319.第二王子は殺した。
勉学の時間は、好きでも嫌いでもなかった。
兄貴と分断されるのは嫌だったが、四歳の時までと違って勉学の時間は決まっていた。その間にひらすら教師に課せられる内容を覚え、暗唱して教師からの問いに答えればそれで良かった。
日を増し、少しずつ勉学の時間を重ねるごとに俺の知識は増えていた。
「……木登り…。」
兄貴がいつものように、俺が引き止めたのにも関わらず馬車でチャイネンシス王国へ行ってしまった。九日前に八歳になったばかりの俺が十二歳の兄貴に敵う筈もなく、結局毎回馬車へ逃げられてしまう。
護衛やダリオ宰相が背後に付いて来ながら、俺は自分の部屋に向かった。その途中、何となく城の傍の木に目が留まった。
兄貴と初めて城下に降りた時、城下の子どもがやっていた遊びだ。
『…ん?あれか。木登りだな。…なるほど、お前も身体を動かす遊びなどをするのも良いかもしれんな。どうだ?』
兄貴の言葉を思い出す。
身体を動かす遊び、…確かに今まで一度もやってみたことはなかった。兄貴に助けられるまではずっと本の記憶と暗唱。兄貴に助けられてからは、ずっとその傍を離れなかった。
記憶の中の、木登りしていた子どもを思い出す。どのように手をついていただろうか、どのように足を掛けていただろうか。
そんなことを思い起こしながら、ダリオ宰相達の言葉を無視し、手足を動かした。そしていとも簡単に、俺は頂上まで登りきった。
あまりに簡単過ぎて、一番高い枝に足を掛けた後になってからやっと気づいてダリオ宰相達を見下ろした。俺より遥かに背の高い大人達が皆、俺の目線の下にいたのが不思議だった。いつも俺を見下ろしていた大人達が、俺に降りてくるようにと声を上げながら、青い顔をして慌てふためいていた。
気分も良くなり、何より誰も傍にいない感覚が清々しくて、暫くそのまま枝に腰掛けて寛いだ。
…気がつけば、兄貴が帰ってくる時間までずっと木の上にいた。
足下から兄貴の声がして「セドリック‼︎そこで何をしている⁈」と怒られた。いつも笑ってくれる兄貴が怒るのが楽しくてずっと見ていると、途中から「降りられないのか⁈」と今度は心配そうな声が聞こえた。その途端に何故か胸が重く疼き、仕方なく俺は木から降りた。
「馬鹿者!あんな所に登ったら危ないだろう⁈落ちて怪我でもしたらどうする⁈」
…そしてすぐ、降りたことを後悔した。
今までこんなに兄貴に怒られたことはなかった。
そのまま引っ張られる形で兄貴の部屋に連れられていった。
「何故突然木に登ろうとした?」
「…木があったから。」
「護衛達も止めたのだろう?何故断行したんだ。」
「…登れて、…楽しかったから。」
「何故ずっと降りてこなかった?」
「……居心地良くて。…兄貴、いなかったし…。」
「足を滑らせたり枝が折れて怪我をしたらどうするつもりだ?」
「…………考えてなかった。」
兄貴の問いに答えながら、目を合わせられずひたすら下を向く。兄貴の説教を一から百まで聞いた後、悪いことをした後は謝るものだと教えられる。
兄貴に心配をかけたことはわかったから、生まれて初めて謝った。それに兄貴が長い溜息を吐いた後、最後にもう一つだけ思い出したように俺に問い掛けた。
「…そういえば、木登りなど誰から教わった?」
最初は、意味がわからなかった。わからぬままに「この前、兄貴と城下に降りた時に一緒に見ただろう」と答えれば兄貴は顎に手を置いたまま首を捻った。
「まさかセドリック。…一目見ただけで、できるようになったのか?」
今度は俺が首を捻る。その後すぐに頷けば、兄貴は腕を組んでなにやら考えるような様子で唸った。「まぁ…木登り程度ならば教わらずともできるだろうが」と呟きながら、思いついたように言葉を紡ぐ。
「もしかすると、…記憶だけではなくお前はそれを技術に昇華することもできるのかもしれんな。」
あくまで、仮定だが。独り言のように呟いた兄貴の言葉に、全身が総毛立つ。目を限界まで開ききる俺に、兄貴は気がついたように瞬きし、笑った。
「まだ仮定の話だ。それに、お前が言わん限りは誰にも言いふらさん。」
心配するな。そう言って、兄貴はいつものように俺の頭を撫でる。「もしできるのなら凄いことだ。傲ってはいかんが、忌むことではない」と笑う。
「…俺も、お前に恥じぬようにより一層努めなければならんな。」
息を吐き、柔らかく言ってくれた兄貴の言葉が突き刺さる。
見れば、優しく笑んでくれた兄貴には陰りも何もなかった。本当に、俺への善意だけでそう言ってくれていたのがよくわかる。だが、
…………だめだ。
駄目だ。それだけは、わかる。
俺が、覚えれば覚えるほど兄貴を追い詰める。
兄貴が、何時間も何日も何週間も何ヶ月も何年も掛けて努力して覚え、身につけていった全てを、俺が無意味にしてしまう。
あんなに、あんなに兄貴が努力しているのに。その全てが、俺のせいで台無しになる。
気づいた瞬間、恐怖が波打ち俺を襲った。
全身の震えを押さえつけるように自分の両腕を強く掴み、握り締める。筋肉が強張り、目の焦点が合わなくなった。荒い息を飲み込むように喉を鳴らしたが、砂を飲んだように乾ききっていた。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い…
兄貴の人生を、俺が台無しにする。
兄貴の努力を、俺が殺す。
兄貴の夢を、俺が壊す。
兄貴の未来を、俺が奪う。
俺を救ってくれた兄貴を、俺が追い詰める。
いっそ、この目も耳も潰したい。
セドリック?と兄貴が俺に首を傾げる。
俺が言葉を出せずに見つめ返すと、兄貴は「疲れたのか」と隣に座り、寄りかからせてくれた。兄貴の言った通りの振りをして、眠るように目を瞑る。
…愚かになりたい。
馬鹿で、無能の役立たずが良い。
知識なんて要らない。
才能なんて要らない。
王座など欲しくもない。
ただ、兄貴が幸福であればとそう願う。
どうすれば、俺は何も奪わずに済む?
……触れなければ良い。
知識に関わる全てに触れなければ、避け続ければ良い。勉学の時間はもう受けない。目に入れず、話も聞かない。…そうすれば、これ以上知識を得ることもない。兄貴を追い越す心配も、これ以上賢くなる心配もなくなる。
この才能を隠し続ける。できない、忘れたと言い張ればきっといつかは〝神子〟の名など風化する。俺はただの愚かな子どもだ。
勉学を怠けて避けて愚者となり、神子でもなくなった俺にきっと誰も王になれとは言わなくなる。
そうすれば、きっと皆は兄貴に気づく。
兄貴がどれほど努力しているか。
兄貴がどれほど民を、国を想っているか。
兄貴がどれほど素晴らしい王の器か。
気づいて欲しい、俺の自慢の兄の存在を。
この冷たい世界で、唯一温かな存在を。
兄貴の努力が、優しさが、全てが実るその日まで俺は
神子を、殺す。