646.怨恨王女は手を引く。
「近衛兵、ジャック・ダグラス。」
その名が呼ばれた瞬間、会場は再び湧き上がった。
王子、騎士団長と続き、たった六人しか許されない第一王女とのダンス。それを許されたのは今回特別に来賓として招かれた衛兵の一人。
貴族や他の王族、騎士を差し置いての指名にジャック本人だけでなくその場にいた衛兵の誰もが声も出ないほどに驚愕した。
騎士と衛兵は、違う。騎士は貴族の家柄から所属している者も少なくなく、騎士自体が称号でもある。それなりの地位もあり、城下に降りれば民に騎士〝様〟と崇められることも多い。
だが、衛兵はその殆どが雇われただけの兵士だ。職務中は護衛や警備の為にそれなりの権利も与えられるが、制服さえ脱げば民と変わらない。城で働く従者や侍女とも立場はそう変わらない。絶対的な戦力を誇る騎士団と比べれば〝騎士になれるほどの能力を持たない者〟と見る民もいる。そんな立場の人間が、祝勝会に招かれた上級層の人間よりも第一王女に優先された。
事前に書状で衛兵を招くことと彼らの待遇について知らされていた来賓よりも、むしろ衛兵達の方が遥かに衝撃を受けていた。
「ジャック!」
当然、彼にとっても。
名を呼ばれた後も、信じられずに放心する彼をフロアからプライドが声を張り上げ呼び掛ける。
彼女の視線から、ジャックがどの衛兵かわからなかった来賓も当たりをつけるように彼の方へ視線を向けた。今、目の前で起こっていることが現実かどうかもわからないジャックはその視線の雨だけで息が止まった。何故自分が、と疑問が頭を埋め尽くす。
とにかく第一王女を待たせるわけにはいかないと、それだけが強張る足を動かす原動力になった。ヨタヨタといつもの彼にはあり得ないぎこちない歩みに、他の衛兵達は手を貸してやりたかったが動けなかった。寡黙だが人当たりも悪くないジャックは、同じ衛兵達にも好かれている。しかし、第一王女から指名を受けた人間相手に今この場で気安く背中を押すことも、更には上級層の注目を一身に浴びる勇気も出なかった。
足がよろめくジャックに、誰もが道を開ける。いつもならば衛兵である彼が必ず道を開ける側であるにも関わらず。しかも、その誰もの眼差しは嫉妬や侮蔑ではなく〝プライドからの指名〟という映えある称号を与えられた人間への賞賛や羨望に近かった。
更には彼を迎えるように王族と騎士達を始めに拍手が鳴らされた。パチパチと包むような柔らかい拍手の音がジャックの耳を塞ぐ。眩しい照明の下が近づくにつれて足が躊躇いたいように重くなる。すると
ざわり、とその拍手の音を打ち消すほどに来賓が波打った。
「驚かせてごめんなさいっ。……大丈夫⁇」
プライドが、自らフロアから降りてジャックを迎えに来たからだ。
軽い足取りでよろめく自分に正面から歩み寄る彼女にとうとうジャックの足が止まる。第一王女自ら迎えに来るという事態にどう対処すれば良いかも衛兵の彼にはわからない。
しかし、目の前で心配そうに自分を見上げてくるプライドに彼は今更気が付いたかのように目を丸くし、思う。
ダンスの相手はプライド様だ、と。
そう思えば、急激に身体が軽くなった。
目の前のプライドへ待たせた謝罪を示そうとした身体が、全く違う目的に動く。緊張を抑える為に降ろしたまま固めていた腕を持ち上げ、拳を解き、そしてプライドへと差し伸ばす。
男性であるジャックからでしか伸ばせない、ダンスを誘う為のその手をプライドは満面の笑みで受け取った。
両手で包むように彼の手を掴み、そしてダンスフロアへと彼の手を引いていく。「行きましょう!」と弾む声で望まれれば、先ほどの重さが嘘のように足が動いた。
自分の手を引いているのは第一王女。今回の奪還戦で誰もが取り戻したいと願った、この国の第一王位継承者。多くの民に愛され、求められた特別な御方……では、なく。
幼い頃から見てきただけの、立派に成長した少女だ。
「大丈夫、私に任せて!」
十年以上前から見てきた、我儘だった幼い少女。
その少女が、今はこうして自分にダンスを招くほどに成長した。ダンスなど踊ったことがないかもしれない自分の手を取り、馬鹿にすることもなくリードしようとしてくれる。
眩い照明の下で、自分と踊れることを心から嬉しそうに笑い、足を運ぶ彼女は間違いなく自分のよく知るプライドだ。
近衛兵とされるまでは、プライドの護衛につくことも四六時中ではなかった。しかしそれでも城で雇われ、衛兵として警護や護衛につく中で第一王女であるプライドの姿は何度も目にしてきた。産まれた時には国中に喜ばれ、母親であるローザにこれ以上なく愛されていたことも先輩である衛兵に何度も聞いた。
そして彼女が自己中心的な我儘に育ち、突き離されてからは歪み、陰口を叩かれていたその光景をジャックは他の衛兵と同じように黙し続けた。彼らの仕事は守ること。……関わることではなく、その権利もない。
当時、まだ王族の生活区域護衛の任など任されるほどの齢でも立場でもなかった彼が第一王女の護衛を許されたのも、単に彼女の身の回りだけが〝人員不足〟だったからだ。任じてもすぐに辞め〝させられ〟る、追い詰められる。誉高き王族の傍でありながら、城内で最も嫌厭されていたそこに付きたがる者など居なかった。
そんな中であの運命の日にプライドの護衛配属を彼が望んだことも、八歳だった彼女が窓から落ちないように手を伸ばしたのも、第一王女の為というより他の要因の方が遥かに大きかった。
「驚かせてごめんなさい。どうしてもジャックと踊りたかったの。」
目の前で申し訳なさそうに眉を垂らしながら笑う彼女に、短く言葉を返しながらジャックは思う。
きっと今の自分ならば、他の要因が無くてもプライドの為だけに身を投げるくらいはできるだろうと。幼い頃からプライドを知るジャックにとって、既にプライドは妹や娘のような存在なのだから。
あれから心優しい王女に変わり、成長し、……そしてまた〝戻ってしまった〟のだと思った。それからプライドを取り戻す為に自分は全く何もしていない。離れの塔から逃げるプライドを止めることもできず、奪還戦中も彼はずっと命令で城の地下に避難する侍女達の護衛に付いていたのだから。
「本当に衛兵には迷惑どころか酷いことばかりして……今更こんなことされても困ると思ったけれど、それでもちゃんと貴方達にも返したかったの。」
……返すというならば、もう返されている。
遠慮ではなく、ただ事実としてジャックは胸の中でそう思った。
彼だけではない。ここに招かれた衛兵の誰もが一人もプライドへ不平不満を持っている者はいなかった。
プライドに直接傷を負わされた衛兵すら彼女を責める気は全くない。むしろ、この場に招かれたことに待遇が良すぎるのではないかと案じる者ばかりだった。
単純に王族である彼女に何をされても文句は言えない、当然の権利だと思っているわけではない。当時につけられた傷が痛まなかったわけでも、そして衛兵である彼らはその事実を忘れているわけでもない。
当時の衝撃も圧倒的な力の差を見せつけたプライドへ恐怖を覚えたことも、彼女の引き攣ったような笑顔も見た者は全員が覚えている。今でも、もしあのプライドが再び現れれば息を飲み、喉を反らして慄くのは間違いない。
だが、プライドが元の状態に戻った今、彼女に対してそういう感情を持つことはできなかった。
操られていた彼女を責めたくないという気持ちも当然ある。だが、それ以上にあの時のプライドと今のプライドを同一人物と考えることの方が難しかった。アダムの特殊能力で操られていたことは知っている。だが、そこであの状態がプライドの本質だと考える者はいなかった。
それほどまでに、この十年で培われた信頼は確固たるものだった。
だからこそ、誰もが今の彼女を責めようとも嫌悪しようとも思わない。
醜悪な姿を露わにしたプライドを目にしても尚、彼らからの信頼は揺るがない。プライドから傷を受けた者は彼女が操られていた真実を知ってからはただただ己が無力を呪った。彼女を止められなかった、そして傷を受けたことで元に戻った彼女が気に病むだろうと逆にそちらの方へ胸を痛ませる者もいた。
そう思われるほどに彼女は常に衛兵にも心を砕き続けていたのだから。
城を守り、城下の視察にも同行する彼らは知っている。
彼女が城下に降りる度、民の暮らしを心から気にかけていることを。
彼女が民には目が届かない筈の城内で、自分達にも礼を尽くし続けてきてくれたことを。
自分達と同じ庶民出である義弟のステイルを受け入れ、そして慕われるほどに心を傾け続けていたことを。
侍女だけでなく、騎士道と誇りを重んじる王国騎士団にも慕われ、絶対的な支持を受けている彼女のことを。
衛兵である自分達の前では聞かれても問題がないと、彼女の陰口や噂を撒き続けたジルベールや上層部の人間にすら慕われるようになったほどの人望を。
婚約者であったアネモネ王国の第一王子と婚約解消しても尚、盟友として表向きではなく本当に友人として親密に関わっている彼女のことを。
騎士や上層部のように権力を持たない彼らだからこそ、城で働く誰よりも深く王族の裏も表も知ることのできる彼らだからこそ、直接関わることが少なくとも彼女のことを誰もが慕った。彼女の表も裏も全て知れる彼らだからこそ、プライド・ロイヤル・アイビーという人間を慕った。
騎士や専属侍女だけでなく、自分達衛兵すらをも側近に付かせる価値があると判断し、歴代の王族で初めて〝近衛兵〟を提案した彼女を。
八歳までの悪評を覆すほどの十年間の振る舞いと功績を持つ彼女を。
ただ、ただただ慕った。
しがない衛兵でしかない彼らが、心から彼女の王政を望むほどに。
そして今、彼女は上層部や上流階級の者しか呼ばれない祝勝会に自分達を招いてくれた。そこに居るのは間違いなく自分達が知る、衛兵すらをも重んじてくれるプライドに他ならなかった。
怪我を負わされた衛兵が誰なのか、プライドが操られている間に彼女と少しでも関わった衛兵を調べ、強制的にこの場に招いたのはステイルだ。しかし、プライドは招かれたその衛兵の誰が自分が怪我を負わせた衛兵か、どんな扱いをしてしまったかまで覚えていた。
優れた頭とはいえ、セドリックのように絶対的な記憶能力はない。一度学んだことは基本的に忘れない彼女だが、興味のない人物であれば当然記憶にもとどめない。狂気に溺れ、衛兵をゲームのキャラクター以下としか見れなかった彼女がそれでも彼ら一人ひとりへの行いを覚えていられたのは、この十年間のプライドが衛兵一人一人を認識していたからに他ならなかった。
「……プライド様。貴方様が戻られた時点で、我々は充分に報われております。」
いつも寡黙なジャックが口にする、衛兵の全総意を。
ジャックを誘導するように共に音楽に流れながらプライドは少し目を丸くする。彼へ視線を向けながら、どういう意味かと尋ねるように紫色の視線を注ぐ。
自分が狂気から救われて元に戻っても、それは単に振り出しに戻っただけだ。彼らが受ける必要のなかった被害を受けたことには変わらない。なのに何故、自分が戻っただけで報われるといえるのか。
そう思いながら、ジャックが再び口を開いてくれるのをプライドは黙して待った。共にくるりと孤を描き、緩やかにステップを踏みながら次第に自分が誘導しなくてもリードしてくれるジャックに、もしかして今までも誰かとダンスをしたことがあるのかなと考えた時やっと彼の口が開かれた。
「この国に、城に、王居に、宮殿に、……いずれは王宮に。そこに居られるプライド様の日々を守ることこそが今も変わらず我々の喜びであり、誇りです。」
その言葉に、プライドは今度こそ目を見開いた。
常に落ち着き、多くを語らないジャックからの言葉は彼女にとって大きい。彼から向けられた温かな眼差しと柔らかな笑みが夏の陽射しのように胸に突き刺さる。
実直とも呼べる彼がそんな風に嘘をつくとは思えない。間違いなく彼の本心だと思えば、プライドは堪えるように下唇を噛み締めた。十年前に侍女のロッテやマリーと共に初めて自分の城生活を色づけてくれた彼は、プライドにとっても身内に等しい。
ジャックの言葉は、この上なく真実だ。
祝勝会でプライドと直接言葉を掛けられた衛兵は、目の前にプライドが現れるだけで熱が上がった。来賓である王族や貴族、彼らとの会話より優先して自分達のところへ自ら話しかけに来てくれたことに緊張で顔が強張り、赤らんだ。畏れ多い、自分などを気に掛けてくれていたのかと目も耳も疑った。夢ではないかと疑った者すらいた。
姿こそ一緒でも、あの時の悪夢のようなプライドと彼女を同一視できない。ただ、間違いなくプライドが戻ってきたのだという事実が彼らを感極まらせた。
あの日々が戻ってきた、プライド様がいる、再びその姿を目にすることができると。プライドがステイルやティアラ、近衛騎士や専属侍女、そして近衛兵と共に笑いあう姿は今や彼らにとって手放しがたいほど愛すべき日常だった。
当時のプライドへの恐怖よりも、プライドが豹変してからの城内の方が彼らには遥かに悪夢だった。
いつも陽だまりのような笑顔を皆に振りまき、プライドと手を繋いでは嬉しそうに笑うティアラが。……塞ぎこみ、部屋から出てこなくなった。
自分達と同じ庶民から、特殊能力抜きでもその頭脳や実力を認められたステイルが、プライドやティアラの前で他には見せないような笑顔を浮かべていた彼が。……次第に表情を失い、窶れ、衰弱に近いほどに行き場を失っていた。
王族だけではなく、上層部や侍女を含める家臣達の誰もが暗い表情で過ごしていた。
プライドの豹変、ただその一つだけで城内の空気はガラリと崩れ沈んでいったのを彼らが誰よりも肌で感じ、その目にしていた。
そしてまた、城が新たに明るさを取り戻したきっかけもプライドだった。彼女を奪還し、城内だけで情報をせき止められ、箝口令を敷かれても彼らの空気は既に明るかった。城の人間には笑顔が戻り、ティアラとステイルは生気を取り戻した顔でプライドの元に毎日訪れていた。
『あの時は本当にごめんなさい。謝って済むようなものではないとわかっています。だけど、どうしても直接謝りたくて……』
とんでもない、戻ってくれただけで充分過ぎる、あの時に止められなかった自分を責めたい。
それこそが、プライドからの謝罪に対する彼らの本音だった。
おかえりなさいと、その言葉を言えるような身分ではない彼らだからこそ言葉に詰まる。だが、目の前にいる正真正銘自分達の知るプライドにただただ歓喜と幸福を噛み締めた。
そして今、王族や騎士団長など奪還戦で功績を称えられる極僅かな人間しか許されないダンスで彼女は近衛兵を選んだ。
「衛兵も侍女も誰もが、プライド様をお慕いしております。……今も変わらずに。」
珍しく更に続けられたジャックの言葉にプライドはたまらず涙ぐむ。
この場で拭えないのが恥ずかしいと思いながら、潤んだ目から零さないようにだけ気を引き締めた。
今もまだ自分はここに居ていいのだと言われた気がした。許された、という言葉では安易すぎるほど胸の内が軽くなる。
基本的なステップを踏みながら、曲が終わりへと向かっていく。曲調が緩やかになり、静かに沈黙へと返っていく。ダンスが終わり、観客に背中を向けたプライドから手を離した直後、ジャックは向かい合ったままそっと彼女の目元を手袋の指で拭った。最初に緊張していたことが嘘のように今は平静だった。
自分がよく知るプライドとのひと時が、選ばれたことが誇らしい。
自分より先に目元を拭ってくれたジャックの手をそっとプライドは添えるように掴んだ。少し涙で上擦った喉でありがとう、と言葉を返す。
プライドに手を掴まれたことに少しジャックは驚いたが、笑顔を浮かべたプライドは彼と繋いだ手のまま観客へと向き直る。ジャックとそれに倣うように彼女と繋いだ手を示し、観客へと礼をした。
割れるような喝采がプライドだけでなく、近衛兵にも向けられる。特に来賓として呼ばれた衛兵達は誰もが今日一番の笑顔と興奮を抑えきれないように手がしびれるまで拍手を叩き鳴らした。自分達と同じ衛兵である彼が、その栄誉を与えられたことが自分のことのように嬉しく誇らしい。
「ありがとう、ジャック。」
聞き馴れてしまったプライドからのその言葉を、また聞けたことが彼の胸を温めた。
プライドの手を取り、共に奥へと引いていく。自分が初めてその名で呼ばれた時は片腕で抱き抱えられるほどに小さかった少女が、今は立派な淑女として隣に立っている。
自分の手を引き、踊り、そして心からの賞賛を浴びる目の前の女性にジャックは手を離す前に心からの敬意を払い、衛兵達の総意をまた口にした。
「お仕えし続けます、プライド第一王女殿下。」
その言葉に、彼女は笑う。
十年程前、初めて彼に向けた時と同じ、花のような笑顔で。