表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フリージア王国備忘録<第一部>  作者: 天壱
冷酷王女とヤメルヒト

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

79/877

64.病める人は出会い、


ジルベール・バトラー

最愛の人が愛してくれた、私の名だ。


マリアンヌ・エドワーズ

私の最愛の人だ。

伯爵家の三女。名のある血筋を継ぐ彼女と出会ったのは齢十三の頃だった。


下級層であった父も母も、その六年前には既にこの世には居なかった。母は病で薬も買えず亡くなり、父は母を失ってから自暴自棄となり、追うようにして自ら命を絶った。

三年間は野良犬のような生活をし、更にそれから三年は物乞いも色も盗みも何でもやってきた。

見るからに見窄らしい、同情を引く姿と表情をし、相手さえ的確に狙えば確実におこぼれに預かれた。

見るからに気品や色香の感じられそうな衣服に身を包み、相手の望む言葉や好む態度で察し笑顔でそれを囁けば、一晩でも懐は大いに潤った。

見るからに自衛意識の薄れた家屋に侵入すれば、金になる品にも…時には寝床にも困らなかった。

そして、使用人を多く雇い、人の出入りが多い中流、上流階級の家で雇われた使用人のように扮し、紛れ込む術を覚えたのが十三の時だった。明らかに高価な品ではない、その階級の人間にとっては無くなったところで痛くも痒くも無い品のみを盗めば、騒ぎになることも少なく、下流階級では良い価値になった。何より、何も確認しない愚かな主人によってはそのまま駄賃や食事、報酬が支払われることもあった。

そうして、その日生きていく為の財産を手に、深夜私がまた下級層の住む街へと戻ろうとした時だった。

ふと、見上げると大きな屋敷の裏の窓から何か布のようなものが長々と垂れ下がり、それを頼りに少女が高い家の窓から脱出を試みていたのだ。一瞬盗みの同業者かとも思ったが、その少女は何も持たず着の身着のままだった。そのまま手慣れた様子で木を伝い、塀の外まで出てきた。

あまりの事に少女から目を離せないでいた私に少女は気づき、自ら声をかけてきたのだ。

「こんばんは」と。


それが、私とマリアンヌとの出会いだった。


私より二つ歳下の彼女は、見ず知らずの使用人の格好に扮した私に微笑みかけてきた。

お暇ならばお時間を宜しいでしょうか、と尋ねられ、そのままその場を離れようと手を引かれた。彼女をどう利用すれば小金が稼げるか考えを巡らせた私の手を、だ。

私が一つ一つ確かめるように尋ねる問いに彼女は躊躇いなく答えた。


彼女が先程抜け出してきた伯爵家の三女であること。

彼女は優秀な姉二人と違い、二年前まで身体が弱かった為、隅に押しやられるように育ち、そのまま家族から除け者扱いにされていること。

外からの警備すらぬるい部屋に押し込められ、夜に人目を忍んでこうして頻繁に外出していること。

「でも、人に会えたのは貴方が初めてです」と彼女は笑った。

身の危険は感じなかったのか、私がもしこのまま貴方に危害を加えるつもりならばどうするつもりかと問うと、彼女は不思議そうに目を見開いた。

「危害を受けたら何か問題があるのでしょうか?」

そう、心から不思議そうに私に問うのだ。

私を心配する人はいない。将来に人脈を作る為に結婚させられる、それだけの存在だと彼女は答えた。

貴方がもし、身体に傷をつけられるなどの目に合えば、それが家の恥と言われたり結婚の相手が見つからない可能性にもなる。私は彼女にそう窘めた。私と違い、全てに恵まれている筈の彼女が失う物がないように宣うことに苛立ちを感じていた。

だが、彼女は既に自分は家の恥だと。どうせ結婚相手は自分自身ではなく、自分の家の名しか求めない人間だから平気だと。やはり笑顔で答えるのだ。

「伯爵家と婚姻関係を結ぶ方ですもの。きっと、私の代わりに素敵な側室の方を愛されます。」

彼女の言葉を聞くうちに、何故か地位も金も家族も家もある彼女が自分より遥かに不自由に感じられた。

私が彼女の言葉と、これからの身の振り方について考えていると彼女は私の顔を覗き込んできた。

「貴方は、私に危害を加えたいとお思いですか?」

あまりの単刀直入な物言いに驚く私に、彼女は続ける。

「…構いませんよ。私の命を奪っても、何をしても。…貴方が私の分それで幸せになって下さるのなら。」

まるで自分自身を粗雑な物のように扱う彼女は、そのまま「代わりに」と言って私の手を取った。



「貴方が世界で一番美しいと思えた景色へ私を連れて行ってください。」



…今まで、何人もの人間に甘い言葉を囁き、そして囁かれてもきた。だが何故か私は、その今までの誰よりも、彼女の言葉に強く心を揺さぶられてしまったのだ。それが、今日を人生最後の日と思っているかのような口振りだったからか、その儚さ故かはわからない。揺れる薄桃色の髪も、瞳も、哀愁すら滲ませた柔らかな笑みも、全てが逆光のように眩く感じられてしまった。

そして気がつけば、下手をすれば拐かしの罪に問われるかもしれない伯爵令嬢の手を私自ら握り返していたのだ。


王族の住む城と、城下を一望できる丘。


私が幼い頃に一度だけ両親に連れられてきた場所だった。月明かりに照らされる城も、星空のように小さく灯を灯す城下も彼女は目を輝かせて喜んでいた。

「こんなに美しいもの、初めて見ました。」

そう言い、私へ笑顔を向ける彼女の笑みは忘れられない。そのまま、夜が明ける時間になるまで彼女はひたすらその景色を目に焼き付けていた。

そして、そろそろ帰らねばならぬ時間に私は彼女へ問いかけた。宜しければ三日後にまたここへお連れしましょうか、と。

その時に彼女は初めて、笑み以外の表情を私に見せた。

「…本当ですか…?」

驚いたように目を見開き、衝撃のまま表情が固まっていた。

彼女の反応に逆に驚かされながらも「貴方のお望みとあらば」と答えてみせた。すると


彼女は突然その整った顔を歪め、涙を流して私に抱きついてきたのだ。


着古し、汚れた服を彼女の涙が濡らしていく。泣きつく彼女の髪をなでながら、私は静かに気がついていた。彼女の幸福を願ってしまった自分に。

「約束ですよ」と、彼女は家へ戻る直前そう言い、再び私の手を握ってきた。


それから、私とマリアンヌは三日毎の夜、必ず会うようになった。

気がつけば、彼女は私を「ジル」と呼び、私も彼女のことを「マリア」と呼ぶようになった。


…途方も無く、幸福な時間だった。


彼女と言葉を交わす内に、私は己の出自も、これまでの生き方、犯した所業すらも明らかにするようになった。伯爵令嬢の彼女にとっては汚らわしく、忌まわしいものでしかない筈なのに、彼女はその笑みを歪ませることなく「頑張って生きてきたのですね」と私の髪を撫でてくれた。


その言葉に、どれほど救われたことだろう。


私より二つも歳下な彼女は酷く大人びており、それが余計に彼女の儚さを際立たせていた。

彼女の儚さか、清廉さ故か。私は彼女と関わる上で今の生き方を恥じるようになった。

もともと人に取り入り、時には扮する中でマナーや言葉などの教養は身につけていた。その為、中流階級の正式な使用人になることもやってみればそこまで難しいことではなかった。

微かな稼ぎではあるが、人に言える仕事を手にし、三日毎に彼女と言葉を交わすことだけを生き甲斐に一年、私は働き続けた。


「ジル、私ね…婚約相手が決まったの。」


彼女がそれを口にしたのは本当に唐突だった。聞けば、隣国の同じく伯爵家の次男だと言う。私には勿体ない相手だわ、と彼女は笑っていた。

「本当は十六歳に決めるものなのに。でも、私はもっと早くに決めないと貰い手が見つからないかもしれないからって。」

そう言って彼女がいくら笑んでも、私は祝福する気にはなれなかった。


既に私は、彼女を愛してしまっていたからだ。


彼女が隣国へ行ってしまうことも、他の男のものになってしまうことも、二度と会えない日が来ることも私には耐えられなかった。彼女に気持ちを伝えようと思い、口を開いたが言葉が出てこなかった。

私のような下級層の、底辺の人間が上級層の彼女を愛してしまったことなど迷惑でしかない。

既に以前まで犯してきていた所業も、行いも全て話してしまった。このような汚らしい人間が、彼女のような人とこうして語り合うことすら、許されないというのに。

「でも、十六歳になるまではきっと大丈夫。お相手に会うのもそれからだから、まだ会えるわ。…でも、いつ私の部屋の警備が厳しくなって、貴方とこうして会えなくなるかもわからないから。」

いつが今生の別れになるかもわからない。

絶望的な彼女との断絶の未来に、私は表情を取り繕うのも忘れた。

「だからね、今のうちに貴方に伝えて置こうと思ったの。」

何故、私は上級層に産まれなかったのか。何故、彼女はこのような手の届かない階級の生まれになってしまったのか。そんな行き場のない悔しさだけが私を支配する中、彼女は優しく私の頬に触れた。その細い指が私の目元を撫でた時、初めて己が涙を零していることに気がついた。そのまま彼女に優しく「ジル」と呼ばれ、彼女の目を見つめる。


「貴方を…愛しています。ずっと、…ずっと昔から。」


彼女の言葉に耳を疑ったのも束の間に、彼女はその唇を私へ重ねてきた。考えることも忘れて、彼女を離すまいと私からも唇を重ね合わせ、互いに愛を確かめ合った。


共に逃げよう、と言いたかった。


彼女の為ならば何でもできると思えた。だが、その日暮らしがやっとの私に伯爵家から逃げ出す彼女を幸せにできる自信も、根拠もなかった。

唇をゆっくりと離し、彼女の柔らかな身体を強く抱き締めた。

「あと、四年…。…逢えなくなるまで、どうか…これからも逢いに来て。」

弱く、祈るように囁く彼女に私は泣きながら何度も頷いた。



彼女を、幸せにしたい。



彼女の体温を感じながら、祈るように途方も無く…そう願った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ