666.怨恨王女は幕を上げる。
「……ンで、ステイル様は自分達のとこに居て良いンですか。」
グビッと一口ジョッキを傾け喉を潤しながら、アーサーは隣に並ぶ王子へ投げ掛けた。
傍には近衛騎士の三人も向かい合う中、アーサーの隣に並ぶステイルにアラン達は口だけが俄かに笑う。
プライドが騎士達と言葉を交わしている中、ティアラと同じくステイルもその場を動かない彼女に代わり自らの足で騎士達を労いに行くべき時だった。
本来ならば、近衛騎士ではなく王族の誰とも直接話していない騎士や自らステイルと話したがっている騎士と語らうべき時でもある。プライドほどではないにしろ、ステイルとティアラの騎士達の支持は高い。
しかし、そのステイルが自らの足で直行したのは見慣れた近衛騎士とアーサーの元だった。
「ええ。姉君の近衛騎士である皆さんを僕らが一度も労わないわけにはいきませんから。」
けろりと澄ました顔でアーサーに返しながら、ステイルもまたグラスに口をつけた。
言い訳は理にかなっている。だが、既に挨拶を終えて大分経っているにもかかわらずステイルはアーサー達の傍から動かないのも事実だった。そして、恐らくもう暫く動かないつもりなのだろうと彼らは言葉にせずとも察しはついていた。少なくとも、ステイルの目の腫れが引くまでは。
プライドとのダンス直後に観客全員の前で涙を見せてしまったことはステイル自身にとっても想定外だった。
自分が手を取られることすら、思っても見なかった。プライドの補佐として騎士の労いに足を運んでこそみたものの、まだ腫れの引いていない目で他の騎士達と相対することだけはステイルも避けたかった。その結果、こうしてアーサーの隣に並び、他の騎士達に背中を向ける形で顔を隠していた。
「……他の方々もステイル様とお話を望んでおられますが。」
ンなこと気にする人なんていねぇンだから話して来い、とアーサーは心の中で思う。
プライドのことで泣きたい気持ちも、ステイルがどれほど彼女を取り戻す為に尽力したのかも、騎士団の誰もが詳細は知らずとも理解している。
そんな彼を腹の底でも馬鹿にするような人間はこの場にいない。実際、ステイルが涙を見せたあの場で嫌な顔をする人間など一人もいなかった。寧ろ自分達の代弁をされたように感じた騎士もいる。
しかし、アーサー以外の騎士にそう思われたところで簡単に心を許すステイルでもなかった。
「大丈夫です。ダンス前も充分に話しましたので。それに、夜はまだ長いですから。」
軽々とアーサーの言葉を躱すステイルは、そのまま寛ぐように肩の力を抜いて瞼を閉じてみた。さっきよりは重みも減ったが、それでもまだ若干腫れていると自覚する。
こんな大勢の前で醜態を晒してしまった羞恥を誤魔化すように顔の表情筋に神経を尖らせた。うっかり思い出してしまうと表情が一人険しくなってしまう為、できるだけ今は考えないようにする。
「いや〜それにしても驚きました。まさか俺ら騎士と王族がこういう風に真夜中まで騒ぐとか想像もしませんでしたよ。」
話を変えるように、アランが明るい口調で周囲を見回した。
多くの騎士達が呑んでは騒ぎ、既にレオンやセドリック達にすら気を張る必要が無い今、自然体で過ごす騎士が多い。
特にハナズオ連合王国のランスに至っては、国王であることを忘れそうなほどに騎士達へ馴染んでいた。今も騎士の一人と腕を組んで酒を同時に飲み交わし、快活に笑っている。あれで騎士の装いをしていたら確実に紛れていられただろう。ステイルやレオンには決して真似ができない社交性だった。
その傍でランスと騎士達の様子を微笑んで見守っている国王のヨアンも同じ気持ちなのだろうと、ステイルは思う。
そしてセドリックも未だに奪還線で迷惑をかけた騎士達一人一人を探し回って歩いているが、時折立ち止まっては話しかけてくる騎士と親しげに会話を交わしていた。今のところ、王弟相手に「是非手合わせを!」と言える騎士はいないが、それでもセドリックの異様な強さは騎士団の中でも噂になっていた。
「まさか騎士団長がお許し下さるとは……。明日の演習に響かなければ良いが。」
「大丈夫ですよ。むしろ全員士気が上がりっぱなしになると思います。」
前髪を指で払いながら言うカラムに、エリックが苦笑気味に言葉を返す。
もともと一晩程度寝ないことも、三日三晩は戦闘体制が続いても耐えられるように訓練されている騎士達は一晩の宴を翌日に響かせたりはしない。むしろ、プライドと過ごせたと言う満足感と今までの憂いが晴れた彼らは明日からは更に任務に身が入るとエリックは思う。
カラムはエリックに言葉を返しながらまた周囲より更に遠くの方へと目を向けた。本隊騎士に混ざって新兵は壁際に集まっていることが多いが、今は上機嫌の騎士達に「お前らも飲め飲め」と捕まっている。新兵も嬉しそうではあるが、無理に飲まされないようにそろそろ騎士達にも声を掛けに行こうかと考えた。鍛え抜かれた騎士達は響かなくても、新兵には明日に響く者もいる。
「恐らくアネモネ王国とハナズオ連合王国の来賓は、朝までには客室へ案内することになると思いますが……。まだ暫く後になるとは思います。」
そう言いながらステイルは軽く肩を竦めた。
その動作にカラム達もそれぞれ頷く。少なくとも今の雰囲気を見ても誰一人帰りたそうにしている者はいなかった。騎士達もまた、王族相手とはいえ居心地を悪くしている者はいない。むしろ、滅多に直接関わることができない王族との会話を光栄に思い、喜んでいる。
「ステイル様ともお話したがっている騎士は多いですよ。」
むっ、とアーサーからの言葉にとうとうステイルが僅かに眉を寄せる。
そんなに自分を邪険にしたいのかと思いながらアーサーを睨めば、逆に視線で周囲を示された。見れば、長らくアーサー達と話している間にステイルと話す機会を伺っている騎士の数が背後に増している。
アーサーも決してステイルと話したくないわけではない。ステイルとこうして飲めるのも嬉しいし、別に朝まで肩を並べていても構わない。しかし、自分以外にもステイルと話したい騎士達が大勢いるのにも関わらず、いつまでたっても自分達が独占してしまうのは悪い気がした。
ステイルもステイルでアーサーが気を遣ってくれていることはわかったが、それでも少し不満は残る。すると、そこで不意に自分に向けている視線とは別のものを騎士達から感じ取った。すぐに理解し、眼鏡の黒縁を指先で押さえながら、今度はステイルから投げかけた。
「そういうアーサー隊長こそ騎士の方々が御用のようですよ。お話しされないでよろしいのですか?〝聖騎士〟殿。」
ぎくっっ!とその呼び名にアーサーの肩が大きく上下した。
更には周囲にいる騎士もその呼び名を聞いた瞬間に次々とアーサーへ視線を向ける。既にアーサーが聖騎士の称号を受けたのは城内では知らない人間はいないほど知れ渡っていた。特に騎士団ではその情報が回ってすぐ演習場でひと騒ぎ起こった後だった。
彼らにとっても伝説である〝聖騎士〟の称号を得た騎士が現れたことも、それがアーサーであることも声を上げずにはいられないほどの大事件である。騎士団にとってはティアラの王妹継承よりも衝撃的な知らせだった。
聖騎士の称号授与から祝勝会まで慌しく直接アーサーに話題を振れる間もなかったが、全員興味がないわけがない。パーティーが延長となった今、プライドだけでなくアーサーにも祝いの言葉を掛けたいと思うのは当然のことだった。
「今その名で呼ぶンじゃねぇよ……!」
「事実だろう。伝説の聖騎士様だ、今は俺よりも注目度は高いぞ。」
コソコソと声を極限まで潜めながら互いに目だけで睨み合い、いつもの口調で話す二人にエリック達は笑いを堪えた。
さっきまで整った言葉同士で話していたのに、今は二人して闘気まで僅かに放っている。アーサーとステイルの仲を知っている彼らの目にはただただ微笑ましい。
それから思い出すようにエリックは「あ」の形に口を開けた後、アーサーへと笑いながら言葉をかけた。
「アーサー、言っておくけどお前とステイル様が御友人なのはもう騎士団全員が知ってるからな。」
新兵も含めて、と。その言葉にアーサーは思わず「え⁈」と声を上げた。
同時にステイルが顔ごとアーサーからぐるりと逸らす。それだけでアーサーは誰の所為でバレたのかは察しがついた。勢いのままに「どういうことっすか⁈」と声を荒げたが、近衛騎士三人から返ってくるのはなんとも言えない困り笑いだけだった。自分達から言っていいのか本人を目の前に考えあぐねてしまう。
するとアーサーは言葉を確かめるように今度は周囲の騎士を丸い目で見回した。さっきから数歩離れた位置でアーサーやステイルと話す為に背後に控え、エリックの発言も聞こえていた騎士達は全員がアーサーの視線に二度の頷きで応えた。
アーサーとステイルの友人関係は、七年前から所属している騎士にはわりと有名な事実だ。同時にそれ以降の騎士にはそこまで知れ渡ってもいなかった。だが、今アーサーへと首を縦に振った騎士には七年前以降に騎士団に所属した新兵まで混ざっている。自分とステイルを見るひたすら温か過ぎる眼差しに、とうとうアーサーは隣で顔を逸らし続けるステイルへと視線を刺した。
「……ステイル様。どォいうことかお聞かせ願えますか。」
あくまで言葉だけは整えて尋ねるアーサーからは王子に向けているとは思えない物騒な覇気が漲る。
見ずともその覇気に首筋をなぞられ、ステイルはグラスの中身を一口飲み込んで自分を落ち着かせた。それから呟くように言葉を返す。
「…………少し士気を上げる為に話しただけだ。」
ぼそり、と独り言のような声にアーサーは思わず「アァ⁈」と唸りたくなった。
もともとステイルとの友人関係を隠したがっていたのはアーサーの方だ。ステイルからすれば、アーサーをプライドの近衛騎士にしようと決めた時点で公表しても構わなかった。しかし、それでも今まで何だかんだとアーサーの要望に合わせてステイルもちゃんと隠し続けていた。しかし
「士気……ってどォいうことっすか。」
「僕が奪還戦で騎士団を指揮することになったので。負傷したアーサー隊長と友人関係であることを示した方が、より騎士達から信頼もいただけると考えました。」
「ンなことしなくてもステイル様ならとっくに騎士達からの信頼も支持も得ていたでしょォが。」
「アーサー隊長が負傷されていて騎士達から戸惑いもありましたから、丁度良いかと思いました。」
ピリピリと、まるで今にも落雷が落ちそうな雰囲気にエリックは思わず一歩後退る。
アランとカラムにも目配せし、言わない方が良かったかと案じたが二人もエリックと意見は同じだった。既に騎士団では知られているにも関わらず、アーサー本人だけがステイルと騎士達の前でも距離をとって見せている姿は少しだけ不憫でもあった。隠している本人以外、全員に周知の事実なのだから。
冷戦状態のようにピリピリと整えた言葉で言い合いをする二人に周りの騎士達も少し戸惑うが、アラン達にはもう慣れた喧嘩だった。むしろ、未だに騎士達の目を気にしてステイルに殴りかからないアーサーに成長したなと感慨深くすら思ってしまう。自分達の時には、見られていることも忘れてステイルに頭突きを食らわしたことを思えば、今の光景を前に笑みすらこぼれてしまう。更にはステイルの言葉が上手く嘘を含めて誤魔化そうとしているのも明らかだった。
騎士団への士気を上げる為に高台にステイルが立ったのは事実だ。しかし、どう考えてもあの時のステイルの言葉はアーサーとの友人関係を士気に利用したものどころか、意図的に含めた情報とすら思えない。
『右腕を奪われし我が友が誇る貴方方を……ッ信じます‼︎‼︎』
どう見ても、あの時のステイルの言葉は紛れもない本心としか見えなかった。
しかし、友人関係を明かしたことは認めても自分自身の発言だけは煙に巻こうとするステイルに、彼でもアーサーに隠したいことはあるのだなと近衛騎士達は思う。ただし
「そのツラやめねぇとぶん殴ンぞ……‼︎」
アーサーにだけは、通用しない。
ステイルの表情から彼の取り繕いにとっくに気付いていたアーサーは、潜めた声でステイルに凄んだ。バキキッと片手で拳を鳴らし怒りを露わにするアーサーの姿は、言葉こそ聞こえてはいないが蒼く燃える眼光とその覇気で充分に一触即発の雰囲気が漏れ立たせていた。今は勝手に秘密をバラされたことよりも、自分に向かってペラペラと違和感塗れの顔で誤魔化そうとしてくることの方が腹立たしい。
アーサーの言葉にステイルも取り繕いの表情を読まれたと理解する。言い返す途中で口を噤む。グラスの残りを一気に空にし、飲み込んだ後にはジトリとした眼差しでアーサーを睨んだ。その姿は完全に騎士達用の澄ました表情でもなく、近しい相手だからこそ見せるむくれた顔だった。
「…………彼らと抱く怒りは同じだと伝えただけです。貴方が負傷などしなければ言う必要もありませんでした。」
お前が負傷したのが悪い。そう言わんばかりの言葉に今度はアーサーが口を閉ざし、苦い顔をした。
今度こそステイルの言葉は、含みこそ持たせているものの嘘偽りのない本心だった。
自分の負傷がステイルや騎士達の気を病ませたことを痛感しているアーサーは、うぐぐっ……と言葉を詰まらせ覇気も削げた。切り返しようはいくらでもあったが、うっかりステイルの傷を自分で抉ってしまった気がした。思わず怒っていた筈の自分の方から「わりぃ」と謝りたくなってしま
「おい主‼︎‼︎レオンがテメェに言いてぇことがあるってよ‼︎」
ヒャハハッ!と高笑いを上げながら響く声を上げるヴァルに、一気に二人の注意が切り替わった。
バッ‼︎と声のする方へ同時に振り向けば、ヴァルがニタニタと悪い笑みを浮かべながらプライドの方へ一直線に歩いている。その上、彼が肩に腕を回して連れ歩いているアネモネ王国の第一王子の為に騎士達が次々と道を開けていた。既に抵抗を諦めてきていたレオンは、両手をセフェクとケメトに引かれながら力なく歩いている。
ヴァルの乱暴な声に、プライドも椅子の上から顎を反らして視線を上げる。その動作に自然とプライドの周りの騎士達も彼女の視界を妨げないように左右へ避けた。まるで海を割ったかのように道ができ、その真ん中をヴァルは爽快に歩く。
「ヴァル、レオン。」
プライドに呼ばれ、ゆらゆらとヴァルに釣られて揺れながら歩いてくるレオンは一度口の中を噛んだ。
今にも逃げ出してしまいたいような、このまま波に身を任せてしまいたいような欲求がせめぎ合う。未だに自分の中に芽生えてしまった感情に戸惑いが隠せない。
明らかに様子のおかしいレオンと悪い顔で笑うヴァル、そしてレオンを強引に引っ張るセフェクとケメトにプライドは首を捻る。「一体どうしたというのですか」と続けてヴァルに尋ねれば、彼のニヤつきが更に強まった。
陽気な音楽が演奏家達によって奏でられる中、彼らの周囲は恐ろしく静けきっていた。先ほどダンス中にヴァルがプライドに不敬を犯したことをこの場にいる騎士全員が目撃している。
ヴァル達がこの場にいることも、プライドとダンスを踊ることも黙認していた騎士達だが、あの時のプライドへの不敬だけは別だった。ダンス中でなければヴァルに一撃食らわせたいと思った騎士はハリソンだけではない。
レオンを人質状態にされながらプライドに歩み寄るヴァルに、騎士達が警戒を強める。彼らからの敵意にいっそ心地が良いと思いながら、ヴァルはプライドから三メートルほど手前の位置で足を止めた。ニタニタニヤニヤと笑うヴァルと、バクバク心臓の音がうるさくなっていくレオンが並ぶ。パッとそこでレオンから回した腕を離したヴァルは、その手を今度は手前の肩に置いた。そして
「今なら合法だ。」
レオンの耳へ、ニヤついた顔のまま息に近い音で囁きかけた。
その言葉に、レオンは絞る唇に力を入れた。究極の誘惑を受け、死にそうな顔で訴えるようにヴァルを見つめたが、彼のニヤつきが増すだけだった。そのままヴァルが手で指示を出せばレオンの腕を引くセフェクとケメトが二人でレオンをぐいぐいとプライドの前へと連れて行く。
「レオン。どうかしたの?」
まさか体調が悪くなって帰るとかだろうか、とプライドはレオンの赤い顔を椅子から覗いて尋ねる。
翡翠の瞳を揺らし、唇を震わせるレオンは目の前でちょこんと座るプライドにそれだけで今は胸が高鳴った。自分でも動揺しているとわかるほど、心臓が踊り出す状態に何かの病気かなとすら思う。
自分の選んだ、自分が最も彼女に似合うと思ったドレスと髪飾りを身につけ、これ以上なく愛らしく飾られたプライド相手に今までのように言葉が上手く出ない。いつもならば流れるように出る本心も、彼女への賞賛の言葉も好意や愛の言葉も出てこない。熱を持った感情が喉につまり、細い喉から先を通らない。
躊躇い、王子として盟友としてと理由を頭の中で作り上げ、理性で自分の欲求を全力で押さえつけようとする彼の背を押したのは
─ 僕だって、踊りたい。
芽生えた、友への小さな嫉妬だった。
「あのっ……プライド。」
詰まらせた白い喉を鳴らし、やっと言葉を紡ぐ。
ガタつく足で更に一歩、座する彼女の前へと歩む。
レオンが自らプライドの前に出たことで二人は掴んだ手を緩めた。そのままセフェクとケメトが振り返れば、ヴァルが指だけで軽く手招きするように動かして見せた為、何も言わずに駆け足で彼らはヴァルの元へ戻った。
レオン一人が、プライドの前に残される。
指先が痺れるように震わせながら、レオンは躊躇いがちに解放された手を彼女へと伸ばした。
「一小節、……一瞬でも良いんだ。」
伸ばした手をそのままに片膝をつき、背筋を伸ばす。
まるで求婚をするかのようなその姿に、見る者は息を飲んだ。掠れたその声は乞い願うように切なく、そしてこの上なく甘かった。
レオンの言葉と姿に、紫色の目を見開くプライドは唇を固く結び、呼吸も止める。数秒間、最後の言葉を躊躇っている間にも続きを待ち続けてくれるプライドへ、とうとうレオンは真っ直ぐと透き通る目を向けた。顔に力が入り、眉を寄せ、苦しそうにも見えるその表情は、滑らかな笑みも妖艶さもなくただただ険しく、強かった。
「今の君と、踊りたい。」
覚悟を決めたその声は、最後に吐いた息が余韻も残さずに震えた。
すると、次の瞬間には間髪入れず伸ばしたその手が掴まれる。パシンッと肌と肌が合わさる音の直後、今まで座していた王女が飛び出すように立ち上がる。
「何言ってるのっ!」
明るい声でそう発し、片膝をついたレオンを立たせるように引き上げ、細い両手でそのまま彼を連れ去るように引っ張った。
意図の読めない彼女の返しと、手を取られたことの歓喜で茫然とするレオンは引かれるままに足を動かす。眩しい彼女の笑みに頭がぼやけるのに反し、その足は驚くほど軽かった。
「一小節なんて勿体ないわ!最後まで踊りましょうっ!」
嬉しそうに声を上げ、軽いステップで彼女はレオンを中央フロアまで引っ張った。
プライドに手を取られ、深紅に揺れるドレスと髪がレオンの脳まで激しく揺らす。心臓が跳ね上がり、息をすることすらわからない。ただ彼女の笑顔も声も呼吸も全てを見逃したくなくて瞬きを瞼が拒絶した。
「待っ……待って下さい姉君!貴方は休んでいないと」
「もう休んだから大丈夫っ!疲れなんて忘れちゃったわ!」
「ッそう言ってさっきも俺とのダンスで無理をしたではありませんか‼︎」
心配をよそに軽やかに断るプライドに、ステイルが叱るように声を上げる。
プライドの傍に居たジルベールに、何故彼女を止めないのかと一度睨んだが、ジルベールは既に一時間はとっくに過ぎていると時計を指して笑んでみせた。
ステイルの心配も尤もだが、プライドは怪我をしているわけでもない。彼女が隣国の王子とのダンスを受けると言うならば、宰相のジルベールが止める理由はどこにもなかった。
そのまま楽しそうにダンスフロアでレオンとのダンスを組み合うプライドを、もう止めることはできない。更には心から嬉しそうに顔を綻ばすレオンを相手にここで強制中断させることも咎められた。
怒りの矛先を探すように視線を振ると、ちょうどその先でヴァルがヒラヒラとニヤつきのままステイルの方へわざとらしく手を振っていた。
「お、ま、え、は‼︎」
ダンスをするプライドとレオンを諦め、ステイルにしては珍しく大股で騎士を突っ切りヴァルへと向かう。
ヴァルの挑発に乗ってしまっているステイルを追うようにアーサーも続けば、更にヴァルはケタケタと二人を嘲笑った。
「レオン王子に何を吹き込んだ⁉︎」
二人のダンスを邪魔しないように声を抑えながら、それでも荒げるステイルをヴァルは可笑しそうに見下ろした。両脇には人混みの中でしっかりヴァルにしがみついているセフェクもケメトが並んでいる。
プライドにダンスを望むレオンがヴァルに唆されたのは二人の様子から見て明白だった。何よりレオンなら自分から二度目のダンスをプライドに誘うわけがない。プライドの疲労と今回の祝勝会の主旨を伝えたことから考えても、レオンだけの行動にしては不可解だった。
「主ならダンスに誘っても簡単に受けるってな。間違っちゃいねぇだろ?純情な王子サマの背中を押してやって何が悪い?」
「押したっつーかセフェクとケメトに引かせてたろ‼︎」
二人を巻き込むな‼︎と今度はアーサーが怒鳴る。
しかしそれもヴァルは愉快そうに眺めるだけだった。ステイル達の反応だけでもレオンを焚きつけた甲斐はあったと思う。怒鳴る二人を無視して軽く顔の角度を変えれば、流れ続ける軽快な音楽に乗り、ステップを弾ませるレオンとプライドの姿があった。
「別に構わねぇだろ、たかがダンスの一つや二つ。」
「姉君がもう何人と踊ったと思っている⁈」
どうでも良さそうに話すヴァルにステイルが歯を剥く。それに対し、数えてねぇなと一蹴されればはぐらかすヴァルへ黒い覇気を渦巻いた。アーサーが「おい!」と抑えるようにステイルの肩を掴むが、苛々と込み上げるようにステイルは更に続ける。
「大体お前はさっきのダンスでも……‼︎」
あー?と愉快そうに口角を上げながらヴァルが聞き返すが、それにステイルを押さえようとしていたアーサーも「あっ!」と声を上げた。
二人もヴァルとプライドとのダンスは一部始終見ている。とうとうアーサーまでグルルッと歯を剥き、ステイルに並んでヴァルを睨む。
「ッそうだテメェ!プライド様にいきなり何してやがるッ⁈」
「公衆の面前で姉君を襲うなど‼︎普通ならばあの場で粛正ものだ‼︎」
「なんだ?公衆じゃねぇで主と二人きりなら良かったか?」
ざけンな!ふざけるな‼︎と、ケラケラと笑いをやめずにおちょくって見せるヴァルの言葉に二人の声が荒く合わさった。
言いながら怒りとそして別の理由でも顔が赤くなる二人をただただ小馬鹿にする彼の笑みに、ステイルはこの場で平伏せとでも命じてやろうかと本気で考える。だが、ギリギリのところで踏み止まる。代わりに疑問を頭に通さずそのままヴァルへと投げ掛ける。
「一体お前は姉君をどうしたい⁈」
「ハッ!……どうだかな。」
漆黒の眼差しを鋭くしながら声を荒げるステイルに、ヴァルは鼻で笑い飛ばした。
その返答に、口にした直後発言を誤ったと思ったステイルは目を見開き言葉を無くす。黙りこくったステイルに、アーサーが「おい、どうした?」とその肩を叩けば彼は押されるように口を開いた。
「…………おい。何故いま俺の問いに答えずにいられた……?」
まさか。と、信じられないようにステイルが尋ねる。
ステイルの言葉にアーサーも気付き、息を引く。直後に「テメッ……」と零したが、ヴァルは二人の反応を楽しむようにニヤニヤと笑いながら煽るように手を振るだけだった。
次の瞬間にはステイルとアーサーが「どういうつもりだ‼︎」「テメェ他にもプライド様に何かやったのか⁈」と交互に怒鳴るが、二人が怒れば怒るほどヴァルは愉快になるだけだった。とうとうゲラゲラと腹を抱えて笑うヴァルに、二人が湯気を出して牙を剥く。
「……なぁ。どっちにしろアレじゃ、友人だって隠すの無理だよな?」
「完全に肩並べてますしね……。」
「ステイル様まで言葉遣いがかなり乱れておられるが。」
アーサー達の牽制し合いに、アラン達は苦笑う。
前科者且つ配達人と、第一王子と聖騎士の喧嘩は、本人達こそ気付いていないが、近衛騎士達だけでなく大勢の騎士達の目に止まっていた。
レオンとプライドのダンスと注目度を二分するほどの諍いに、遠目で眺める騎士団長のロデリックも片手で頭を抱えた。聖騎士になったばかりの息子が王子と共に言葉を乱し、完全に前科者に煽られている。
隣で笑っていた副団長のクラークも、途中である一方向から殺気を感じ、仕方なくハリソンが早まらないようにと宥めに向かった。
殺気と怒鳴りと覇気と笑い声に、離れた場所にいる騎士達までもが「喧嘩か?」「誰だ」「騎士団長に叱られるぞ」と騒ぎ立てる。まさか自国の王子と聖騎士だとは露にも思わない。
「…………セドリック王子っ。」
騒ぎと興奮が入り混じり、鎮まることなく昇っていく中。
最前列でプライドとレオンのダンスの方に夢中になっていたセドリックに、不意に声が掛けられた。鈴の音のようなその声に勢いよく振り返れば、金色のウェーブがかった髪を揺らすティアラがそこに居た。
ティアラ!と一歩たじろぐが、蕾のようなその唇が視界に入った次の瞬間、ボンッとまた顔が沸騰してしまう。
セドリックの反応に、ぷくっと頬を膨らませたティアラは丸い目を尖らせた。いつまでもそんな反応では、まともに会話なんて一生できない。話しかけてくる時は平然としているくせに、何故自分から話しかけるとそうなるのかと文句を言いたくなってしまう。だが、セドリックの赤面の理由が確実に自分の所為だともわかっているティアラは、そこまで厳しくも言えなかった。
向かい合うことを諦め、無言のままセドリックの隣に並ぶ。彼ではなく、正面で軽やかにステップを踏み踊るプライドとレオンへ目を向ければ、セドリックも合わせるように視線をそちらへ向けた。
ティアラから話し掛けてくれたということは何か自分に要件があるのか、と思いながら真意は読めない。だが、そうでなければ自分を嫌うティアラがわざわざ忙しい合間を縫って自ら声を掛けに来てくれる理由も見つからなかった。さっきまで夢中になっていたプライドとレオンのダンスを眺めながら、今は頭の中が忙しい。促せば良いのか、待つべきかと考えれば先にティアラが小さくその口を開いた。
「……素敵ですよね。お姉様とレオン王子のダンス。」
唐突な目の前の話題に、セドリックは一人瞬きを繰り返す。
「あ……ああ」と返すが、今は彼女達のダンスよりもティアラの真意が気になって仕方がない。しかし、折角ティアラが話題を振ってくれたのに流すわけにはいかないと言葉を続けた。
両拳を握りしめるセドリックに対し、ティアラも前に重ねて指を組んだ自分の手をぎゅっと握り締めていた。横目でその手だけを確認した彼は、きっとティアラも複雑な気持ちなのだろうと思う。
「だ、……だが、レオン王子とお前もダンスをすればきっと絵になるだろう。」
「そんなことはありませんっ。お姉様のダンスは世界で一番素敵ですもの。」
気を遣ったつもりが、逆に叩き折られる。
レオンとプライドとのダンスに、胸を痛めているのではないかと思っていたセドリックは思わず下唇を噛んだ。どうにもティアラ相手には空回ってばかりだと気落ちする。
ティアラがレオンからの愛情をどのように受け止めているかはわからないが、非の打ち所がない彼に心揺らがないわけがない。奪還戦では身を呈した活躍を見せた彼の元にティアラがプライドと共に毎日足しげく通っていたこともセドリックは知っていた。
更に言えば、奪還戦中に〝ティアラを想って〟見せたレオンの目は間違いなく本物だったとも思う。ティアラの特殊能力が露見した時点で隣国であるアネモネ王国の王子とティアラの婚姻は不可能になった。しかし、一度芽生えた想いを消すことは不可能だとも思う。自分が、叶わないと思いながら未だにティアラへの想いを消せないように。
彼女の顔を直視もできないまま、目の前の美しい光景を眺めてただただ沈黙と時間だけが過ぎていく。折角隣に彼女が立ってくれたのに、何もできないままかと歯を食い縛ったセドリックは覚悟を決める。
彼女の横顔へ意思の力で無理やり顔を向け、抑えた声でいざと問い掛ける。
「ティアラ。せっ……先日の、件なのだが。あの、〝誓いではなかったもの〟に関して、真意を尋ねても」
「言いたくありませんっ。」
ビシッとまた鞭を振るうように厳しく断じられる。
名を呼んだ直後こそ自分に小さく顔を傾け、丸い目で見返してくれたティアラだが、その話題を出した瞬間にまた眼差しが厳しくなって正面へと背けられた。
すまない……と、謝りながら肩を落としたセドリックは視線を足元に落とす。ティアラが嫌がっているのならば、無理に聞くわけにはいかない。何より万が一にもその真意が自分の夢描くことと同じ理由であれば、これ以上尋ねることは女性に恥をかかせる行為にもなる。まさかティアラがそんな理由でとはあり得ないと思いながらも、どうしても希望が捨てきれない。
「……言いたくはありません、けど。」
ぽそり、と少しの沈黙の後にティアラが囁くような小さな声で続けた。
見れば、彼女の視線は未だレオンとプライドへ注がれたままだ。言葉こそセドリックに向けるが、視線まで向けようとはしてくれない。
だがそれでも彼女の言葉の続きを待てば、次第にティアラの頬が桃色に染まっていった。顎や重ねた手を微弱に震わせながら、上擦りかける声を必死に抑え、顔を正面のまま視線はセドリックと正反対の方向へ逸らして言葉を放つ。
「……代わりにっ……だ、ダンスなら受けても構いません、けどっ……。」
は、と。セドリックの目が見開かれる。
緊張から真珠のような汗を頬から首筋まで伝らせ、両手を重ねて握ったまま震わす彼女は、未だにセドリックへ顔を合わせない。ただ、その上擦りながらも消え入りそうな声だけはっきりと彼の耳に届いた。
レオンの代わりか、プライドと並んでダンスを踊りたいからか、それとも単なる優しさか。ティアラが嫌う自分の手を取っても良いと言ってくれる理由など、それ以外は考えつかない。
「ぁ……貴方が、御誘いして下さるなら……っ。」
ただ、そのどれでも今は構わないとセドリックは思う。
恥じらうように桃色に肌を染め、か細い声を僅かに震わせ言葉を噤む彼女はその全てを平伏させるほどに愛しく愛らしい。
軽快で陽気な音楽が鳴り響き、自分が初めて愛した女性が美しいドレスを身に纏ってそこにいる。ならば、誘わない理由などどこにもない。
ティアラへと身体ごと向き直り、彼女と同じ金色に輝く髪を靡かせ片膝をつく。突然跪いたことで、ぶわりと彼の裾と金色の髪が風圧で揺れ、広がった。王族として恥じない姿を、彼女を誘うに相応しい振る舞いをと指先まで意識を払い、眩い彼女へと手を伸ばす。
「どうか貴方と最初に踊る最高の栄誉を、私に。この世界の誰よりも貴方とのダンスを望みます。」
ティアラ・ロイヤル・アイビー第二王女殿下、と。整えた言葉でそう語られ、急速にティアラの顔が耳まで熱くなる。
ティアラが自分の畏まった言葉を嫌がることをセドリックは当然覚えている。だが、それでも今この場ではハナズオ連合王国の王弟として、彼女にダンスを求めるに相応しい人間として振る舞いたかった。
誠心誠意を尽くした彼の言葉に、小さな心臓が信じられないほど大きな音を奏で出す。
─ さぁ始めよう。
「レオン!誘ってくれてありがとう。貴方とまた踊れてすっごく嬉しいわっ。」
「僕の台詞だよ。今の君は世界で一番魅力的なんだから。」
─ とてもとても幸福な
「ッ今まで俺達の知らないところで姉君に何をした⁈」
「テメェ最初からそれが狙いだったのかよ⁈」
「知りたけりゃあ主に直接聞くんだな。」
─ 誰にも譲れない物語。
「なぁ……さっきからハリソンの方から殺気がすげぇんだけど。」
「無理もない。明らかに配達人とアーサーが不穏な会話をしているからな……。」
「あ、でも副団長が向かってくださってますよ。」
─ 最高の幸福な物語を、いま
「お騒がせして申し訳ありません国王陛下。もし何かありましたら御遠慮なく私へお申し付け下さい。」
「とんでもない!この上なく楽しませて頂いております。」
「ランス、君はむしろ馴染みすぎな気もするけれど……。ところでジルベール宰相殿、セドリックを見かけませんでしたか?」
─ 始めよう。
「……喜んで。」
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