321.第二王子は知らしめた。
「……遅い。」
ヨアン王子が家臣に呼ばれて一度席を立ち、更に兄貴も手洗いに出てしまい、今この部屋にいるのは俺一人だ。
部屋の外には護衛もいるが、だからといって呼ぼうとは思わない。兄貴とヨアン王子以外の人間は本当なら四六時中傍に置きたくなかった。それに、…ヨアン王子の部屋も最近は一人でも居心地が良かった。
ソファーから立ち上がり、部屋の窓から外を眺める。丁度、俺達が馬車を降りたところが遠目に見えた。更には美しい城下町も見下ろせる。白を基調としたチャイネンシス王国は何度見ても美しい。サーシス王国の城下も好きだが、チャイネンシス王国も好きだ。
『国が違おうと、同じハナズオ連合王国の片翼だ』
四年十カ月と二十八日前の兄貴の言葉を思い出す。…今ならば、その言葉の意味もわかる気がする。城下も、信じているものも、生活も違うが、…どちらも美しくて良い国だ。
何故、大人達はこんな簡単なことにも気づかないのだろう。やはり、兄貴やヨアン王子の言葉の方が正しい。
「…にしても、遅すぎる。」
未だ戻って来ない二人に少し苛つく。昔は何十時間椅子に座らされて勉学に縛り付けられようと、何時間何もせずに兄貴の傍にいても飽きなどしなかったのに。今は無性に飽きが来るし、時々落ち着かない。
仕方がなく、俺もヨアン王子の部屋を出る。護衛に声を掛けられ、手洗いに行くと言えば付いてくる。
暫く兄貴かヨアン王子を目で見回しながら、敢えて遠回りをして探し回る。護衛が何やら言ったが聞き流した。踊り場から下階を見下ろしたところで、ちょうど視界に我が国の上層部の者達が目に入る。物陰に隠れるようにして嫌な笑みと共にそれぞれが口を動かしていた。いつもなら視界に入れずに迷わず避けるが、その不快な笑みが酷く気になり足を止める。声を潜めているのか、ここからは全く聞こえない。
だが、口の動きさえ見えれば問題ない。
記憶と照らし合わせれば、何を話しているかなど口の動きから大体読み取れる。
踊り場からエージー卿達を見下ろし、睨みながら奴らの会話を盗み見る。
《全く…何故ランス様もセドリック様もこのような場所に頻繁に訪問されるのか。》
《特に神子であるセドリック様が、チャイネンシス王国に深く関わっては教育にも悪いというのに。あの御方まで頭のおかしな信仰をと言い出したらどうすれば。》
《噂ではヨアン王子の口車に乗せられ、ランス様も懐柔されたと。ランス様も神子の弟を持ったことで心が病み、異国の神に救いを求めたとか。》
《いやランス様はそのような柔な精神ではないだろう。いっそ、セドリック様くらいの警戒心を持って下されば…。》
《大体、ヨアン王子も何を考えているのか。我が国の王子二人を何度も呼びつけようなど。ひ弱な姿をしながら面の皮が厚い。優秀と名高いとはいえ、神子であるセドリック様に近づこうとすること自体が…》
読み取れば読み取るほど不快でしかない。
俺が一歩も動かず奴らを睨み付けていることに兵士がまた「セドリック様、どうかなさいましたか」と先程より大きな声で話し掛けてくる。
するとそのせいでエージー卿達がこちらを見上げて俺に気づいた。「これはセドリック様!」「我々はこれから馬車でお先にサーシス王国へ」と白々しい言葉を掛けてきながら、階段をわざわざ登ってきた。一歩引いて口を結び、俺は奴らを睨みつける。だが、ヘラヘラと笑いながら奴らは「ちょうど良いところに」と言葉を続けた。
「いつもはランス様と御一緒な為、なかなか直接お話できる機会がありませんでしたので。」
何故兄貴と一緒では都合が悪いのか。…そんなことはさっきの会話から推察すれば俺でもわかる。
先程の話を知られていたとも知らず、大人達は俺につらつらと語り続ける。
「ここだけの話なのですが、セドリック様。……ヨアン王子に何か良からぬことをされてはおりませんか?」
「いえ私共も心配しておりまして。ヨアン王子にはどうか重々お気をつけ下さい。何せ、チャイネンシス王国は…まぁ我が国と色々異なりますので。…ねぇ?」
「いくらお慕いされているランス王子殿下の御友人とはいえ、セドリック様まで無理をして親交する必要はありませんので。」
…これだから嫌だ。
都合の良いことばかり語り、己が非がないように逃げる。他の悪印象ばかりを俺に擦り付ける。
逃げ場もなく、ただ佇み黙りこむ俺に大人達がベラベラと続ける。兄貴とヨアン王子の悪口を語ったその口で、さも俺を心配するかのように語る。
「…であって、我々も〝神子〟であるセドリック様のことを心より心配して」
「お前達が、俺に何をしてくれた…?」
奴らの言葉を打ち消すように、気がつけば言葉が先行した。自分でも信じられぬほど低い声だ。俺の言葉に驚き、奴らの白々しい笑顔が薄れ、硬直していく。
「ヨアン王子は、俺や兄貴に強要など一度もしない。兄貴と同じように自国の民を想う良き王子だ。なのに何故お前達はまるで己の方がヨアン王子より俺に親しく信頼に足るかのように語る?俺の記憶ではお前達は誰一人とて俺に挨拶以外のことをしてくれた覚えなどないというのに。」
発作のように言葉が溢れ出す。息を吐ききるように言葉が止まらない。
エージー卿、各式典を含み、挨拶と俺が二歳の時からバートランドと五十一のやり取り。俺の特別教育を黙認。
ブッチャー卿、各式典を含み、挨拶と、俺が二歳の時からバートランドと五十一のやり取り。俺の特別教育を黙認。
ネペンテス卿、各式典を含み、挨拶のみ。三歳の時に俺の特別教育を知ったが黙認。
ハリセイ卿、各式典を含み、挨拶のみ。二歳の時から俺の特別教育を三度目撃したが黙認。
ジョンソン卿、各式典を含み、挨拶のみ。
ハンブロ卿、各式典を含み、挨拶のみ。
「言ってみろ、お前らが俺にどう関わり、どうして親しいと宣えるのか。俺の兄貴の友人を陥れておきながら、何故平然としていられるのか。俺がお前らを兄貴やヨアン王子よりも優先すべき理由を言ってみろ…‼︎」
俺の人生で何も与えてくれなかったこの男達が何故そこまで親しげに俺に縋り付く?何故、俺の大事な人を貶す?
敢えて強い言葉を選び、奴らを言及する。服の裾を強く握り締め、この目で見据える。
俺の言葉に次第に顔を青ざめる連中は、何か言い訳をしようと口をパクパク動かした。今まで俺は一度も大人相手に言い返したことなどなかった。口を噤み、逃げることしかしてこなかった俺が、産まれて初めて奴らに向き合った。
この感情を、怒りを〝敵意〟と呼ぶ事を俺はまだ知らない。
…俺は、第二王子だ。
八歳だった兄貴が前摂政のバートランド摂政を追い出せたように、俺だってその力がある。
こんな、大人達など敵ではない。
王族は我が国で最大の権力者。たとえ俺が〝神子〟を捨てた只の無能な子どもであろうと関係ない。この権威だけでもきっと充分力はある筈だ。俺は兄貴と同じこの国の王子なのだから。俺は、俺様は…‼︎
「…セドリック?」
不意に声が聞こえて振り返る。見れば、ヨアン王子が目を丸くして俺達の方を見ていた。どうしたんだい、と聞かれて、一度奴らの方へ振り向けば誰もが慌てた様子で俺を見返した。ヨアン王子にこのまま告げ口をしてやりたいが、兄貴にまで迷惑がかかるのは困る。
「…何でもない、挨拶をされていただけだ。」
俺が答えると、明らかに連中がほっと息を吐いた。奴らの為ではないというのに腹が立つ。俺は駆け出し、ヨアン王子の手を掴む。
「兄貴も手洗いから戻って来ない、一緒に探してくれ。…〝兄さん〟」
敢えて奴らにも聞こえるように言い張れば、ヨアン王子だけでなく奴らも驚いたように目を丸くした。ヨアン王子に「に…兄さ…?」と言葉を返され、その手を握り締めながら打ち消すように再び俺は声を張る。
「ヨアン王子は俺にとって、兄貴と同じくらい信頼に値する存在だ。だから兄さんと呼ぶ。…俺の、…俺様の特別だ。」
ヨアン王子…〝兄さん〟の手を握ったまま奴らに向き直る。誰もが戸惑ったように目配せし合い、視線を泳がせた。
兄貴が俺を助けてくれたのは八歳の時だった。ならば九歳の俺にもできて当然だともう一度息を吸い上げ、声を張る。
「俺様は兄貴と、…兄さんを悪く言う者は決して許さない。〝神子〟はもう居ない。だが、…」
ゆっくりと奴ら一人ひとりを指指す。エージー卿からハンブロ卿まで端から端まで指さし、その名を呼ぶ。俺が名を知っていると思わなかったのか、誰もがビクリと肩を震わせた。そして全員呼び終えてから、最後の最後に一言言い放つ。
「…お前らのことは〝覚えたぞ〟」
決して忘れない。
バードランド卿達のようにその顔も、言葉も全て俺の頭に焼き付けた。たとえ何があろうとも、次はない。それを奴らに告げる。
真っ青にした顔で、とうとう奴らが目に見えて震え出した。
そして俺ももう用はない。〝兄さん〟の手を引き、部屋の方向へと駆け戻る。ずっと何も言わなかった兄さんだが、そのまま部屋の前で兄貴が戻っていないことも衛兵に確認した後からやっとその口を開いた。
「…ありがとうね、セドリック。」
「…。…どこまで、聞いていたんだ。」
どこか含んだような兄さんの口振りに、隠す事は止めて問う。「セドリックが彼らに見つかる前からかな」と答えられ、俺よりずっと前から奴らの悪口に耳を澄ませていたことを知る。
すぐ俺のもとに駆けつけたかったが、自分が出ると拗れると思いずっと様子を窺っていたらしい。「あと〝俺様〟は少し口が悪いよ」と言われたが、聞かなかったことにする。大人相手に見栄を張りたかったなどと、口が裂けても言いたくない。
「…何故すぐに言わなかった?ここは兄さんの国だ。奴らを罰することなど容易いだろう。」
俺の続く問いに兄さんが苦笑する。「聞き慣れた話だからね、今さらさ」と言われて奴らのあの陰口はずっと昔からだとやっと知る。…余計に腹が立つ。俺が兄貴に言って奴らを罰するかと聞いたが、兄さんは首を横に振った。
「良いんだ、あと数年の辛抱だから。…今はランスや君とこうして会える時間の方が大切だ。」
両国の間に波風を立てるわけにはいかないからね、と兄さんは笑った。そのまま俺の握る手に少し力を込めて「こうして手を繋ぐのなんて、ランスに紹介された時以来だね」と懐かしそうに言った。
「……あと、数年の辛抱とはどういう意味だ。」
兄さんの手を握り返しながら、目を逸らす。すると兄さんは少し意外そうに間を作った後、「言わなかったかな?」と逆に俺へ聞き返した。
「約束したんだ、ランスと。僕ら二人が国王となった暁には互いの国の見えない壁すら打ち壊し、〝ハナズオ連合王国〟を良い国にするとね。」
そう言って笑む兄さんは、今日の中で一番眩しい笑みをしていた。そのまま「だから大丈夫だよ」と告げるその顔は、自信というより確信に近かった。
兄貴と兄さんの約束。
俺は、今まで知らなかった。兄貴が今まで俺に教えてくれなかったことが若干引っかかったが、…それ以上にその約束は俺にとって希望だった。
兄貴と兄さんが肩を並べて統べる国。きっとしがらみもない優しい国になるだろう。ただ、…
その時、俺には兄貴達以外は何が残るのだろう。
「そういえばセドリック、その呼び方はまだ続けるのかい?」
もう誰も見ていないよ?と兄さんが聞くが、俺は首を傾げる。何故わざわざ変える必要があるのだろう。俺にとって、ヨアン王子はもう〝兄さん〟となった。ならば、もうそれ以外で呼ぶ必要などない。
それを兄さんに言えば、こめかみを指先で押さえながら何故か考え込む仕草をした。…が、すぐに「やっぱり君はランスの弟だね」と俺にとって最高の褒め言葉と同時に苦笑気味に溜息をついた。
部屋の方へ戻ると兄貴と鉢合わせた。
少し慌ただしく「セドリック!何処に行っていた⁈」と言われた。兄貴も兄貴で途中でチャイネンシス王国の人間と雑談に足を取られていたらしい。俺が二人を探しに行っていたことを伝えると「最近やっと離れても平気になったと思えばこれか」と言いながら、待たせてすまなかったと謝ってくれた。…道中何もなかったかと軽く聞かれ、兄さんと目配せした後に頷いた。
「…兄貴。」
三人で部屋に戻ってすぐ、兄さんの手を握ったまま兄貴に声をかける。なんだ、とすぐに振り返ってくれた兄貴はそのまま小首を傾げた。
「俺も、兄貴と兄さんの統べる国が見たい。」
兄さん⁇と兄貴が聞き返したから、握った手を引っ張り示すと兄さんがはにかみながら軽く兄貴へ手を挙げた。俺と兄さんを見比べてから兄貴は明るく笑って俺の頭を撫でた。
「ならば、俺もますます精進せねばならんな!」
兄貴の軽快な笑い声が響く。そのまま「〝兄さん〟か!ならば俺とヨアンも義兄弟同然だな!」と楽しそうに今度は兄さんの背を叩いた。
「君のその柔軟過ぎる部分には毎回驚かされるよ…。」
やはり兄弟だね、と兄さんがまたそう言って俺に柔らかく笑んだ。
夢とも呼ぶべき希望を、俺はこの日手に入れた。
…何も、残らなくても良い。
兄貴と兄さんが皆に認められて、夢を叶えて、二人が望む国になれば良い。
神子を葬ったあの日から、俺にできることなど何もない。
兄貴と兄さんだけが、俺の全てだ。