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フリージア王国備忘録<第一部>  作者: 天壱
冒瀆王女と戦争
399/877

341.第二王子は明朝を超える。


「ッ何故だ!何故俺をっ…ハナズオを裏切った⁈」


ー ここは、…どこだ?


「アッハハハハッ‼︎何言っているの?我が軍を招き入れたのは貴方じゃない!」


怒声が、悲鳴が、断末魔が混ざり合い、耳を壊さんばかりに痺れさせる。

爆撃音が耳を刺し、助けを求める民の悲鳴と共に断続的な破壊音が響き渡る。

サーシス王国の兵士がフリージア王国の騎士に制圧される。抵抗する兵士は躊躇いなく騎士に粛正されていく。


ー 兄貴は…兄さんは、何処だ…?


「ほらほらぁ?そんなことより国王のところに急がなくて良いの⁇チャイネンシス王国に配備した騎士の数はこの比じゃないのよ?」

俺を敢えて急かすように女が笑う。顔がぼやけて…見えん。だが、不快しか感じられないその笑みだけは嫌なほど目に焼き付く。


ー 嗚呼…そうだ。俺は、急がねばならんというのに。


フリージアが裏切った。

この女の脅迫めいた作戦指示のせいで、奇襲を掛ける筈の兄貴の軍は奴からの合図が来るまで動けない。

我が国に残った兵士達も制圧され、もう奇襲場所にいる兄貴のもとへ行くのは無理だ。


「ほらほらほらほら走りなさい?必死に走れば国王に伝えられるかもしれないわよ?」

フリージアが裏切ったと。そう自分で言い放ちながら嗤う女は、恍惚とした目で俺を見た。敢えて俺一人だけ拘束せず、まるで藻搔く姿を楽しむように。

馬を走らせ、急ぐ。守らねばならんというのに!兄貴を、兄さんを、俺達のハナズオ連合王国を



「アアアァッアアァア、ア、アアアアアアアアアアアアアァアアアアッッ‼︎‼︎」



「ランス様‼︎どうかお気を確かに!」

「誰か医者を呼べ‼︎国王陛下が御乱心だ‼︎‼︎」


…理解が、追いつかない。

兄貴が、頭を抱え、崩れながらも叫んでいる。あんなに取り乱した兄貴など見た事がない。鎧を身に纏った身体が重そうにふらつき、崩れるところを兵士達に支えられ、抱えられている。

信じられず、これ以上足が動かない。これ以上踏み込む事を俺の身体全てが拒絶する。


「!セドリック様ッ‼︎大変です!ランス陛下が‼︎」

「セドリック様‼︎フリージア王国が突然チャイネンシス王国に侵攻をっ…‼︎」

「どうかご指示を‼︎このままでは我が軍も動けません‼︎」

俺の存在に気づいた兵士が悲鳴にも似た声を上げる。なのに、俺は棒立ちのまま言葉どころか表情筋ひとつ動かすことが叶わない。


どう、すれば…良い…?

俺のせいでチャイネンシス王国が、兄さんが、兄貴が。

俺などに兵士への指揮が、指示などが出来る訳がない。


ーここは、地獄だろうか。


チャイネンシス王国の兵士はまるで波に飲まれるようにコペランディ王国に、アラタ王国に、ラフレシアナ王国に襲われ、さらにはフリージア王国までにも蹂躙される。


圧倒的な力による制圧。


敵うわけがない。

特にフリージア王国のアレはなんだ?化物ではないか。

たった一人の騎士が数十の兵士を殺していく。火を放ち、空を飛び、銃も恐れずチャイネンシス王国の兵士を殺していく。


「ッこのままでは城下のみならず民が避難している町外れや農村にまで被害が‼︎」

「セドリック様‼︎どうかご指示を‼︎」


アアアアアアアアアアッ、と兄貴の叫喚とチャイネンシス王国からの断末魔、投下される爆撃音、更に我が国の兵士からの訴えが全て同時に頭に流れ込む。


俺まで頭がおかしくなりそうだ。


身体が震え、痺れるように重い。

視界が黒と白に瞬き、頭が痛くなる。

口の中が、喉が干上がり、声が出ない。

どうすれば良い?どうすればハナズオ連合王国を救える?俺が、俺が連れてきた援軍のせいで、兄さんの、チャイネンシスは。


…君達を信じよう、と兄さんは言ってくれた。


フリージア王国から総力を以ての援軍が叶うならば、きっと勝てる筈だと兄貴が兄さんを説得してくれた。

戸惑うチャイネンシス王国の民は、あの女が「この場でフリージアに滅ぼされるのとどっちが良い?」「チャイネンシスに戦う気が無いのならばフリージアはサーシス王国をこのまま侵略するわ。…私に無駄足を踏ませた大罪でね」と宣い、結果的には民もサーシス王国の為に意を決してくれた。脅迫めいた扇動だが、我がハナズオ連合王国を守る為に言ってくれたのだろうと兄貴も兄さんも奴を強くは咎めれなかった。

なのに、なのに、何故、何故こんなことに‼︎⁈


「あぁっ…良い眺め。最高ね、チャイネンシス王国の最後を一望できるじゃない。」


突然の舐めるような怖気の走る声に、初めて身体が動く。

振り返ればあの女が、騎士達と共に俺の背後に佇んでいた。

一体どうやって?俺は、必死に馬を走らせて来たというのに。

そうして目を疑う間にも、次々と女の背後に騎士達が表出していく。最後に現れたのはフリージア王国の摂政だった。指先で押さえつけた眼鏡の奥が酷く濁りきった男だ。

女の合図で騎士が瞬く間の内に、兄貴と我が国の兵士を包囲し制圧していく。


「さて…この国はあと何分保つかしら?いま通信が入ったの。我が騎士団がチャイネンシス王国の城を国王の身柄ごと制圧したわ。」

なっ…と言葉が詰まり、上手く出ない。こんな、まだ一刻も経っていないというのに⁈

だが、嬉々とした女のその言動はどう見ても狂言とは思えない。寧ろ、己が力を見せつけるように手を広げ、嘲笑う。


「あらぁ?なにその人。もしかして国王?アッハハ‼︎何叫んでいるの?馬鹿みたい。たかが隣国が滅びる程度で取り乱すなんて。やっぱり小国の王なんて器もたかが知れてるわね。」

アハハハハハハハッと声を上げ、兄貴を嗤う。まるで珍獣や見世物を見るように指を指し、苦しむ兄貴を楽しそうに眺めた。

怒りが先行し、身体が燃えるように熱くなる。殺意が、この女を殺してやろうと意思より先に腰の剣に手が伸びた。振り翳し、この化物だけでもと剣を奴の胸に


「遅いわよ。」


キイィィィンッ‼︎と甲高い金属音が響く。

…俺の剣が、弾かれた。在ろうことか、目の前のこの女に。信じられず放心すると、女は躊躇いなく剣の柄で俺の喉を打ち込んだ。

グァッ…と喉が潰れ、息も止められ、無様に地面に転がる。咳込み、吐き気と戦いながら喉を押さえ、息を死に物狂いで繰り返す。兵士が俺の名を呼ぶ声が聞こえたが、脳までは届きそこで止まった。


「ステイル。」


その女の短い命令で摂政が動く。一瞬で俺の傍らに現れたと思えば、地に這い蹲る俺を足で踏みつけた。鎧越しに感じる足の重みに歯を食いしばった途端



一瞬で、俺の視界から地面が数メートル離れた。



理解が追い付かず、声を上げ、そして一瞬で元の地面に叩きつけられた。鎧が酷い悲鳴を上げ、俺自身は衝撃で声も出ない。女の笑い声をひたすら聞きながら、俺は仰向けに転がる。空を見上げながら、一瞬で俺が空中に表出させられたのだと理解する。


「…嗚呼ッ…面白い。あと何度見ても飽きないわぁ…。」

笑い切った後の女の言葉を合図に、再びヒビが入ったであろう鎧に足一つ分の荷重が加わる。摂政に踏みつけられ、また地面に叩きつけられるのかと身体だけが強張った。


ーなんだ、この化物共は。


「ああ…もう良いわ。傷をつけちゃ駄目って言ったでしょう?〝まだ〟ね。」

顔を見えずともわかる。今、あの化物がどのような笑みを浮かべているのか。目を向ければ思った通り、ネチャリと糸を引くような笑みが俺に注がれていた。

アアアアアアアアアアアアアッアアッ!と兄貴の悲鳴がまだ続く。一体兄貴に何が、どうすればと気づけば唯一動く手が兄貴へ伸びる。届く訳はない、そんなことわかっているというのに。


「つまんない叫びねぇ…。…もっとイイ声が出せないの?」


チャキ…と、金属の音に総毛立つ。まさか、と思い女へ目を向ければ、口端を引き上げた笑みであのオンナが兄貴に歩み寄ろうとしている。剣を、その手に握り締め、兄貴に


「ッや、…めろ‼︎‼︎兄ッ…に、手を…ッすな‼︎」


踠き、暴れ、必死に身体を動かし転がし、女の足元に指先が掠れた。掴む事も叶わず、食い縛れば不思議と女の足は止まった。…再び怖気の走る、笑い声と共に。


「フフッ…アッハハ!…嗚呼。まるであの時と一緒ね。国を助けてくれと床に綺麗な顔を擦り付けて私に乞いた、あの時と。」

俺の顔を覗き込むように身体を屈ませ、うっとりと狂気に満ちた笑みを俺に向ける。吐き気のするその表情に目を逸らしたくなったが、それよりも奴の注意が兄貴から俺に変わったことに心から安堵する。


十二日前の、ことだ。


我が国は閉ざされた国。

コペランディ王国から宣告を受けた後、援軍を求めようにも手立てなどなかった。

唯一貿易を交わしていたムスカリ王国も、戦に関しては弱小国。同盟すら結んでいない我が国を助けてくれる訳もない。

大国が、強国が味方になってくれればと…過去五十年間、我が国に送られていた同盟打診の書状を掻き集め、読み解き、今の情勢や世界地図と照らし合わせ、…奴隷制を持たず、唯一ラジヤ帝国に匹敵する大国こそがフリージア王国だった。

九年前からぱったりと同盟打診の書状が途絶えていたが、もうそれしか縋るものが無かった。援軍に適う国を、手立てを探すのだけでも八日かかった。その上、兄さんから…チャイネンシス王国からは同盟破棄を突きつけられた。時間が無く、迷う時間も惜しい俺はすぐに国を飛び出した。

十日掛けてフリージア王国に行き、城に何とか通され、今すぐ兵を率いて貰わねば間に合わないと女王に向かい、頭を地へ擦り付けた。

あの時の女王の口端を引攣らせた笑みに寒気を感じた時、思い留まるべきだった。


「…ねぇ?セドリック王子。私ねぇ…」


突然、舐めるように優しく女が俺に囁く。地に叩きつけられた衝撃が、時間の経過で少し和らぎ、やっと顔を上げることができるようになった。そのまま、女の引き攣る笑みを睨み付け



「サーシス王国も欲しくなっちゃった。」



ニタァァァと、口端が引き上がり紫色の瞳が見開かれたその笑みは、…もはや人にすら見えなかった。

恐怖で言葉を失う俺に、女が語りを続ける。


「だから、ね?今から先ず、サーシスの国王を殺すわ。そして金脈を全て私の物にするの。民はみぃんな奴隷にして売り飛ばすわ。そしてチャイネンシスの宝石も全て私の物。チャイネンシスの民なんか好きにして良いから、代わりに宝石だけは私に捧げる。…それが、ラジヤと交わした密約だもの。」


ラジヤとの、密約。

ニタニタと笑いながら話す、女の言葉が俺の呼吸を止める。

酸素が足りず、脳が壊死しかける。

女の言葉を飲み込み、何度も何度も頭の中で反復してようやく理解に及ぶまで身動ぎどころか瞬き一つ叶わなかった。やっと理解してから言葉にできたのは「やめろ」という単純な願いだけだった。


「あら?何か言った⁇ハハッ!…抵抗できるの?貴方に。愚かにも絶好の侵攻の機会を教えてくれた貴方に。…弱くて愚かでそうやって地に這い蹲ることしかできない貴方に。」


侮蔑と嘲りに満ちた笑みで、女は俺を見下ろす。手の剣を見せつけ、ゆっくりと発狂を続ける兄貴を指し示す。「こ・ろ・す・わ」と、声に出さぬまま女が口を動かした。

息を飲み、血の気が引いていく。殺される、兄貴が、兄貴が、この化物に‼︎

俺の顔色を確認した女が、楽しそうな笑みで再び兄貴に歩み寄る。倒れ込み、騎士に包囲をされながらも兵士が必死に兄貴を守ろうと前に出るが、女は躊躇いなく兵士達をその鎧ごと剣で斬り倒していく。声を上げ、悲鳴を上げながら息絶えていく兵士を見て女が甲高い笑い声を上げた。

兵士が、兄貴を守る為に前に出る。そして一振りで殺される。その度にその兵士の名を俺が叫ぶ。全員の名も、顔も、話した言葉も全て覚えている。覚えている、覚えているというのに‼︎‼︎


「ッや、めろ‼︎‼︎…ッやめろ‼︎それ以上我が兵にも兄貴にも手を出すな‼︎‼︎」


血を吐く程に声を荒げ、身体を無理矢理起こし、激痛に耐えながら立ち上がる。地を踏み、顔を上げて女王に叫ぶ。声が嗄れ、自分の声ではないようだった。

ピタリと、女が次の兵士へと振り上げた剣が止まる。一歩一歩、女に向かい歪に歩を進ませる俺を奴の騎士も摂政も誰も止めようとはしなかった。自由の利かない四肢を必死に動かし、女の、兵士の、兄貴の元へと歩み寄る。やっと間近まで辿り着いた瞬間、女はゆっくりと俺の方へと振り返った。


「なぁに?王子様。」


見開かれた紫色の瞳を爛々と輝かせ、女は嗤う。俺の言葉を待つように、引き上げた笑みをそのままに。


「ッ…手を、出すな。兄貴にも、我が兵士にも…ッ我が国にも。」

言葉でしか戦えぬ己が憎い。剣を振るっても、今の俺ではこの女一人にすら勝てないだろう。拳を握り、激しく脈打ち続ける心臓を必死に抑えようと息を吐く。

女は剣を持たぬ方の指先を口元に置くと、わざとらしい考えるようなそぶりで俺に笑いかけた。


「それが目上の者に乞い願う態度なのかしら?」


女の言わんとしていることに、砕かんばかりに食い縛る。ニタニタと笑い、俺の返しを待っている女が、人の枠を超えた別物に見える。

化物に向かい、折角立ち上がらせた足を再び俺は地に降ろす。

膝をつき、頭を下げようとしたら「その程度の誠意?」と先に嘲笑われた。…わかっている、あの女が望むのは。


「…お願い、致します…‼︎金塊ならば、いくらでも、捧げます…!ですから、どうか…御許し下さい…‼︎我らが国王と、民だけはお見逃し下さいっ…‼︎この、私に出来る事ならば何でも致します…!どうかっ…!」


あの時のように地に額を擦り付け、女王に平伏す。髪を汚し、衣服を汚し、これ以上なく地と身体が同化する。

俺の言葉を最後に、女の楽しそうな笑い声が響き渡った。アハハハハハハハハハハハッと腹を抱え、俺を指差し嘲笑う。


…屈辱だ。


我が国を、ハナズオを裏切り、我が民を手に掛けた女に、こうして頭を下げることしか出来ぬなど。あれ程早まっていた動悸が今は驚くほどに遅い。肋骨が引き締まり、胸が痛み、冷汗が滴り、身震いが止まらない。

兄貴を守る兵士達が「セドリック様」「お止め下さい」「そんな」と声を漏らす。兄貴の叫声に掻き消されながら、兵士の声はちゃんと耳に届いた。


「…良いわぁ。美しい顔が、醜く汚れるその姿。」


突然、滑らかな声が耳元に注がれ、反射的に顔を上げる。すると、先程まで俺を見下ろしていた女の顔が目の前で笑みを広げていた。

ぞくり、と悪寒が走り心臓が一瞬止まった。

俺の驚愕を楽しそうに眺めながら女は嗤う。地に両手をつけたまま硬直する俺の頬に、信じられぬほど優しく指を添えた。


「このまま剥製にしたら、さぞかし美しいのでしょうね。」


柔らかい声で、妖艶に光る瞳で、信じられぬ言葉を放つ。身体の震えが激しくなり、思わず顔を逸らし、喉の奥が上下した。だが、それでも拳を握り、もう一度震える声で女を見つめ返す。


「ッ構いません…‼︎私をどうされようとも、どうぞ貴方様の望むままに。私の懇願を聞き届けて下さるのならば、私はっ…剥製でも、貴方の犬にでも玩具にでも…自ら望んで成り果てましょう…‼︎」


兄貴が、救ってくれた。

あの時、大人達の玩具だったこの俺を。

人としての感情も、幸福も、常識も、全て兄貴が俺に与えてくれた。

今更この俺がどうなろうと構わない。

兄貴の大事な国も、民も、守れるのであれば。

兄貴と、兄さんの大事なこの国を。


恍惚とした女が興奮で顔を卑しく紅潮させる。

俺の頭を気味悪く撫で、頬に手を添えた。うっとりと向けられた視線は俺が今まで目にしてきたどの令嬢よりも加虐的で、常軌を逸していた。「素敵な顔」と口遊まれ、聞き慣れたその言葉すら、この女の言葉だと思うと鳥肌が止まらない。

女は舐め回すように俺を覗き込んだ後、パチンと指を鳴らした。すると、今まで居なかった筈の女の横に先程の摂政が表出し、一枚の紙を差し出した。


「…御褒美よ、セドリック。これを〝書かせてあげる〟」


鼻先に突き付けられた紙とペンを、俺は手に取る。両手で広げ、目を通せばそれは正式な〝誓約書〟だった。

この女は、フリージアは最初からこうするつもりだったのだと、俺でもすぐに理解できた。


サーシス王国からフリージア王国へ国土全ての金脈権利譲渡。

代わりにフリージア王国は王族の身の安全とラジヤ帝国並びにその支配下の国からサーシス王国の安全を保障するという旨の誓約だった。


「本当は国王を殺してから貴方に書かせるつもりだったけれど、…どうせアレじゃあ使い物にならないものね。第一王位継承権を持つ貴方なら書けるでしょう?」

つまらなそうに女が息を吐く。叫喚は落ち着いたが、未だに倒れ込んだまま動かない兄貴の足が、女の背中越しに見えた。誓約書を破れんばかりに掴んだまま、俺は何度もその文面を反復し、女王に問う。

「これはっ…何故、ハナズオ連合王国ではなくサーシス王国と…⁈ッこれでは兄さんはっ…チャイネンシス王国は」



「書かなければ。…それすらも守れないわよ?」



俺の言葉を遮り、女が再び剣を掲げた。

ゆっくりとその剣先を兄貴と兵達に向ける。

引き攣った口端が更に上がり、女の目が輝いた。


「今ここで書かなければ、貴方は国王も民も失うの。…それだけでも守れるようにしてあげたのに、感謝もないの?」


何が感謝か‼︎

お前達が裏切らなければ、チャイネンシス王国も守れたかもしれないというのに‼︎


言葉にしたくとも、何も発せられない。今、この場で誓約書まで取り消されれば本当に我が国は全てを失ってしまう。

歯を食い縛り過ぎて、血の味が舌を満たした。震え、睨む事しかできぬ俺を女が楽しそうに嗤う。突如、指をまた鳴らし「民を」と短く告げる。すると摂政がまた消え、そして再び表出した。


避難している筈の、五人の民と共に。


怯え、涙を零し震える民に息が止まる。全員見覚えがある。間違いなく我がサーシス王国の民だった。


「貴方がサインしなければ、この国はチャイネンシス王国と同じ奴隷生産国…いえ、奴隷だけの国になるわ。」

俺から一歩離れ、剣を手に民の元へと歩む。

何をするつもりか想像がつき、引き止めようと身体を動かせば一瞬で騎士に動きを封じられた。「奴隷って、大変らしいわよ?」とせせら嗤う女王は、躊躇いなく剣を民の一人に突き刺した。グァアアッ‼︎と叫ぶその声は、俺の思考を消し去った。


「自由なんて無い。子どもの玩具どころか家畜以下の扱い。戦時中だろうと、平和な日常だろうと変わらず一生地獄を見るの。」


ザシュッ、ズシャッとまるで手慣れたように俺の目の前で民が殺される。本当にすぐだった、たった百七十二秒で五人の民が殺された。女も、男も、子どももいた。それを何の躊躇いもなく一振りで死に追いやった。


「こんな風に死ぬのも、誰も気に留めなくなるわ。だって、奴隷はそういうモノだもの。…貴方がサインしなければ皆がそうなるのよ。」


嗤う女が、再び指を鳴らす。また、摂政が消え、五人の民が現れる。骸となった民の上に直接表出させられ、誰からも悲鳴が上がった。


「書かないのならば、今殺しても一緒よね?どうせこの国は私の物になるんだもの。奴隷として死ぬか、民として殺してあげるかの違いだけだわ。」

そう言ってまた剣を振るう。まるで、地に刺すかのような気軽さで民の身体を刺し貫く。何故、こんなにも簡単に罪も無い民を殺めることができるのか。


「ッ止めろ‼︎わかった!書く‼︎今サインをする‼︎だからそれ以上は止めてくれ‼︎」


俺の叫びで、二人目の民に剣が向けられる前に女が振り向いた。「あらそう?」と悪びれもなく笑う女から目を逸らし、誓約書にサインを綴る。セドリック・シルバ・ローウェルの名を書き終えてすぐに女に見せ付けた。これで、我が国の民は




「アッハハ!…よくできました。」




ズシャアッ、と…彼女が手を振るった瞬間に目の前が血に染まった。

俺ではない、人質にされた残り四人の民と、そして包囲されながらも兄貴を守ろうと身を呈していた兵士全員が騎士達の手により一瞬で絶命された。たった一瞬で、悲鳴をあげる間も殆どなく全員が殺された。「何故」と、一度言葉にしようとしたら枯れて声にならなかった。放心し、涙も出ない。

口を力なく開けたまま女王へ目を向ければ輝く笑みが見降ろし、俺から誓約書を奪い取った。


「誓約書には〝ラジヤ帝国並びにその支配下の国からサーシス王国の安全保障〟とあるでしょう?…我がフリージア王国が直接危害を加えないとも、国は保障しても民まで保障するとも書いてないわ。」


アッハハハハハ‼︎と笑う女に、言葉も出ない。騙したなと、そう詰めるより先に血溜まりとなったその先に目が向いた。


「……あに…き…。」


兄貴は。

兵士達の血溜まりに埋め尽くされた先に、兄貴が。いまの騎士の白刃で、まさか。

震える身体が勝手に動き、兄貴の方へ手足を使って這いずる。無様な俺の姿に女の笑い声がまた響いた。


民の名を、覚えている。兵士達の名を、覚えている。そしてこの死顔も絶命する瞬間のあの姿も表情も、…俺は一生忘れる事は出来ないだろう。


死に絶えた兵士達の骸に手を伸ばし、一人ひとり退けるようにして、覆い被された兄貴を探す。死ぬ間際まで彼らが兄貴を守ろうとしてくれた証拠だ。

そして、最後の骸を避けさした時。倒れ込んだままの兄貴をやっと見つけ出す。兵士達の血で、全身が真っ赤に染まった兄貴に一瞬心臓が動きを止めた。


「大丈夫。ちゃんと生かしてあるでしょう?誓約書にも〝王族の身の安全〟は保証したもの。…良かったわねぇ?」


もう、女の言葉に反応すら叶わない。

働かぬ思考の中。骸の山から兄貴を引き上げ、その身を抱き抱え、せめて呼吸だけでもできるようにと身を起こさせる。目を見開き、顔を痙攣させた兄貴に今の光景が記憶に残っていないことだけを願う。


もう、どうすれば良いかもわからない。

ただ俺がコペランディ王国…いや、ラジヤ帝国以上の化物を招いてしまったことだけを理解する。


「俺の……せいで。」


頭の中で何度も繰り返す言葉が、二百三度目にやっと声に出た。女王の笑い声に塗り潰されながら、視界が色褪せ死んでいく。

これ以上ないと思える地獄の中、誓約書を掲げた女王は魂が抜け落ちかけた俺の顔を覗き込む。


「美しくて愚かな王子様。………まだお楽しみはこれからよ?」


無邪気に笑う女王の顔が至近距離で視界全てに広がった。その眼も口も歯も鼻も肌も、全てに嫌悪が込み上げる。


まだ、足りぬのか。


兵士達の骸を踏み付け、自らも返り血に染まった女王。人の枠を超えた化物が、その瞳を爛々と怪しく光らせた。


…こんな筈じゃ、なかった。

ただ、兄貴と兄さんの力になりたかった。

二人に救われてばかりの俺だから、どうしても二人を助けたかった。

俺が、この俺が余計なことをしたばかりに。

俺が、愚かだったばかりに、こんな。




愚かさとは、これ程までに罪なのか。




手の中で、力なく痙攣する兄貴を抱き抱えながら考える。

兄貴と兄さんが愛した国が焼ける臭いが鼻を潰し、民の断末魔と女王の笑い声が耳を痛めつけ、真っ赤に染まった視界の中で。


「………………………守れなかった…。」


その事実だけが、言葉にした途端に滴となって落ち、兄貴の血に塗れた頬を薄く滲ませた。



……









「…ドリック、……セドリック!ッセドリック‼︎お前は一体どこで眠っている⁈」


……ここ、は…?


突っ伏したままの額が痛い。

ぼんやりと聞き慣れた怒鳴り声が、薄らぐ意識を割いていく。もう少し寝かせてくれと、力なく腕を振るとその手をそのまま掴まれた。


「セドリック‼︎いい加減に起きんか馬鹿者!」


……あにき。


頭が、回る。

今、俺を怒鳴っているのが兄貴だとわかり、仕方なく身を起こす。「セドリック…⁈」と兄貴の驚いたような声が何となく耳に入った。

何故か、身体が重く、酷く怠い。

顔に纏わりつく髪すらも鉛のように感じ、また机に沈めたくなる。心臓だけが何故だか恐ろしく早く、…喉が痙攣するようにヒクついた。ぼやけた視界で、先程まで自分が埋めていたテーブルを見つめる。折角持ってきた本が、湿って滲んでいる。読めなくはないが、涎でも垂らしてしまったのかと口元に触れた。…何故か、顔全体が湿り気を帯びている。ぼんやりとしながら指先でなぞれば、目から止めどなく涙が溢れていた。

どうやら、このせいで視界がぼやけていたらしい。濡れた指先を眺めながら、まだ頭が…胸が、目を覚まさない。


…まるで、また十三年前に戻ったかのようだ。


あの時と同じ、心が何も感じず無に還る感覚が、未だに全身を満たす。自分でも、信じられんほどに空虚だ。


「…セドリック。どうした?」


肩を叩かれ、反射的に振り返る。

見れば、兄貴が心配そうに俺を覗き込んでいる。もう、何百何千何万と見飽きた筈の兄貴の顔に酷く安堵する。


…夢、だった。


どんな夢かは覚えていない。だが、あまりにも絶望的で死に浸る感覚が未だに爪の先まで残っていた。


「……すまん、なんでもない。少し夢見が悪かったらしい。」

目を擦り、顔に纏わり付いた髪を払う。侍女が心配するように俺にタオルを差し出してきた。礼を言い、受け取ってから顔全体を拭う。


「そんな所で寝ているからだ。また朝まで勉学をしていたのか。」

「……いつもは魘されたりはしない。今日だけだ。」

呆れる兄貴に言葉を返す。ここ数日はベッドで眠る事が減ってきていた。本を読んでいると、気がつけば朝になってしまう。読んだまま寝ているのを朝になると侍女に発見され、毎回心配された。

無理をしているのではと思われるのが億劫となり、次からは俺の返事があるまで部屋には入らないでくれと二日前から頼んでいた。…どうやら、今日は侍女の声掛けに気付けなかったらしい。

部屋の前で俺の返事がなく困り果てていたところを兄貴が気づき、入ってきたのだと説明を受ける。侍女達に待たせたことを謝罪しながら、タオルを返した。次からはベッドの中で読む事にしようと考えを改める。


「悪い夢でも見たのか。」

目が覚めた後も様子がおかしかったぞ、と言われ、寝惚けていたから覚えていないと一蹴する。実際、もう本当に記憶にない。夢に関しては俺にとって貴重な〝忘れる〟という体験だなと今更ながらに思う。


「どうせ、ろくでもない夢だ。」

十三年前ほどの記憶か、それとも十四日前か十五日前か、…九日前の防衛戦の記憶か。どちらにせよ、泣く程の記憶など夢でまで思い出したくもない。どうせ思い出そうとすれば鮮明に全て覚えているのだから。


「やはりあの勉学方法が良くないのではないか…?」

侍女達に身嗜みを整えられながら振り返れば、兄貴が訝しむように顔を顰めている。ああ、と生返事のあとに続けて「問題ない」とだけ返した。


「あのやり方が俺には合っている。それに、……………アレだけは早急に終わらせたい。」

思わず最後に溜息が漏れた。

プライド達が我が国を去ってから三日。教師達を集め、俺が今まで学ぶべきだった科目全てを総浚いに受けたが、どうしてもアレだけは酷く精神を削られた。

俺の言葉に兄貴が明らかに苦笑した。つい昨日も俺がそれで酷く衰弱したのを見られたばかりだった。


「無理だけはするな。今日はヨアンも来るぞ。」

わかってる、と返しながら今日の分の装飾品を眺める。このひと月で身に付ける装飾品の数が大分減った。特にこの三日、勉学の集中に多過ぎる装飾はただひたすらに邪魔だった。以前はいつもの装飾に加えてどれを優先して身に付けるか選ぶのにも時間が掛かったが、最近は本を読む方が忙しく関心も薄れていた。

取り敢えず見慣れたのから…いや、兄さんに会うのと勉学だけならば手首には要らんか。


「!今日はそれだけで良いのか。」

「ああ、どうせ今日は城から出る予定もない。……今の俺は一分一秒が惜しい。」

選び終わり、読みかけの本を開く。三百七十頁の二行目から記憶がぷっつりと途絶えている。そこから再び目を通す。


「朝食の時間には遅れるなよ。その後には教師達が後に控えている。」

「今日も教師の中にボリスとツェザーリとダンと…更にオーガスタも来るのだったな…。………気が重い。」

全員、俺が過去に勉学から逃亡し続けた教師達だ。オーガスタに関しては四年ぶりの再会となる。十七になって今更また勉学を教えて欲しいなど、顔を合わすのも億劫だ。


「全員、お前に今度こそ勉学を教えられると喜んでいた。有り難く享受しろ。」

二日前も昨日も、兄貴が用意させてくれた教師には見覚えのある教師が含まれていた。兄貴と兄さんが敢えて加えたのか、それとも優秀な教師だから必然とそうなったのか。謝罪の前にその顔を見るだけで、あの時の逃亡生活を思いだし、胃が痛くなった。

だが、本や文献だけでは足りん。細かい部分まで教師の口から説明を受けねば完全な理解に及ばない。今度こそ、俺はちゃんと全てを学ぶ義務がある。……誓ったのだから。


「…………………プライド、…ティアラ。」


思わず、口から零れる。部屋を去ろうとする兄貴が聞き返してきたが、何でもないと誤魔化した。

彼女達に誓った、必ず知を蓄え成長すると。

それに、今回ラジヤからの脅威から免れただけで平和な時間がいつまで続くかなど保証はできん。だからこそ、俺は先ず学ばねばならない。この後、どのような選択をすることになろうとも、その時にまた愚かなままでは許されない。

本を読みながら、頭で何度も何度も同じ言葉を繰り返す。時間が足りずとも、教師に顔を合わすのが気が重くても、アレの授業が死ぬ程に精神を削ろうとも、今度こそ俺の手で最初から大事なものを確実に


「………………………守る為に。」


頭の中で何度も繰り返した言葉が、二百三度目にとうとう声に出た。

区切りの良い部分で頁数を確認し、俺は本を閉じる。


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