320.第二王子は教えられた。
「おぉ!ランス様、セドリック様もチャイネンシス王国に御用事でしたか?」
俺が九歳の誕生日を迎えてから二ヶ月と三日後。
いつものように兄貴の友人であるヨアン王子へ会う為、チャイネンシス王国へ訪れた。するとそこで俺と兄貴は、ヨアン王子の城前でサーシス王国の上層部でもあるエージー卿とその部下達に会った。
「エージー卿。…ああ、ヨアン王子と約束をしていてな。」
落ち着いた様子で受け答えする兄貴の背後に隠れながら、俺は奴らを睨む。「そうですか、私共もこれからでして」と奇遇だ何だと喜ぶ大人達と俺は会話などしたくもなかった。未だに俺に取り入ろうとする大人は後を絶たない。今も兄貴と会話しながら他の連中がチラチラと視線を俺に向けてきていた。
未だに〝神子〟の噂は上層部の頭には残っている。
そして俺は、…変わらず誰とも言葉を交わしたくなかった。兄貴と、そして
「やぁ。ランス、セドリック。待っていたよ。」
…ヨアン王子以外には。
俺達が訪問することを知っていたヨアン王子が柔らかい笑みで、護衛達と共に迎えてくれる。
兄貴に誘われてチャイネンシス王国を訪問してから一年と二十六日後。
ヨアン王子は、兄貴の言った通りの良い王子だった。
兄貴と同年齢の彼は、歴代のチャイネンシス王国の王族の中でも優秀な王子らしい。
彼は会ってすぐ、俺が勉学を避け続ける理由に気づいた。城の大人達にも兄貴にすら気づかれなかったことを。
〝神子〟と呼ばれ、信仰深いチャイネンシス王国の神を愚弄するような異名を持つ俺は、忌み嫌われている。…筈だというのに。ヨアン王子は、全くそう思わないと言った。
『だって、君は国で一番の王の器を持つランスの弟なんだから』
ヨアン王子は初めて俺を〝神子〟ではなく、兄貴の弟として見てくれた。
それが、死ぬほど嬉しかった。
「ヨアン、すまない。こちらの来訪が重なってしまったらしい。」
「いや良いよ、僕も完全には把握していなかったからね。」
そのままヨアン王子が衛兵にエージー卿への案内を任せ、そのまま俺達を自室へと招いてくれた。
ヨアン王子の存在は、俺にとって兄貴の次に救いだった。
兄貴の良さを知って、そして俺のやろうとしていることも理解してくれた。
知ってくれる人が現れた、気づいてくれた人がいた。
兄貴を、ちゃんと見てくれる人がいたのだと。
「…で、セドリック。また教師から逃げてきたのかい?相変わらず足が速いね。」
「笑い事ではないぞ、ヨアン。セドリックは人より賢いが、学ばなければそれも宝の持ち腐れだ。」
ヨアン王子の言葉に兄貴が唸る。…むしろ、持ち腐れることこそが狙いなのだが。
兄貴は未だに俺が勉学から逃げる度追いかけてくる。兄貴の威厳に傷がつくのは困るから、兄貴に見つかれば捕まらざるを得ない。お陰で今日も少し知識を吸収してしまった。
「セドリック。せめて選別してみたらどうかな。君が身につけて役に立つ知識だってあるよ。例えば歴史や法律、マナーや教養、それに」
「要らん。」
ヨアン王子の言葉を途中で遮る。すると、すかさず兄貴が俺を叱った。
ヨアン王子は俺のすることを支持してくれると言ったのに、何故か全ての勉学を逃げることに関しては毎回説き伏せてこようとする。
一ヶ月と十日前など「大人に覚えたことを知られたくないなら、僕がこっそり教えれば良いだろう?」と囁かれた。当然断った。俺はこうして勉学を覚えずとも問題なく生活は出来ている。なのに無駄に知識を増やしたくはなかった。どうせ生きているだけで俺は勝手に無駄な知識が増していくのだから。
それに、サーシス王国の歴史や法律ならば既に頭に入っている。他国の歴史についても四歳の時までに読まされた分は全て頭に入っていた。…だからといって、教師の前で暗唱をすればまた神子の噂が大きくなるだけだ。
「そんなことよりも、どうせならチャイネンシス王国の話を聞かせてくれ。」
いつもの俺の要望に、ヨアン王子が苦笑する。兄貴が隣で頬杖をつきながらも少し笑んだ。
ヨアン王子と関わるようになってから、俺は兄貴と共にチャイネンシス王国に毎回赴くようになった。
最初は怖かった馬車の外の景色も、次第に覗くことができるようになった。…なんて事のない、我が国と建物など違いはあったが民の様子は全く変わらなかった。
教会という建物が多くあり、それが話に聞いていたチャイネンシス王国の信仰の一欠片かと思えば、全く悍ましさも恐怖も感じられない、むしろ美しい建造物だった。
こんな綺麗な景色を、俺はずっと怯えていたのかということが信じられなかった。
我が国で大人達から教えられたことなど、全く当てにならないと思った。…特に、チャイネンシス王国のことは。
初め、ヨアン王子にチャイネンシス王国について教えて欲しいと言った時は兄貴共々驚かれた。勉学を避け続ける俺が、教えを請うのが意外だったらしい。
だが、あの大人達の言葉よりもずっと兄貴とヨアン王子の話の方が俺は信じられた。その為にも知りたいと、そう思った。
ヨアン王子が兄貴に確認を取り、それから俺にソファーを勧めた。
「今日は何を話そうか」と聞かれ、少し悩んだ。今までもチャイネンシス王国の信仰や習慣、血の誓いなどの儀式、チャイネンシス王国とサーシス王国の諍いについても聞いたが、どれもいくら聞いても足りぬほどに興味深かった。
サーシス王国との違いがあればあるほど、その違いを知ることが俺にはただひたすら面白かった。
聞きたいことを考え、答えを探すように部屋を見回すとふいにヨアン王子の胸元に目がいった。
「…その、ペンダントは。」
俺の問いにヨアン王子は「ああ、これかい」と自身のクロスのペンダントを握ってみせた。
教会にもこれと同じモチーフが何処かしらに掲げられていた。以前の話で信仰する神の象徴だと聞いたが、身に付けるのも信仰の一つなのかと尋ねればヨアン王子は明るく笑った。
「別にこれを身に付けていなければならないという物ではないよ。ただこれはー…そうだな。……御守り、かな。」
どこか照れ臭そうに笑うヨアン王子は、ペンダントを一度外して俺に掲げて見せた。
白を基調としたクロス。鉱物が盛んなチャイネンシス王国だが、このクロスは何の装飾もないシンプルな造りだった。
「シンボルを身に付けることで、神が共にいて下さる。その加護で僕らを守って下さる。…そうであって欲しいと、願いを込めているんだ。」
僕にとってずっと支えだった、と語るヨアン王子の目に陰りが落ちた。ヨアン王子もまた、独りだったのかと…少し思った。
「神には、…形はない。これもあくまでシンボルで、神自身なわけではない。僕らの信仰では神を偶像化することは禁じられている。」
姿形の無い存在を信じる。
…それは未だ俺にも理解できない。だがひたすら一つのものを信じる姿は美しいと思ったし、…少し解る気もした。むしろ、信じられる存在に神も兄貴もいるヨアン王子が羨ましいとさえ思えた。
俺や兄貴が訪問している間も俺達の前で神に祈るヨアン王子の姿を何度か見たが、全く大人達から聞いたような邪教には見えなかった。
「神に祈り、歌い、教えを守り、そして感謝する。…以前にも話した通り、それが僕らの信仰の全てだ。だからこそもっと傍に居たいと、神に尽くしたいと…そう思ってしまうのだろうね。」
そう言って、ヨアン王子が再びペンダントを自身の首へと掛け直した。クロスが揺れ、窓からの陽に反射し、白く輝いた。
「そして、…強要するものでもない。ただ、君やランスが僕らのこの生き方を認めてくれたら…僕らはとても嬉しいよ。」
俺の頭を柔らかく撫でるヨアン王子が、そのまま俺の後に兄貴と目を合わせた。穏やかなその笑みに俺も頷いて答えた。
この日、俺はまたチャイネンシス王国についての本当の知識が増えた。だが、当時恐れていた洗脳など全くなかった。
いくらチャイネンシス王国の価値観や文化を知ったところで、単に俺の知識が増えるだけ。そして
『忌みも、嫌悪も、穢らわしいとも思わない。僕の神に誓おう、セドリック』
…少し世界が広がる、それだけだった。