318.第二王子は理解した。
兄貴に救われてから、あと十二日で二年が経つ。
兄貴は、以前から話していたチャイネンシス王国へ二ヶ月と五日前に赴き、ヨアン王子とも親交を深めるようになった。
以前俺に話してくれた通り、チャイネンシス王国への訪問から帰ってきた兄貴は、ヨアン第一王子が良き王子だったと嬉しそうに話してくれた。
チャイネンシス王国にお前も行ってみないかと何度も兄貴には誘われたが、俺は拒み続けた。
これ以上、知らぬ知識に侵されるのが怖かった。
〝神子〟…見るだけで、聞くだけで俺はその全てを吸収してしまう。
チャイネンシス王国はハナズオ連合王国と名を冠してはいるが、文化も信仰も何もかもが我が国と異なる国だ。異質な価値観を再び吸収してしまうことが怖かった。
更に、以前までは上層部の人間達からもチャイネンシス王国の様々な悪評を聞いていた。邪教、頭がおかしい、頭の固い、狭き国と。そして、神子と呼ばれる俺の事を白い目でみている。…俺の、敵だと。
奴らが何度も繰り返し「チャイネンシス王国にはお気をつけを」「見てはなりません」「神聖なセドリック様の脳に、穢らわしい情報を混ぜてはなりません」と唱え、式典などでチャイネンシス王国へ行く際にも馬車の外は見ないようにと強く禁じられた。
一体どれほどの恐ろしい景色が広がっているものかと考えると怖くてたまらなかった。同じ馬車に乗っている者が平然としている中、俺一人が到着まで耳を塞ぎ目を閉じ続けていた。
あの大人達よりも、兄貴の言葉の方が信じられたがそれでも、…やはり恐怖心の方が勝った。
普通ではない、俺は。
もし、チャイネンシス王国に足を踏み入れれば、様々な価値観をこの目と耳で俺は吸収し、知らず内に植えつけられてしまうかもしれない。
もしかしたらサーシス王国に戻る頃には、全くの別人になっているかもしれない。
兄貴に救われる前の、大人達に洗脳されきって道具と成り果てていたあの時のように。
兄貴に何度誘われても、俺はチャイネンシス王国に行く気にはなれなかった。兄貴が離れる恐怖だけが勝り、何度も馬車に乗ろうとする兄貴を引き止めた。
それでも行ってしまう兄貴を見送った後は、ひたすら城の人間から逃げ、部屋に引き篭もり続けた。時折、ヨアン王子が我が国に訪れることもあったがやはり俺は関わらぬように避け続けた。要らぬ知識や価値観を与えてくるかもしれぬ〝異国〟の王子を警戒し続けた。
兄貴にだけ良い顔をして、裏でどのような醜い顔を持ち合わせているかもわからない。…あの時の大人達のように。
何より、たとえ本当に兄貴のことは良く思っていても俺のことをどう思っているかは別だ。信仰を守り、神を愛するチャイネンシス王国の人間にとって、俺の〝神子〟と呼ばれる異名はきっと穢らわしい…忌むべき存在だろう。
兄貴は言っていた。
ハナズオ連合王国は一つの国だと。
チャイネンシス王国は良き国だと。
そして、ヨアン王子は良き王子だったと。
だが、俺が受け入れられるかどうかは別だ。
…別に、構わない。
兄貴がいてくれれば、それで良い。
兄貴は俺に世界の広さを教えてくれると言ってくれたが、書物である程度国外のことは把握していた。サーシス王国が小国であることも、全くの異文化や大国があることも知っている。
しかし、世界中を探したところで俺の居場所など兄貴以外ありはしないだろう。
…城内でも、自分の部屋よりも遥かに兄貴の傍の方が居心地が良かった。兄貴の隣に居れば安心でき、まるでそこだけが安全地帯かのようだった。
何もせずただ座っただけの俺を兄貴は暇でないかと何度も心配してくれたが、全く問題はなかった。
たとえ本が無くとも、今まで読まされた膨大な量の書物の内容が俺の頭には入っていた。それを頭の中で再び紐解けば、暇することなどなかった。
兄貴以外は何も必要ないと、心からそう思った。
…だが、六歳の誕生日を迎える四ヶ月と十日前。その時、俺は理解した。
己が立場と、その罪を。
最初に知ったのは、〝悪意〟と〝善意〟。
〝凡人〟の兄貴が陰口を囁かれていること。
〝神子〟の俺が一部の上層部に異常な評価で崇められていること。
俺が一目で覚え、半刻もしない内に暗唱できる内容を兄貴は何日も反復して勉強し続けていた。
六歳の時から、俺が変わっているだけで〝忘れる〟ことは常人にとっては普通のことだと知っていた。
一度で全てできる俺などよりも、一度でできないことを何度も繰り返し反復し努力し続ける兄貴の方がすごいし偉いに決まっている。
…だが、他の連中はそう思わなかった。
〝凡人の第一王子〟〝天才の第二王子〟
常に兄貴と俺を比べ、そして兄貴を見下した。
俺のせいで向けられる必要のない眼差しを向けられ続けた兄貴は、それでも努力を怠らなかった。
簡単にできないことを努力だけでやり遂げる。
そんな兄貴のすごさは俺の存在に塗り潰された。
王制は順当に行けば第一王子の兄貴に決まっている。だが、上層部の連中の中には未だに〝神子〟である俺を第一王位継承者にとも言い出す者も多くいた。
そして、俺は理解した。
俺は、できてはいけない。
俺ができればできるほど、兄貴を追い詰める。
あれほど努力し、民や国のことを想う兄貴が俺のせいでその席すら奪われるかもしれない。
俺は、国王になりたいなどと思ったことは一度もない。
俺が大事なのは兄貴だけだ。国にも民にも興味はない。
兄貴ほど国の為に努力している王はいない。
兄貴ほど国や民のことを想う王はいない。
兄貴ほど優しく立派な王などいない。
なのに何故わからない?何故誰も気付こうとしない?
『流石ですセドリック様!』『素晴らしいですセドリック様!』『まさに神子の名に相応しい‼︎』『凡人のランス王子とは比べることすら烏滸がましい‼︎』『やはり次世代の王は貴方様です‼︎』
兄貴に救われた後も、俺の教師や世話係になった者の中にバートランド摂政と似た大人はいた。俺を独占しようとする大人、規定以上の時間を勉学で埋めようとする大人、俺に取り入ろうとする大人…だが、兄貴がすぐに気づいて助けてくれた。
その時に放たれた言葉は理解はできずとも、全てその大人達の異常な目の色と共に覚えている。
そして、今まで何度も何度も言われ続けていた言葉のその意味を、…とうとう俺は理解した。
あれは、俺への善意。そして兄貴への悪意だった。
誰も、気づいていない。
俺なんかよりも、ずっと王となるべき兄貴の存在を。
そして俺の〝神子〟の呪いはそれだけに止まらなかった。