口にしたいくらいでもあった。しかし、何故、よりにもよって義弟である自分の名前まで入れたのか。
ティアラが王妹としての立場を確立する前からいれられていたということは、万が一にも選ばれたら自分が摂政ではなく王配としての職務を進んでしまうことになる。ここまで自分は真剣に摂政となるべく勉学を重ねてきてそれなりに身に付けてもいるという自負もあったというのに!ヴェストは自分を摂政にするつもりはなかったとでもいうのかと。
プライドの婚約者候補に入れられたことは本気で嬉しい。だが、他でもない叔父のヴェストに摂政から王配へと押されたかもしれない可能性と、そして自分にそのことを教えるには値しないと思われたことがどうにも引っかかる。
自分をプライドの婚約者候補として相応しいと思ってくれたのか、それとも摂政に不相応だと思われたのか。
せめてそのどちらかだけでもはっきりすれば、この胸の蟠りは無くなるのにとステイルは思う。
しかし、もしここで自分が詰め寄ったら確実にプライドが口を滑らしてしまったこともヴェストに知られてしまう。そうすれば間違いなくプライドが咎められるのは目に見えている。自分の自己満足の所為でプライドが被害を被るのは避けたい。何より、万が一にもそれで規則に厳しいヴェストから「知られたからにはステイルは婚約者候補から外す」などと言われたらたまったものではない。折角の世界でたった三人にしか許されない特権は死んでも手離せない。
そんなことを何度も何度も繰り返し考えれば、無意識にもヴェストへ視線がいった。更には自分のことをヴェストがどう考えているのか、そして何故教えてくれなかったのかと思えば悶悶と行き場のない憤りまで立ち登る。仕事の手は緩めずとも、少しでも間が空けば意識も視線もヴェストに固定されることになった。そして、当然それに気付いて頭を悩ませるヴェストへの小さな意趣返しでもあった。あわよくば今からでもヴェストが自分からプライドの婚約者候補について話してくれればと念じてしまう。
「……もう良い、ステイル。今日はそこまでで充分だ。少し早いがジルベールのところへ行ってくれ。」
そしてとうとうヴェストが退散を決める。
片手で額を押さえながら、ステイルからの熱い視線に逃げるように俯いた。気が付けばまた彼がジルべールに似てきたと思えば、これからまたそこに向かわせるのは躊躇いもしたが、背に腹は代えられない。このままでは自分の仕事の方が滞ってしまうと、ステイルを遠ざけることにする。
わかりました、とすんなり頷くステイルだが、その間にもまた黒い覇気が彼の身体がうっすら立ち込めていた。ついでに資料をアルバートにと、机の上の資料を指差せばステイルは笑顔でそれを手に取った。頭を下げ、落ち着いた足取りで背中を向ければ「ステイル」と再び声を掛けられる。僅かに期待を込めて振りかえれば、ヴェストの眉間に皺を寄せた顔が向けられていた。
「気を張らずとも、お前が優秀な次期摂政であることに変わりはない。……それを、私も嬉しく思う。」
今にも窘められるのかと肩を強張らせたステイルは、そのまま身体ごと固まった。
さっきまでの蟠りが、全てとは言わずとも大きく消えていくのを身の内で感じる。自分が思った以上に、ヴェストに褒められたことが嬉しかった。
こんな風に正面から褒められたのは自分の誕生日以来だろうかと思うと、うっかり口端が緩みかけた。丸くした目で、何とか瞬きを思い出した時に頭を下げる。ありがとうございます……とお礼を言いながら、さっきの疑問がまた別の方向に変わっていく。
今のは自分を次期摂政として認めてくれているということなのか。自分が仮に王配になっても摂政でいられることを嬉しく思うという意味なのか。頭の中でその疑問を繰り返しぐるぐる回せば脳を働かせ過ぎて僅かに頭が熱を帯びた。
資料を抱える手にぐっと力を込めて、緩まないように口の中を噛んだ。ヴェストが未だ打ち明けてくれないことは不満だが、自分を認めてくれるのはやはり嬉しい。少なくとも自分の能力も、次期摂政としては認めてくれているのだと、そう思えば少しは怒りも収まった。
ヴェストを問い詰めるのは、少なくともプライドが婚約者を確定させた後でも良いかと思える程度には。
少し機嫌の治ったステイルは、今度は心から笑んでヴェストに挨拶する。失礼します、と頭を下げて部屋を立ち去れば、すぐに衛兵によって外から扉が閉ざされた。音もなく慎重に閉ざされきった扉を睨み、彼の足音が立ち去ったのを耳で確認してからヴェストは
書類の山に項垂れた。
ぐったりと額を書類の束に落とし、ペンを握ったまま息を吐く。
人前どころか、一人の時にすら滅多にならない脱力をヴェストはひしひしとその身に感じていた。
ステイルの圧が、重い。
単純に、彼からの覇気や眼差しが精神的負荷が重かっただけではない。必要ならばバレているぞと指摘したり、文句があるならば部屋を出なさいと窘めても良かった。しかし、いくら負荷に感じても言えなかった。
恐らくステイルは自分が婚約者候補であることに勘付いているのだろうと思う。そして不満と、ヴェストの口から教えて貰えないかという期待があの態度だろうとも理解する。まだ、ヴェスト自身が確信を持てないからこそステイルに直接聞けないが、それが一番彼の態度に納得がいく。それだけでも充分自分にとっては重荷ではあるがそれ以上に今、ヴェストの頭を悩ませていることは
「まさかここまで消耗するとは……。……ステイルに甘くなる訳にはいかないというのに。」
ステイルの態度に落ち込んでしまった事実に、落ち込んだ。
今まで、昔から自分に心を開かないまでも好意的に振舞っていた甥。過去の自分と同じ次期女王の補佐であり義弟。
もともと自分に重ねてしまう部分はいくらかあったが、だからこそ彼の言動に理解できる部分も多くあった。
それなりに目に掛けてしまうこともあれば、養子になって間も無くしてから彼が倒れたと聞いた時は自ら足も運んだ。親元から離れて弱っていた姿を見せた彼が、今は立派な次期摂政となった。しかも、ティアラの王妹のお陰で問題なく彼が摂政を継続できることも保証された。
間違いなく彼が、自分の跡を継いでくれることはヴェストも嬉しく思う。彼なら未来の王配としても申し分ない、そうでなくても摂政として充分に胸を張って良いほどに立派になってくれている。今回の奪還戦では、自分を含める最上層部不在の中で見事に第一王子として役目を果たし、プライドを奪還してくれた。
しかも、その甥が摂政業務で自分に付くようになってからは次第に自分にも心を少しずつ開くようになってきてくれた。摂政として立派になり、今や確実に自分の跡を継いでくれ、心を開くようになってきてくれた甥を可愛く思わないわけがない。そして
その甥に再び敵意に近い眼差しと意思を向けられたことが、少なからずショックだった。
今まで、それなりに厳しめに教えてきた筈のステイルだが、あんな眼差しや態度を取られたのはヴェストも初めてだった。
隠していた事を怒っていたと思えば仕方ないと思うし、それも既に予想できたことだ。もし知られればステイルが何故教えてくれなかったのかと訴えることも、不満を露わにすることも最初からわかっていた。しかし、何故か今の自分はどうしようもなく、わかっていたのにその態度に落ち込んだ。いっそ確信を得ない内から隠滅を測ってしまおうかと軽率に思えてしまうがどうしてもステイルには使いたくない。
それだけ自分がステイルを甥として可愛く思えてしまっている証拠かと思えば、何とも嘆かわしい。折角自分の実の子ども達も自立して落ち着いたというのに、今度は甥のことでこんなにも感情的になるなど。
間違ってもステイルに、冷たい態度を取れば叔父が落ち込むなどと知られるわけにはいかない。そんなことを知られれば、彼はそれを効率的に利用してくるであろうこともヴェストはわかっている。
ステイルの腹の黒さもちゃんとヴェストは理解した上で彼を次期摂政に育てたのだから。実の娘と息子よりも、非凡な優秀さに反して姉妹のこととなると手段を選ばない甥の方が今やよっぽど手がかかる。……そして、自分に少し似てるとも思う。
「知らせる時は、……私からも謝るか。」
正式にステイルへ彼が婚約者候補だったと話す時。彼がプライドの婚約者となっているかどうかまではわからない。
そしてその時はちゃんと自分がステイルやアーサー、カラムを婚約者候補リストに入れたことも、問われた時は包み隠さず説明しようとは思う。
重く溜息を吐き、身体を書類から起こす。そしてまた、何事もなかったかのように再びペンを走らせた。
せめてステイルが正式に自分の跡を継承する時までは、彼の見本となる摂政であり続けたいと密かに望みながら。




