333.冒瀆王女は告げる。
タン、…タン。
静かに床を踏む音が響く。同時に護衛による複数の足音も続いた。誰もがそれに振り向き、その人物に頭を下げた。
「…ええ、では騎士団の四番隊は城下の見回りをチャイネンシス王国の兵士と協力して行って下さい。ヨアン国王に許可はちゃんと…」
休みなく騎士達に指示を出すジルベールを見つけ、その人物は少し足を早めた。
数メートルまで近づいたところで「ジルベール宰相」と彼を呼ぶ。ジルベールはその声に顔を向け、すぐに身体ごと向き直った。恭しく頭を下げ、そして笑みを返した。
「ティアラ様。どうかなさいましたか?」
プライド様のお部屋には?と優しく声を掛けると、ティアラは小さく俯いた後にジルベールの切れ長な目を真っ直ぐに覗き込んだ。フリージア王国、そしてサーシス王国とも随時連絡を取り合っているジルベールの傍には既に騎士団から複数の通信兵や映像を送る用の〝視点〟が配備されていた。
終戦からは、足の動かないプライドに殆ど一日中付き添っていたティアラが護衛付きとはいえ単独で動いているのは珍しかった。
「はい、大事なお願いがあって参りました。…ジルベール宰相。」
深刻そうなティアラのその表情に、一気にジルベールの顔色が変わる。彼女の言わんとしていることを察し、すぐにジルベールは周囲の騎士達に指示を出した。
「…何なりと。」
言葉をいくらか飲み込んだ後、ジルベールは頷いた。第二王女からの言葉を真っ直ぐに受け止める、その為に。
……
「姉君。セドリック第二王子殿下をお連れいたしました。」
ノックの音と共にステイルの声が飛び込んできたのは、アーサーが近衛の任でカラム隊長と交代し、ティアラが母上との通信の為に部屋を出ていった後だった。
私が返事をすると、ステイルに招き入れられるようにしてセドリックが部屋の中に入ってきた。もう鎧の姿ではない、またいつものように王族らしい服装と相変わらずの煌びやかな装飾を身に纏っている。相変わらずだなと一瞬思ったけれど、本人の様子はそれに反していた。
少し表情を陰らせながら現れた彼は、ベッドに身を起こして掛ける私の姿に一層その表情を険しくさせた。
「……長く、挨拶にも来れず申し訳なかった。本当は俺が、…誰よりも先に伺うべきだったというのに。」
ステイルに勧められるままに私の傍の椅子に腰を降ろす。ジャラン、と彼の装飾が音を立てると同時に最初に口にしたのは謝罪だった。低く沈んだ声に、また思い詰めているのだと理解する。
「忙しかったのだから仕方ないでしょう。そんなこと謝る必要もないわ。」
初日に面会を断ったこちらも同罪なのだから。そう思いながら返したけれど、それでもセドリックの表情は優れない。むしろ、膝の上で握っていた拳が更に硬くなっているようだった。
「……足の、方はどうだ。」
「もう殆ど平気よ。痛みも無いし、右足は治ったわ。左足もあと三、四日の辛抱よ。」
「完治までは滞在すると、…兄貴達から聞いた。」
「ええ、治ったら翌日にはフリージア王国に帰るわ。」
辿々しい彼の言葉も少しだけ慣れた。俯きながら、それでもちゃんと私と目を合わそうと何度も私へ目を向けてくれている。最後、私が帰る意思をちゃんと伝えると「そうか…」と呟いたまま少し沈黙が流れた。
「…本当に、感謝している。フリージア王国の者全員に。特にプライド、お前には……一生頭が上がらない。」
俯かせた頭が、更に下がった。第二王子にここまで深々と頭を下げさせてしまうとすごく悪い気がしてしまう。ただでさえ昨日は国王二人にまで、あんな風に頭を下げさせたばかりだというのに。私が頭を上げるようにと声を掛けるとまだ俯き気味ではあるけどゆっくりと元の姿勢に戻ってくれた。
「貴方も頑張ったのでしょう?詳しくは知らないけれど、…危なっかしいほどに。」
ティアラから聞いたわ、と伝えるとセドリックの肩がピクリと動き、今度こそ真っ直ぐ私に目を向けてくれた。
「……いつから、知っていた…?…俺の、……。」
「〝神子〟…のこと?」
言い切れないセドリックに代わり、私が言葉にする。その単語を言った途端、今度こそビクリと激しく彼の肩が上下した。
きっと彼にとってはあまり良い言葉ではないのだろう。ゲームでも異名についてはセドリックも「〝神子〟…その下らん異名のせいで幼い頃に俺は第一王子だった兄貴を苦しめ続けた」と語っていた。俺様キャラのセドリックも、自身のその才能については隠しこそしなかったけれど、自慢するようなこともなかった。一年で病床の王に代わり、国を見事に支えたという功績から〝神子〟の異名はフリージア王国にまで知れ渡っていたけれど。少なくとも今のセドリックは、その異名は全く我が国には届いてなかった。私達の話を聞いているステイルやアーサーも意味がわからないだろう。
私が神子の異名を知っていたことも、恐らくヨアン国王から聞いたのだろう。…いや、そうでなくても私から仄めかすようなことを何度か言っていた。
私から予知をしたと説明すると、セドリックは「なら、俺が戦場で戦う事も知っていたのか」と尋ねてきた。私が首を横に振ると余計に彼の顔が怪訝に染まる。
「私が予知したのはもっと先の未来。…でも、できるとは信じてたわ。」
彼が自分から立ち上がると決めたあの時から。彼ならきっと悲劇が無くても奮い立つことができると思えた。「それに」と私は言葉を続け、彼の燃える瞳を覗き込む。
「……貴方も、その覚悟があったからこそ戦場に行くと決めたのでしょう?」
いくら彼でも、本当に武器を扱える自信もなく戦場に飛び出す訳がない。恐らく彼自身も〝神子〟としての才能は既に理解していたのだろう。
私の問い掛けに彼は軽く背を反らすと、口を結んだまま一度だけ頷いた。ゲームでも、見ただけで相手の技術までコピーしてしまう彼の才能は凄まじかった。流石に騎士団長だったアーサーの腕力や目にも留まらぬ剣技には敵わなかったけれど「まるで無数の戦士を相手にしているかのようだ」と評されるほどだった。
「…すまない。俺が、…初めから…。」
「謝ってばかりね、セドリック。」
また何かを詫びようとする彼に思わず笑ってしまう。私のその反応が意外だったのか、目を丸くした彼に私から敢えて少し意地悪な笑みを向けてみる。
「あんなに格好つけて飛び出したというのに。…聞いたと言ったでしょう?貴方が頑張ったことは。」
笑いながら、彼が別れ際に言い放った言葉を思い出す。
『ッ見ていろ…‼︎プライド・ロイヤル・アイビー!』
実際この目にしてはいない。でも、ちゃんと知ってる。彼が、ちゃんとランス国王のもとへと辿り着き、必死に戦い抜いたことは。
少し詰まるように口を引き結んだセドリックは、目だけで私に応えた。そんな彼に再び笑って見せながら、私は彼に問う。
「ねぇ、…〝神子〟の自分はそんなに嫌い?」
私の問いに、無言のまま彼の目が見開かれる。ゲームの設定で、彼が兄の為に自分の才能を隠していたことは知っている。でも、予知能力者である私が彼の〝過去〟を知っている訳にはいかない。敢えて意地が悪いと思いながらも彼に投げかけた問いを私は引っ込めずに待つ。
暫く視線を浮かせたまま、何度も拳を握り直すセドリックは沈黙を続けた。喉を鳴らす音まではっきり聞こえるほどに静け切った中、やっと彼が再び口を開いた。
「……ああ、嫌いだ。」
どうしようもなく深く沈んだ声だった。その一言をきっかけにセドリックがギリッと整った歯を食い縛る。また俯かせた視線は、何かへの怒りに燃えていた。
「俺は、この目にするだけで全てを覚え、身に宿すことができる。〝神子〟と呼ばれた由縁だ。……だが、それが何になる?」
そのまま自分の右手の平に視線を落とす。まるで自身に問い掛けているような言葉と共に、その手が硬く握られた。
「この才は、俺が得るべきではなかった。…それだけは、断言できる。」
拳へ落とした視線に憎しみが宿る。
自分の容姿にいくら自信があっても、たとえどれ程持て囃されても、あんなに二人のお兄様から愛されても。
悲劇が起こるずっと前から、…きっと彼は自分自身を誰よりも嫌悪している。
〝外見〟を愛せても〝中身〟を愛せない。
「…勿体無いわね。」
思わず、先に言葉が漏れた。私の呟きにセドリックは視線をそのままに頷き「ああ、だから俺は生涯この才は」と続けるから最後まで言い切る前に「そうじゃないわ」と切り捨てた。何か勘違いしているらしい私の言葉を改めて彼へ訂正する。
「…セドリック、貴方のその才能は〝今の貴方にとっては〟忌むものでも憎むべきものでもないわ。」
ぽかん、と彼の口が小さく開かれたまま止まった。何を言っているのかわからないといった顔だ。私の方に向けられた瞳が惑うように揺れている。
…こんなに自分を苛むほどだ。きっと、単に兄の王位継承権を脅かす以上の何かもあったのだろう。ハンム卿と呼ばれた老人に「俺を玩具にした」と放った彼の言葉を思い出す。…良い思い出なんて一つも無いかもしれない。ただ、それでも。
「素敵な才能よ。…きっと、これからの貴方を幸せにしてくれるわ。」
何をっ…⁉︎と彼の声が上擦った。今の話を聞いていたのかと言わんばかりにその表情を険しくさせる。「大丈夫」と口を大きく開こうとする彼より先に私が言葉を続けた。
「…もし、私が神様だったら。……その才能を、ランス国王か貴方に授けなければいけなかったら。…きっと私も貴方に授けると思うわ。」
怒れば良いのか驚けば良いのかもわからないように彼の表情が強張り硬直する。見開かれた目が皿のように丸く、大きな瞳の焔がはっきりと姿を現した。…でも、本当にそう思った。だって、彼は。
「貴方は誰かを押し退けるくらいなら、全てを譲ってしまうような人だから。大事な人の為になら、最後には全てを捨ててしまうような人だから。」
そっと、彼の硬直する頬に触れる。痙攣するように小さく振動する肌が私の指も震わした。
「そんな貴方にこそ与えたい。貴方の大事な人も、貴方自身もいつか守ってくれる。そんな才能を。」
もう既に一度は役にも立ったでしょう?と戦場での彼を指す。彼が、守られるばかりでなかったことだけは確信できたから。
私の問いに彼は顔を歪めた。今度は怒りではなく、泣きそうになる時に見せるあの表情だ。
「そして、…ランス国王には王の器を。…きっとその理由は私よりも貴方の方が知っている筈よ。」
ぐ、と震えた顎で口を硬く閉ざす。そして子どものように大きく頷いた。焔色に燃えた彼の瞳がまた潤んでいくのがわかって、本当に泣き虫だなと思わず笑ってしまう。彼の湿りを帯びた目尻を指で撫でながら、…きっと本当に心が幼いままなのだと理解する。
「ランス国王は本当に素敵な国王よ。〝神子〟なんて跳ね除けちゃうくらいに偉大な人。…………弟の貴方が一番に信じてあげて。」
セドリックの目が、一瞬また大きく見開かれる。驚愕の一色のまま凍った彼はみるみる内にその顔を赤らめた。顔の温度が明らかに上がり、そして…その整った顔が大きく歪んでいった。
私に見せまいと俯きながら、その喉が引き攣るように音を鳴らし、更には呻いた。両の手のひらで目を押さえつけるように顔を覆い、前髪が掻き上がり、ぐしゃりと力を込めた指に掴まれた。
ぐっ、ゔ…ぁと堪えるような声がすぐに漏れてきて、私はそっとその背をさする。それでも彼は時折伝う水滴を誤魔化すように顎を擦り、口元を覆い、また目を押さえつけた。
泣き虫で、格好つけたがりで、優しくて。…………きっと、今まで出会った誰よりも弱い人。
「……頑張ったわね。…もう、大丈夫。」
長年、兄二人の為に自分の知識に蓋をし続けた彼へそう言葉を掛ければ、一気に彼から堪えることのない嗚咽が漏れ出した。肩を激しく震わせながら、咳込むような泣き声が部屋の中に響き渡った。
背中を丸め、蹲ったまま小さくなる彼が一瞬本当に十歳にも満たない子どもに見えた。背中を摩り続ける自分の手をそのまま気付けば彼の頭に乗せていた。手の込んだその髪型を気にせず撫でてしまえば、ふと彼の頭にこうして手を置いたランス国王とヨアン国王を思い出した。
知識を出来る限り捨て去り、成長を自ら止め、偏った知識だけを濁らせ、それでも兄達に相応しくあろうと背伸びをし続けた彼が。
…この、大きな少年が。
その持ち前の優しさや、他者を思いやる心を失わずにいられたのはあの二人がいたからだろう。
「……きっと、お兄様方のような素敵な人になれるのでしょうね。」
私と同年のこの男の子が、年相応の〝大人〟になれたその時は。
そう思いながら頭を撫で続ければ、私の手の重さとは関係なく彼の頭が頷くように沈んだ。
「………楽しみね。」
きっと、彼の時間はこれから動き出す。
そしてきっとすぐに追いつくのだろう。
彼は人の何十倍も早く、前に進めてしまう人だから。